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淡々晋書  作者: ンバ
第百、張昌伝
244/313

一、義陽のアジテーター

303年前後に、荊州で

反乱を起こした張昌ちょうしょう伝。

1.

張昌,本義陽蠻也。少為平氏縣吏,武力過人,每自占卜,言應當富貴。好論攻戰,儕類咸共笑之。及李流寇蜀,昌潛遁半年,聚黨數千人,盜得幢麾,詐言台遣其募人討流。會壬午詔書發武勇以赴益土,號曰「壬午兵」。自天下多難,數術者雲當有帝王興于江左,及此調發,人咸不樂西征,昌黨因之誑惑,百姓各不肯去。而詔書催遣嚴速,所經之界停留五日者,二千石免。由是郡縣官長皆躬出驅逐,輾轉不遠,屯聚而為劫掠。是歲江夏大稔,流人就食者數千口。


(訳)

張昌ちょうしょうは本来、義陽の蛮族である。


少くして平氏へいしの県吏となった。

武力は人に過ぎたるものであり

自らを占卜せんぼくするたびに

富貴になるであろうと述べていた。


攻戦について論じることを好んだが、

儕類(同輩)は咸、共にこれを笑った。


李流りりゅうが蜀を侵略するに及んで

張昌は密かに隠遁し、

半年で支党数千人を集めて

幢麾(官員の旗)を盗み取り、

お上が李流討伐の為に

人員を募っていると詐って述べた。


その折に「壬午じんご詔書しょうしょ」が発され

武勇(に秀でた者)が

益州の地へ赴いており、

号して「壬午兵」といった。


天下が多難となって以来

数々の術者が

「帝王が江左に興るであろう」

と述べており、

こうして徴発に及んで人々は

咸、西征に不満を抱いた。


張昌の一派はそこでこれを誑惑し、

百姓は各々(西征を)肯じずに

去っていってしまった。


詔書によって、くれぐれも

迅速に赴くよう催促され、

経過した所で

五日間停留してしまった者は

二千石(太守)が罷免となる

ものとされた。


これに由り、郡県の長官は

皆が躬ら駆逐に出向いたのであるが

輾轉(曲折)して遠征できず、

屯集して掠奪を為した。


この年、江夏は大いに

(作物が)みのっており

流民数千口が食糧に有り付けた。


(註釈)

張昌は晋書の100巻、

王弥や蘇峻といっしょに

反乱指導者のカテゴリに纏められてます。


張昌は義陽のひと。

曹魏の時代に

南陽郡を分けて義陽郡にした。

平氏県もやはり義陽郡にあります。


原文だと「義陽蠻」

荊州は武陵郡に武陵蛮という

蛮族軍団がいたらしいから

義陽蛮がいたっておかしくないよね。


字が書かれてないのも、蛮族だからかな。



西晋末期、益州では

異民族の李氏(成漢の創始者)と

羅尚らしょうが争っていた事は

既に羅憲らけん伝で見てきた通りです。


このドサクサに紛れて

張昌は荊州で独自の勢力を築いた。


朝廷は詔勅を下して、荊州の人員を

益州へ動員させようとしたけれど

みんな乗り気じゃなかった。


痺れを切らした朝廷、

「5日停留したら各太守クビにするからな」

とのお達しを出したが

かえって混乱を招く結果になった模様。


時期的に

蒲阪の戦い(恵帝が負けるヤツ)

の少し前くらいだから

もう西晋王朝の求心力も低迷してる

頃合いだったと思われる。


張昌はこの時豊作だった

江夏郡に拠り、とうとう

反乱を起こしてしまうのであった。


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