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淡々晋書  作者: ンバ
第五十七、羅憲伝
241/313

一、季漢最後の闘将

1.

羅憲,字令則,襄陽人也。父蒙,蜀廣漢太守。憲年十三,能屬文,早知名。師事譙周,周門人稱為子貢。性方亮嚴整,待士無倦,輕財好施,不營產業。仕蜀為太子舍人、宣信校尉。再使于吳,吳人稱焉。時黃皓預政,眾多附之,憲獨介然。皓恚之,左遷巴東太守。時大將軍閻宇都督巴東,拜憲領軍,為宇副貳。魏之伐蜀,召宇西還,憲守永安城。及成都敗,城中擾動,邊江長吏皆棄城走,憲斬亂者一人,百姓乃安。知劉禪降,乃率所統臨於都亭三日。吳聞蜀敗,遣將軍盛憲西上,外托救援,內欲襲憲。憲曰:「本朝傾覆,吳為脣齒,不恤我難,而邀其利,吾寧當為降虜乎!」乃歸順。於是繕甲完聚,厲以節義,士皆用命。及鐘會、鄧艾死,百城無主,吳又使步協西征,憲大破其軍。孫休怒,又遣陸抗助協。憲距守經年,救援不至,城中疾疫太半。或勸南出牂柯,北奔上庸,可以保全。憲曰:「夫為人主,百姓所仰,既不能存,急而棄之,君子不為也。畢命於此矣。」會荊州刺史胡烈等救之,抗退。加陵江將軍、監巴東軍事、使持節,領武陵太守。泰始初入朝,詔曰:「憲忠烈果毅,有才策器幹,可給鼓吹。」又賜山玄玉佩劍。泰始六年卒,贈使持節、安南將軍、武陵太守,追封西鄂侯,諡曰烈。

(訳)

羅憲らけんの字は令則れいそく襄陽じょうようの人である。


父の羅蒙らもうは蜀の広漢こうかん太守であった。


羅憲は年十三で能く文を綴り

早くから名を知られた。


譙周しょうしゅうに師事し、

譙周門下の者からは「子貢しこう」と称されていた。


性格は公正厳粛で

士を待遇する事をまず

財を軽んじて施しを好み

産業(金儲け)には携わらなかった。


蜀に仕えて太子舍人たいししゃじん宣信校尉せんしんこういとなった。


二度呉に使いし、呉の人から称賛された。


当時は黄皓こうこうが政治に参預し

衆人の多くは彼に附いていたが

羅憲だけは介然としていた。


黄皓はこれに恚怒して

巴東はとう太守に左遷された。


当時、大将軍の閻宇えんう

巴東の都督となっており、

羅憲は領軍に拝され、閻宇の副次とされた。


魏が蜀を征伐すると

召喚された閻宇は西へ帰還し

羅憲は永安えいあんの城を守った。


成都が敗れるに及んで城内は動揺し、

長江近辺の長史はみな

城を棄てて逃走してしまったが、

羅憲が騒ぎを起こした者を一人斬ると

百姓はかくて落ち着いた。


劉禅が降伏した事がわかると、

そこで統領する所を率いて

都亭に臨む事が三日に及んだ。


呉は蜀が敗亡したと聞いて

将軍の盛憲せいけんを西方へと上らせ、

表面上は救援に託けて

内心では羅憲を襲撃しようとしていた。


羅憲は言った。


「本朝は転覆した。

呉は唇と歯を為しながら

我らが危難をあわれまず

その利益を求めようとは、

吾がどうして降虜となろうか

(死んでも貴様らなんぞに降るか!)」


かくて(西晋に)帰順した。


こうしてよろいを修繕し、

城郭を修築して人々を集め、

節義を以てはげましたため

士卒はみな命令を遵奉した。


鍾会・鄧艾が死ぬと

百城が主の無き状態となり、

呉の方でも歩協を西征に遣わしたが

羅憲はその軍勢を大破した。


孫休は怒り、今度は陸抗を派遣して

歩協を救援させた。


羅憲は年を経ながら防衛したが

救援は至らず、城中の大半が

病疾に罹ってしまった。


南の牂柯へ転出、北の上庸へ奔走して

安全を保つべきだと勧める者もいたが

羅憲はこう言った。


「そもそも人主となれば

百姓から仰がれる所であり、

既に存在しないとあっても

急ぎそれを放棄するというのは

君子のする事ではない。


この場で命を全うするぞ」


そんな折に荊州刺史の胡烈これつ

羅憲を救援したために

陸抗は退却していった。


陵江りょうこう将軍・監巴東軍事かんはとうぐんじ使持節しじせつを加えられ

武陵ぶりょう太守を拝領した。


泰始たいし年間の初期(265〜)に入朝した。

詔にいわく、


「羅憲は忠烈にして果断、

計策、器量、才幹を有しており、

鼓吹を支給すべきであろう」


一方で山玄玉と※佩剣を賜った。

(※剣を佩いたまま入殿する権利か)


泰始六年(270)に卒した。

使持節・安南あんなん将軍・武陵ぶりょう太守の位を追贈され

西鄂せいがく侯に追封され、「れつ」と諡された。


(註釈)

羅憲は三国志の作者、陳寿の同門。

仲間内では子貢に比されるほど

レベルの高い人材。

 

襄陽人だから、荊州から

劉備陣営に合流したグループですね。

魏延ぎえん霍峻かくしゅん馬良ばりょう蒋琬しょうえんあたりと一緒。

親世代の羅蒙や羅式がたぶん

劉備に付き従ったんじゃないかな。


羅憲も陳寿同様、

黄皓こうこうに阿らなかったため

僻地に左遷されていたという。


蜀は諸葛亮の死後

長らく小康状態を保ってたけど

253年に費禕ひいが殺され、

姜維きょういが北伐マシーンと化し、

国力はどんどんすり減っていった。

孫盛そんせいはこの点ボロクソにけなしてるけど

打倒魏は蜀の国是であって

どっちか死ぬまで殴り合う前提で

誕生した国家なんだから、ある意味正しい。


姜維の北伐は

初めこそうまくいっていたが

段谷だんこくの戦いで鄧艾とうがいに大敗を喫し

経験豊富な将兵の多くを失ってしまう。

これで魏に勝てる可能性が

1%から0になったといっていい。


蜀帝劉禅(りゅうぜん)には主体性がない。

部下の事は信頼して任せられるし

進言は素直に聞き入れるから

いいサポートが付いてる前提なら

そこまで悪い君主じゃないだろうけど、

人材疲弊してくると置物と化した。

一時期やる気を見せて親政もしたけど

諸葛亮みたいにやるのは無理だと

自覚したのかもしれない。


姜維は降将だし、そもそも

蜀にしてからが外様政権だし、

益州閥と荊州閥の軋轢も

ずっと内在しており、

北伐の負荷を受けていよいよ

屋台骨はガタガタになっていた。


むしろ、荊州失陥した時点で

詰んでたのに、よくここまで

存続したなあ、という感じである。


魏帝曹髦(そうぼう)を殺して

ほとんど魏を牛耳っていた司馬昭は、

263年に鄧艾とうがい鍾会しょうかいを派遣して

蜀平定に乗り出した。

禅譲の口実に利用しようと

していたようにしか見えない。


鄧艾は難路を越えて

姜維の守る剣閣をスルー、

かくて成都に迫ると

劉禅は譙周しょうしゅうの言を容れて降伏。

姜維は、鄧艾と反りの合わない鍾会を

味方に引き入れて再起を狙ったが

失敗して三人とも死亡。


蜀滅亡のピンチに

同盟国の呉は助け舟を出すどころか

逆に領土を乗っ取ろうとしてきた。


羅憲は劉備最期の地、永安えいあんを死守。

もう本丸は陥落してたけど

呉に拠点を明け渡さなかった。


晋に降伏した後も

引き続き永安の守備に回った。


蜀も呉も「皓」という名前の人が

政治の枢要を握り、

国をガタガタにしているという奇妙な符合。


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