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淡々晋書  作者: ンバ
第百五、石弘伝
229/313

五、石生・石朗を始末

5.

時石生鎮關中,石朗鎮洛陽,皆起兵於二鎮。季龍留子邃守襄國,統步騎七萬攻郎于金墉。金墉潰,獲朗,刖而斬之。進師攻長安,以石挺為前鋒大都督。生遣將軍郭權率鮮卑涉璝部眾二萬為前鋒距之,生統大軍繼發,次於蒲阪。前鋒及挺大戰潼關,敗績,挺及丞相左長史劉隗皆戰死,季龍退奔澠池,枕屍三百餘里。鮮卑密通于季龍,背生而擊之。生時停蒲阪,不知挺之死也,懼,單馬奔長安。郭權乃復收眾三千,與越騎校尉石廣相持於渭汭。生遂去長安,潛於雞頭山。將軍蔣英固守長安。季龍聞生之奔也,進師入關,進攻長安,旬餘拔之,斬蔣英等。分遣諸將屯於汧。徙雍、秦州華戎十餘萬戶於關東。生部下斬生於雞頭山。季龍還襄國,大赦,諷弘命己建魏台,一如魏輔漢故事。


(訳)

この時、石生せきせいが関中を、

石朗せきろうが洛陽を鎮撫していたが

いずれも二つの任地にて挙兵した。


石虎は子の石邃せきすいを留めて襄国じょうこくを守らせ、

歩兵・騎兵七万を統率して

金墉きんように石朗を攻めた。


金墉は潰乱し、石朗は捕えられ、

あしきりを受けて彼は斬られた。


師団を進めて長安を攻め、

石挺せきていを以て前鋒大都督とした。


石生は将軍の郭権かくけん

鮮卑涉璝の部衆二万を率いさせて

前鋒とした上でこれを拒ぎ、

石生は大軍を統率して

後に続いて発進、蒲阪ほはんへ宿泊した。


前鋒(石生側)及び石挺(石虎側)は

潼関どうかんにて大いに戦い、

敗北を重ねた石挺、及び

丞相左長史の劉隗りゅうかいはいずれも戦死した。

石虎は退却して黽池べんちへと逃げたが

屍が三百余里に渡って転がっていた。


鮮卑は石虎と密通しており、

石生に背いてこれを攻撃した。


石生はこの時蒲阪に停まっており

石挺が戦死した事を知らずにいたため

懼れ、一人馬に乗って

長安へと奔走していった。


郭権はそこで再び部衆三千を纏めて

越騎校尉の石広せきこう

渭汭(渭水と黄河の合流地点?)にて対峙した。


石生はかくて長安から去り

鶏頭けいとう山へ潜伏した。


将軍の蒋英しょうえいが長安を固守した。


石虎は石生が逃げ出した事を聞くと

師団を進めて入関、長安へと進攻して

十日余りでこれを抜くと

蒋英らを斬ってしまった。


諸将を分割して汧へと駐屯させた。


雍州・秦州の華戎、十万余戸を関東へ移した。


石生の部下が石生を鶏頭山にて斬った。


石虎は襄国へ帰還すると

大赦をおこない、石弘に

自身に命令を出すように諷諭して

魏台を建てさせ、曹魏が後漢を

補佐した故事と同様にさせた。


(註釈)

長安と洛陽を力尽くで奪う石虎。


三百里に渡る死屍累々って

味方同士でこんな事やってんだもんなぁ。


八王の乱からまだ

50年も経ってないのに。

過去から学べよ。

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