二、生徒諸君!
2.
稍遷公車司馬令,除鄱陽內史。大修庠序,廣詔學徒,移告屬縣曰:「學所以定情理性而積眾善者也。情定于內而行成於外,積善於心而名顯於教,故中人之性隨教而移,積善則習與性成。唐虞之時,皆比屋而可封,及其廢也,而雲可誅,豈非化以成俗,教移人心者哉!自漢氏失御,天下分崩,江表寇隔,久替王教,庠序之訓,廢而莫修。今四海一統,萬里同軌,熙熙兆庶,咸休息乎太和之中,宜崇尚道素,廣開學業,以贊協時雍,光揚盛化。」乃具為條制。於是至者七百餘人。溥乃作誥以獎訓之,曰:文學諸生皆冠帶之流,年盛志美,始涉學庭,講修典訓,此大成之業,立德之基也。夫聖人之道淡而寡味,故始學者不好也。及至期月,所觀彌博,所習彌多,日聞所不聞,日見所不見,然後心開意朗,敬業樂群,忽然不覺大化之陶己,至道之入神也。故學之染人,甚于丹青。丹青吾見其久而渝矣,未見久學而渝者也。夫工人之染,先修其質,後事其色,質修色積,而染工畢矣。學亦有質,孝悌忠信是也。君子內正其心,外修其行,行有餘力,則以學文,文質彬彬,然後為德。夫學者不患才不及,而患志不立,故曰希驥之馬,亦驥之乘,希顏之徒,亦顏之倫也。又曰契而舍之,朽木不知;契而不舍,金石可虧。斯非其效乎!今諸生口誦聖人之典,體閑庠序之訓,比及三年,可以小成。而令名宣流,雅譽日新,朋友欽而樂之,朝士敬而歎之。於是州府交命擇官而仕,不亦美乎!若乃含章舒藻,揮翰流離,稱述世務,探賾究奇,使楊斑韜筆,仲舒結舌,亦惟才所居,固無常人也。然積一勺以成江河,累微塵以崇峻極,匪至匪勤,理無由濟也。諸生若絕人間之務,心專親學,累一以貫之,積漸以進之,則亦或遲或速,或先或後耳,何滯而不通,何遠而不至邪!
(訳)
稍稍に(昇進して)公車司馬令に遷り、
鄱陽の内史に除された。
大いに庠序(学校)を修繕し
広く学徒を招集した。
移書(回し文)により属県に告げて言うよう、
「学問とは、情を定め、性を理めて
様々な善を積むためのものだ。
情は内にて定まれば行は外にて成る。
心にて善を積み、
教えにて名が顕らかとなる故に
中人の性(心根)は教育に隨いて移ろい、
善を積めば則ち習うとともに性が成熟する。
唐虞(尭舜)の時代は
みな比屋して封じられていたが、
廃れるに及んで
雲(高き地位にのぼった者?)は
誅殺せねばならなくなった。
どうして教化が風俗を形成せず
人の心を移ろわせぬといえようか。
漢氏が失脚してより天下は分かたれ土崩し、
江表に賊が隔てられ、
久しく王の教化は替衰し
庠序の訓誡も廃れ、
修める事が出来なかった。
今、四界は統一されて
万里は軌範を同じくしており、
兆庶(万民)は熙熙(喜び楽しみ)として
咸、太和のなかで休息しておる。
純然たる徳行を崇め尚び
広く学業を開いて
当代の雍和を協賛し、
盛んな教化を揚げよう」
かくて具に教条が制定され、
こうして七百人余りが至った。
虞溥はそこで訓誥を作成し
これに順う事を奨めて、言った。
「文学諸生は皆冠帯を行き渡らせ
年若くして志は美しく、
当初より学舎の庭を渉り
典訓を修習しているが、
これぞ大成の業にして
徳義を打ち立てる基盤である。
そもそも聖人の道は淡く、味は寡ない、
故に学問を始めたばかりの
者には好まれない。
期月に至るに及んで
観る所はますます広く、
習う所はますます多く、
日に聞かぬ所を聞いて、
日に見ざる所を見て、然るのちに
心が開かれ意は明らかとなり
学業を敬い、諸々を楽しむ事ができる。
忽然と大いなる教化による
自己の発展を悟れずとも
道は神の域に至る。
故に学問はまるで丹青のように
人を染めるのだ。
丹青は、吾が見たところ
長い時を経れば変色するが
学問は長い時を経て
変わったというのを見たことがない。
そも工人が染める際には
先にその質(内部)を修めて
後にその色(外部)に事える。
内部を整えて色を重ねれば
染める工程は畢る。
学問にもまた質が有り、
孝悌、忠信がそれである。
君子は内にてその心を正し、
外にてその行いを修める。
行いに余力があらば
則ち文を学ぶ事で
文の質は(内外とも)調和し
然るのちに徳を為せる。
そもそも学ぶ事とは
才の及ばぬ事を患うのではない、
志を立てられぬ事を患うのだ。
故に驥を希う馬もまた
驥の乗なのであって、
顔回を希う徒もまた
顔回の倫なのである。
(立派な人を目指している人も
また立派な人なのだ)
また、日に刻んでこれを捨てれば
朽木すらも倒せないが、
刻む事を捨てなければ、
金石すらも虧くことが出来る。
それこそがその効果ではないのか。
今、諸生は口では聖人の典範を誦えて
体では庠序の教訓を習っているが、
これが三年に及べば、
小さきを以て成し遂げる事になろう。
令名は宣揚されて行き渡り、
りっぱな誉れは日に新たに、
朋友は欽んできみを愛し、
朝士は敬意を持ってきみを称歎するだろう。
ここにおいて州府から命が交付され
官吏として選抜され、出仕する事になる。
また喜ばしきことではないか。
もしも伸びやかな文藻を含章し
揮毫して流離(各地を回る)して
世務を称述し
探賾(探索)して奇なるを究めれば、
揚雄・班固の筆を包み
董仲舒の舌を結ばせしめよう。
才能を持つ者のみで
もとより常人にはできぬが。
一勺を積む事で
長江や黄河を成し、
微かな塵を累ねる事で
険峻の頂きにまでなる。
積み重ねなくして
成し遂げられるわけなどないのだ。
諸生がもし人間の責務を絶ち、
学問に親しむことに専心して
一を累ねる事を貫いたなら
積み重ねを漸くにして
このように進達できる、
遅かったり速かったり
先であったり後であったりはするが、
どうして滞ったからといって
通じぬことがあろう、
どうして遠いからといって
辿り着けぬことがあろう!」
(註釈)
訳全然自信ない。
魏書の十五巻で、劉馥の息子の劉靖が
学問の重要さを説いてましたが
あの逸話と似ています。
虞溥は兗州高平から
父にくっついて隴西に行き、
揚州鄱陽に赴任した。
中原→隴西→呉会と移動していて
ひとり三国志状態です。
歴史家にとっては悪くない環境にいる。
司馬遷は各地を回って取材したから
あんなスゴイ史書が書けたのです。
虞溥は呉会方面に赴任した事で
孫氏政権についての資料を
集める下地を手に入れた。
陳寿の三国志は成立時期的に
まだ一般に広く浸透はしてないけど
韋昭の呉書に触れる機会はあったのかな。
虞溥は呉書や墳籍を照らし合わせて
孫策や周瑜のイメージを膨らませた、はず。
孫権がつくえを斬るシーンなどは
もうノリノリで書いていたと思う。




