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淡々晋書  作者: ンバ
第八十二、王長文伝
211/313

一、逸民を志す

1.

王長文,字德睿,廣漢郪人也。少以才學知名,而蕩不羈,州府辟命皆不就。州辟別駕,乃微服竊出,舉州莫知所之。後於成都市中蹲踞齧胡餅。刺史知其不屈,禮遣之。閉門自守,不交人事。著書四卷,擬易,名曰通玄經,有文言、卦象,可用卜筮,時人比之揚雄太玄。同郡馬秀曰:「揚雄作太玄,惟桓譚以為必傳後世。晚遭陸績,玄道遂明。長文通玄經未遭陸績、君山耳。」


(訳)

王長文おうちょうぶんは字を徳睿とくえい広漢こうかん(せい)県の人である。


少くして学才を以て名を知られ

放蕩ほうとう不羈ふき(勝手気儘で物事に縛られない)、

州府からの召辟の命があっても

すべて就任しなかった。


州から別駕べつがとして招辟されると

そこで微服して密かに出て行き、

州を挙げて(ゆくえを捜したが)

彼の居場所を知る者はいなかった。


その後、成都せいとの市中にて

蹲踞して胡餅こへいを齧っていた。


刺史はその意思を曲げない態度を知ると

礼によって彼を見逃してやった。


王長文は門を閉ざして自ら守り

人と交流しなかった。


著書は四巻、

「易」を擬しており、

名を「通玄経」といった。


「文言」「卦象」(の巻?)が有り

卜筮ぼくぜいを用いる事を是としている事から

当時の人はこれを揚雄の「太玄経」に比した。


同郡の馬秀ばしゅうはこう言っていた。


揚雄ようゆうの『太玄経』は桓譚かんたんだけを以て

後世に伝えられる事は必然であったが、

おくれて陸績りくせきに遭い、

太玄の道義はいよいよ明らかとなった。


王長文の『通玄経』はいまだ

陸績や君山(桓譚)に

巡り会えておらぬだけだ」



(註釈)

王長文は陳寿と同じく蜀出身の人です。

二文字の名前は三国時代は貴重でしたが

だんだん増えていきます。


広漢の郪から出ている王氏。


後漢書循吏列伝に登場する王渙おうかん

楊戯ようぎ季漢輔臣賛きかんほしんさんに出てくる

王甫おうほ王士おうしの子孫かなぁ。


王甫は、劉備が呉を攻めた時に戦死し、

王士は、諸葛亮の南征のおり蛮族に殺されました。


身内が出仕して、それなりの地位を得ても

ゴミのように死んでくのを見て

バカバカしいと思ったのかもしれません。


揚雄ようゆうは前漢末、桓譚かんたんは後漢初のひと。

揚雄は当時あまり評価されなかったけど

桓譚は彼のことを神のように称えていた。


それに比べて王長文には

文章の玄妙さを知る理解者がいないだけで

彼もなかなかすごい、というのが

同郷人の評価でした。


華陽国志かようごくしにも記述があり、

こちらでは字が「徳俊とくしゅん」になっています。


父の王顒おうぎょう犍為けんい太守。


病気(仮病)を理由に召辟を断り続けた。


文才があり、分け隔てなく

人に接していたため周囲から敬愛され、

咸寧かんねい年間(275〜280)に

蜀郡しょくぐん太守になったとあります。


晋書に書かれているイメージと

だいぶ違います。

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