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淡々晋書  作者: ンバ
第三十四、羊祜伝
208/313

二十八・二十九、あれから百年/母の選択

28.

孝武太元中,封祜兄玄孫之子法興為钜平侯,邑五千戶。以桓玄党誅,國除。尚書祠部郎荀伯子上表訟之曰:「臣聞咎繇亡嗣,臧文以為深歎;伯氏奪邑,管仲所以稱仁。功高可百世不泯,濫賞無得崇朝。故太傅、钜平侯羊祜明德通賢,國之宗主,勳參佐命,功成平吳,而後嗣闕然,烝嘗莫寄。漢以蕭何元功,故絕世輒繼,愚謂钜平封宜同酂國。故太尉廣陵公准黨翼賊倫,禍加淮南,因逆為利,竊饗大邦。值西朝政刑失裁,中興因而不奪。今王道維新,豈可不大判臧否,謂廣陵國宜在削除。故太保衛瓘本爵菑陽縣公,既被橫害,乃進茅土,始贈蘭陵,又轉江夏。中朝名臣,多非理終,瓘功德無殊,而獨受偏賞,謂宜罷其郡封,復邑菑陽,則與奪有倫,善惡分矣。」竟寢不報。


(訳)

孝武こうぶ皇帝の太元年間(376〜396)に

羊祜の兄の玄孫の子である

羊法興ようほうこう鉅平きょへい侯に封じられた。

食邑は五千戸であった。


桓玄かんげんの党派であったので

誅殺されてしまい、国を除かれた。


(※東晋の有力武将、桓温(かんおん)の子。

帝位を簒奪するも劉裕りゅうゆうに倒され

たったの三ヶ月で失脚、敗死した)


尚書しょうしょ祠部郎しぶろう荀伯子じゅんはくし

上奏してこの事を訴えた。


「臣の聞くところによれば、

咎繇(皋陶こうよう)の後嗣が亡ぶと

臧文ぞうぶんは深々と歎息を漏らし、

伯氏から封邑を奪っても

管仲かんちゅうは仁者として称えられたとか。


功高ければ百代の後も滅びず

賞与が濫りであれば短命に終わりましょう。


かつての太傅たいふ鉅平きょへい侯の羊祜は

明徳を備え、物事に通暁しながら賢哲、

国の宗主となり、天命を補佐、

(国政に)参画する勲を立てて

呉を平定する功を成しましたが、

後嗣は闕然(欠如)してしまい

烝(秋の祭祀)、嘗(冬の祭祀)を

行う者がおりませぬ。


漢は蕭何しょうかの元勲を以って

世子が絶えるたびに

(親族を見つけ出して)継がせました。


鉅平(羊祜)の封地も

酂国(蕭何)と同様に

すべきであると愚考いたします。


もとの太尉である広陵公こうりょうこうの准(陳準ちんじゅん)は

逆賊司馬倫(しばりん)と徒党を組んでたすけ、

禍が淮南わいなんに加えられました。

叛逆を働きながら利益を為して

密かに大邦を供えられたのです。


西朝の政治や刑罰が乱れた時期に値して

中興の後も封地を奪われておりません。

(永嘉の乱のどさくさに紛れて

江南に政権が移ったあとも

卑怯者の封地が除かれずそのままになってるよ)


今、王道は維新されましたのに

どうして大いに臧否(善悪)を

けてしまわぬのですか。

広陵国は削除すべきかと存じますが。


もとの太保の衛瓘えいかんの爵位は

本来菑陽(しよう)県公でしたが

残害を被る事になってしまい、

そこで茅土を進めて

初めに蘭陵らんりょうを、また転じて

江夏こうかを賜る事になりました。


中朝の名臣は、多くが

道理に見合わぬ最期を遂げており、

衛瓘の功徳は殊更高くはなけれども

獨り偏った賞与を受けております。


郡を封地として与える事は

取り止めるべきではないでしょうか。

再び菑陽県を食邑とすれば

則ち与奪に倫理が生まれ

善悪によって分別できましょう」


竟には寝かされたままで

報せはなかった。


(註釈)

羊祜の死からだいたい100年後には

この頃には石勒も石虎も劉曜も死んで

氐族の苻堅ふけんが中原を席巻していました。

彼も383年に江南を攻めて

嘘みたいな大敗を喫し、

そのすぐ後くらいに死んじゃいました。


桓温かんおんは成漢の討伐を成功させ

北伐を敢行して一時は

洛陽を復旧するなど、

当時の東晋──江南政権のポイントゲッターでした。


また、「断腸の思い」と「竹馬の友」の

エピソードは彼からです。


この時代のキーマンの一人なので

後でじっくり触れようと思います。


東晋王朝で確固たる権力を

手中にしていた桓温は

簒奪を企図しますが、夢半ばに没。

桓温の死後、息子の桓玄が

403年に帝位を簒奪し

「桓楚」を打ち立てます。


しかしすぐに有力武将の劉裕りゅうゆうに追い落とされ、

たったの三ヶ月で

その天下は終わりを告げてしまいました。


詳しくは浪間さんの作品、

「劉裕」をご覧くださいませ。


郡を食邑として与えるのは

問題点ばっかりだから

一区分下の県にすれば?


いかに逆賊に与したとはいえ

羊祜レベルの名臣が

封国を除かれてるのは大問題だから、

この際、不相応な食邑貰ってるやつと

まとめて沙汰してください。


という上奏でしたが、スルー。


でも、最近南朝の勉強してるんですが

割と○○県侯は出てくるので

ようように実装されたと見るべきですかね。


母の選択。


29.

祜前母,孔融女,生兄發,官至都督淮北護軍。初,發與祜同母兄承俱得病,祜母度不能兩存,乃專心養發,故得濟,而承竟死。


(訳)

羊祜の前母は孔融の娘であり

兄の羊発ようはつを生んだ。


官位は都督ととく淮北護軍わいほくごぐんまで至った。


当初、羊発は

羊祜の同母兄の羊承ようしょうと倶に病を得た。

羊祜の母は、両者とも生存させる事は

不可能であるとはかり、そこで

羊発の療養に専心した。


そのため、羊発は救われたが

羊承は竟に死んでしまった。


(註釈)

その羊発も、羊祜が若い頃に

亡くなってしまっています。


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