第八章 誘拐
「すばらしい!」
シャルルは満面の笑みを浮かべ、大きな声で一言そう言った。
「この奥行き、色遣い、筆の運び、何より雰囲気がとてもいいな!」
「あ、ありがとうございます……」
人なつこいというか、性格が明るすぎるというか。
ミシェールをそばから離そうとせず、高さが身長の半分ほどはある絵を前にして、シャルルはひとしきり賛辞をまくし立てた。
困り果ててフェオドールを探したが、薄情にも続きの間のほうへ避難してしまったらしく、すでに姿はなかった。
「本当に君は、すばらしい腕を持っているね」
にこにこしている国王の視線が面映ゆく、ミシェールは自分の絵の方に顔を向ける。
シャルルの私室の風景だろうか。ベッドや本棚があるこざっぱりとした部屋で、子供が二人遊んでいる。
今年で十二才になる王弟ルイと十歳のシモーヌ姫だ。仲むつまじく会話をしている声が聞こえてきそうで、見る者は微笑ましさを感じずにはいられないだろう。
ルイ王子の手は、豪華で広い寝台の隅の方へ掲げられている。指先はつい先ほどまで何かをつまんでいたような形だ。あどけなさの残る顔は妹に向けられていて、自身の手もとにはまったく注意を払っていない。
そこに何を持っていて、それをどうしたのかも。
指輪はおそらく、彼の手から落ちたのだ。
「私の寝台は、何しろ大きくてね。寝る時間になるとくたくたでろくにシーツや枕を気にしたりもしないし。まして隅や下なんて見もしなかったな」
王とはとにかく多忙なのだろう。優しげで柔和な美貌の、ミシェールより年若い青年は、彼には想像できないような世界で生きている。
「絨毯の中に潜り込んだか、侍女が見つけてどこかへしまったのかもしれない。フェオドールに手伝ってもらって探すよ」
「ぁ、僕も……」
「君は先に馬車の手配をしておいで。今日もけっこう混んでいただろう?」
王宮には毎日幾人もの貴族が出入りしており、乗り付けてくる馬車をなかなか決められた場所に入れられないこともある。
今日もまさにそれで、ミシェール達がここへ来たときも中へ入るまでずいぶん待たされたのだ。フェオドールは実は短気なところがあり、狭いところにいらいらしている彼と閉じこめられた形になったミシェールは、たいそう腹の冷える思いをしたのだった。
「フェオドールは、昔から馬車で待たされるのが嫌いだったからね。今日もいらいらしていなかった?」
「は、はい……」
くす、とシャルルは笑う。そうしていると年相応の青年らしさが垣間見える。
「小さいころから、ぜんぜん変わってないな」
シャルルの声には温もりがあって、フェオドールへの親愛が伝わってくるようだ。ミシェールも知らず知らずのうちに微笑んでいた。
「さ、行っておいで。本当にありがとう」
「はい、では用意をして参ります」
「またおいで。今度は部屋に飾るような絵を頼みたいな」
最後の言葉が特に嬉しく、ミシェールは浮き立つ気持ちが足取りにでないよう苦労して廊下を進まなければならなかった。
混雑した馬車が運んできた人間がもっと往来していても良さそうなのに、外界から遮断され昼間でもろうそくを灯している廊下は、人気がまるでなく寒々しさすら感じる。
本来なら、従者身分のミシェールが一人で歩いてはいけない区域だと注意されているのを思い出し、足早にうつむきながら進んでいった。
だから、気づかなかったのだ。目的地が近づいて、緊張も緩んでいた。
背後に誰かいると気づいたのと同時に、羽交い締めにされていた。
「ぅ――!」
「暴れるな」
思わず声を上げかけた口に、ハンカチを詰め込まれる。がっしりとした力強い腕に戒められ、もがくことすらできない。
「急げ。こっちだ」
正面から影のように現れた男は、色の暗い服を纏い顔も覆っていた。囁き声でミシェールを捕らえている相手に指示を出し、薄暗い廊下を音も立てず走り出す。後ろ手に縛った彼を肩に担ぎ上げた者もそれに続いた。
ハンカチを吐き出そうとするが、うまくいかない。喉の辺りで心臓がばくばくと音を立てている。
なぜ、この男達は。
どこへ連れて行かれるのだ。
息苦しい。頭がくらくらする。
白濁する脳裏に、不意に浮かぶ姿があった。
傲慢な、黒い瞳の。
ぎゅ、と目を閉じ、ミシェールは死にものぐるいで暴れた。
彼を担いでいた男は驚いたように足を止め、重心がうまくずれたのか次の瞬間彼は男の上から床に落下する。強かに胸を打ったが、何とか立ち上がろうと上体を起こす。
「暴れるなと言っている。傷はつけん」
先頭を行っていた男が戻ってきて、彼の肩を掴む。反射的に震え身体を引こうとするのを留められ、間近で目を合わせられた。
「このままオーランシュ公爵の下にいれば、間違いなく不幸になるぞ」
ミシェールは、息を呑む。
鋭い声。
まるで、それは。
警告。
「ミシェール!」
だがそこへ、走ってくる足音がばたばたと絨毯を通して聞こえてきた。複数だ。
はっと肩を強ばらせた男達は目配せをしあい、風のように走り去る。
ミシェールは、茫然とその姿を見送ることしかできなかった。
「ミシェール」
口の中のハンカチを引き出される。我に返り視線を巡らせまず飛び込んできた光景に、ミシェールは愕然とした。
必死の形相のフェオドールが、へたり込んだ彼の傍らに膝をついていた。痛いほどの力で肩を掴まれ、揺さぶられる。
「怪我はないか!」
表情を変えたり語気を荒げたりなど、決してしなかった人が。
「どうした? 何かされたのか?」
今まで一度も、感情の動きを外に出さなかった人が。
焦りと懸念で黒い瞳をいっぱいにして、確かめるようにミシェールの腕や背中をさすってくれている。
全身が、ばらばらになるかと思った。
安堵と、何か名前のわからない感情で。
「大丈夫です……何もされていません」
今更のように恐怖と混乱が存在を主張し始めたが、彼は難なく微笑むことができた。
「来てくださって、ありがとうございました」
胸が熱かった。衝動的に目の前の人に縋りたくなって、気恥ずかしさに彼はゆっくりと目元を染めた。
やはり魔術も身につけた方がいい、とフェオドールに言われたとき、ミシェールはすんなりとうなずいていた。
さらわれかけてから三日が過ぎていた。あれ以来王宮へ行くことはもちろんなく、ミシェールは屋敷の中で窓からの風景を描いたり勉強をしたりして過ごしていた。フェオドールの方も、昨日一人でどこかの貴族の夜会に招かれたきりで、朝から夜まで部屋に籠もっていた。
「母も魔術を使えたんですか?」
「ああ。とは言っても、護身の方法と伝言のための術を少しだけ使える程度だったらしい」
ゆったりとした服装のフェオドールは、心なしかいつもと雰囲気が違って見えた。ミシェールは目を細め、彼の言葉に首をかしげる。
「伝言?」
「過去や未来に、言葉などを送る方法だ。力そのものを送り出すこともできる」
説明されてもよくわからず首をかしげるミシェールの前で、フェオドールは何かを呟きながら指先で宙に文字を書くような仕草をした。
何も起きない。
失敗したのかと思ったのと同時に、すぐ目の前で大きな音が弾ける。
「うわっ!」
のけぞった勢いで彼は椅子から転げ落ちてしまう。フェオドールが声を上げて笑った。
「わかったか?」
心臓が身体の中を縦横無尽に飛び跳ねていて、ミシェールは答えることもできなかった。それにかまわず、不思議の力を仕掛けた張本人はくすくすと笑いながら説明を再開する。
こんなに屈託なく感情を露わにする彼を、あの日からごく稀にだが見られるようになった。何がきっかけとなったのかは定かではないが、決して不快ではない。
むしろ、その逆で。
「今のように、少しだけ発動の時を先にしたり、または過去に送ったりする。アンヌは未来にしか働きかけることができず、効力の保つ時間も限られていたらしい。もっとも、私とてそれほど得意ではないが」
何とか椅子に座り直したミシェールに、フェオドールはそう続けた。
「未来に?」
「ああ。ブランの力は私達ほどに強くはない。血を媒体にすれば力を拮抗させることができた者もいたらしいがな」
何代か前の、特に魔術に長けていたオーランシュ家当主が独自に編み出した術の一つなのだと彼は語った。
貴族と王族、そしてごく限られた血族だけが魔術を扱えるのは、巫女を娶ったことで彼らの血に宿った、女神達の力の恩恵なのだという。血自体を用いた魔術も多く存在するらしい。
それについては、ミシェールも歴史の教師から聞かされていた。確かなのは、その血が薄くなれば魔術を使うことはできなくなるということだ。だから貴族や王族は、三百年ほど前までは近い血族の間でのみ婚姻を繰り返していたらしい。
ブランもまた、そうして生まれ出た一族なのだ。
「お前の力は、どんなことにも利用できる。自衛の方法は身につけておかなければな」
すっとフェオドールの指が伸びてくる。ミシェールの髪を絡め取り、戯れるようにもてあそぶ。
「本当ならば、もっと早いうちに教えるべきだった」
「……がんばります」
見下ろしてくる彼のまなざしは、柔らかで。
こんなに優しかっただろうか、彼は。
黒い瞳があまりに強くて、ミシェールは目を伏せる。掌がそっと肩に触れていった。
温かい。
「始めるぞ」
「はい」
そっと顔を上げて、ミシェールは面はゆく微笑んだ。
がっくりとうなだれているオラニエ男爵に、言ってやりたいことはたくさんあった。しかしとりあえずそれを一つをのぞいてすべて腹の奧に押し込めることにして、アラゴン伯爵はこめかみをもんだ。
「君らしくもないな、男爵」
「まことにもうしわけも……」
「いい。済んでしまったことは今更言ってもどうにもならない」
焦る気持ちはわかる。オラニエ男爵が一番戦々恐々として日々を過ごしていることも容易に想像できる。
だが、ミシェール・ブランの誘拐などという乱暴な手段に訴えた挙げ句、フェオドールの警戒心をあおることになったのはまずい。
「こちらでも準備を進めていた。三日後の晩餐に彼らを招待する。幸い、娘があの青年を気に入ったようだったからな」
アントワネットの名前と、絵を描いてもらいたいという口実をつければ、フェオドールに彼を連れてこさせることができるのではないか。
「オラニエ、君も出席してくれ。アントワネットの婚約者とその父親なのだから、不自然ではあるまい」
「わかりました」
神妙にうなずく男爵を、アラゴン伯爵はひたと見据えた。
「焦るのはわかる。だが、もう少し我々を信用してくれ」
「我々……と仰いますと?」
とりあえずこの場で彼の名を出すことはせず、伯爵は決行の日の詳しい計画を説明し始めた。




