第六章 孤独
鷹の鳴き声がする。さらに遠くで、小さな黒い点が空に吸い込まれていった。
ミシェールはぼんやりとそれを見上げて、華やかな笑い声と微かに漂う脂粉の香をなるべく意識しないようにしていた。
国王により貴族達との狩猟が催され、新たな被写体の首実検もかねて連れてこられたのだが当然狩りの供などできるわけはないので、父や兄弟、夫を待つ令嬢や貴婦人方、そしてその従者達のいる場所に取り残された。
王宮の敷地内に狩りのための広大な林があるのを目の当たりにして、彼は開いた口がふさがらなかった。どこまで広がっているのか見当もつかない。
嗜みのためだけの狩猟。そのためだけの森。そこに生きる動物たち。生きるためではなく、自身の誇示のためだけに命を狩る。
王侯貴族というのは、想像を絶するような日常を過ごしている。
気持ちよく晴れた空からの強い日差しを避けるため、優美な女性達は涼しい木陰にテーブルと椅子をしつらえ、お茶とお菓子を楽しんでいる。
ミシェールはなるべくそこから離れて、風通しのいい場所に座っていた。主を待っている間従者も自由に飲み物や食べ物を口にすることを許されてはいるし、実際喉は渇いていたが、何に笑いさざめいているのかまったくわからない人々の中に飛び込んでいく勇気はとてもなかった。
頬を撫でる風は温かく、心地よい。草の匂い、木々の葉ずれの音。王都へ来てから肌で感じることがなかったものだ。
整然と並び整えられている緑の群れは、ミシェールの知る雄大さや畏怖を呼び覚ます独特の雰囲気こそなかったが、洗練された伸びやかさがあった。彼が座っている芝生も綺麗に刈られていて、ちょうどいい絨毯の役割を果たしてくれている。
自然の森林、草地にどうしても生じてしまう美しさと引き替えの醜さがここにはない。作られた心地よさであっても、それだけを享受できるのは贅沢だ。
今いる場所から見えるのは、よく手入れされた草地とその向こうの木々。青い空からの光とぽつぽつと浮かぶ雲の白が、強い緑と相まって清々しい。
そういえば、夏も近いのだった。空の青が、心なしか鮮やかさを増しているように見える。
ミシェールは、小さく息を吐き出した。
がばっと、不意に視界がふさがれる。驚いて手を上げると、顔に覆い被さる柔らかな布の感触があった。
「あ、申し訳ありません! 帽子が……」
柔らかな音色の鈴を思わせる声と一緒に、目の前に世界が戻ってくる。
顔を右へ動かした彼は、控えめな薄紅色を見出し身体を強ばらせた。
赤みの強い金の髪を、緩く結い上げた美しい少女がいた。緑の目は楽しげに煌めき、控えめな好奇心を浮かべて彼を見つめている。狩猟用の動きやすい衣装を纏ってはいるが、大半の貴婦人がそうであるようにその心得はないようだ。
「帽子を受け止めてくださって、ありがとうございました。……あら、あなたはオーランシュ公爵閣下の」
「え……?」
「公爵は、いつも違う従者をお連れになるのだけれど、あなたは二度目ではなくて?」
「……」
「オラニエ男爵のパーティーでもお見かけしていますのよ」
そう言われても、あのときは周りなど見る余裕はなかったし、パーティーで何があったかもよく覚えていない。
しかし、フェオドールのそばにいたとはいえ自分はそんなに目立っていたのだろうか。
「まだ都は慣れていないのね。そんなにびくびくしなくてもよくてよ」
「あ……申し訳ございません」
令嬢は、おっとりと優しく微笑んだ。
「ここへ来る前はどちらに?」
「タイーナの近くです。ここから馬車で三日ほどの……」
「アントワネット様!」
お仕着せを着た男が駆けてきて、彼女の名を呼んだ。彼女の従者のようだ。
「こちらにいらっしゃったのですか」
幼さの残る青年がいぶかしげにミシェールを見やったので、あわてて頭を下げる。
「この方はオーランシュ公爵の従者よ。帽子を拾っていただいたの」
「そうですか……」
彼はうなずいたが、ちらりと向けられた一瞥から不審はぬぐい去られていなかった。当然だろう。
「旦那様もじきお戻りです。参りましょう」
「ええ。では、ごきげんよう」
令嬢と従者を見送り、お仕着せに縫い取られている紋章から、ミシェールは彼らの素性を知る。
あれは、アラゴン伯爵家の紋章だ。お嬢様と呼ばれていたから、あの女性は伯爵の令嬢に違いない。
アラゴン伯爵は、家柄も古く有力な貴族の一人らしい。即位したばかりの若い国王の信任も厚く、高齢ではあるが未だに矍鑠として手腕を振るっているという知識がぼんやりと頭に蘇った。
ざわめきと人の気配が、大きくなる。
我に返り、彼もフェオドールを探すために人の流れる方へ向かいはしたが、立ちすくんでしまった。
着飾った貴婦人達と、談笑する貴族の男達。
押し合っているように、なかなか彼らは動こうとしない。声と衣装の色が、ゆらゆらと蠢いている。
彼らをかきわけてフェオドールを探そうと思っても、気圧されてしまって動けない。あまりにも異質すぎて、入っていけない。
不意に、背筋が冷えた。
自分は異分子なのだ。
以前は絵を描く力が、今は存在そのものが。
どこへ行っても、人の中に交わってとけ込むことができない。
指先が熱を失う。足の震えがどんどんひどくなる。心臓が、痛いほど胸を叩いている。
目の奧から、何かがせり上がってくる。
「何をしている」
ぐいと肩を掴まれた。つられて上げた目に飛び込んできたものに、ミシェールは泣き出しそうなほど安堵した。
「真っ青だ。どうした?」
黒い双眸。一見高飛車なその口調。
「フェオドール様……」
彼の瞳の中に、自分の姿があった。
「気分でも悪いか?」
「いえ……」
嘘のように震えは収まっていた。鼓動はまだ少し早いままだったが、もう大丈夫だ。
信じられないほどの安心感が、全身を満たしている。
「迷子のような顔をしている」
からかうようにそう言われても強引に腕を引かれても、それは変わらなかった。同時に今の自分の置かれた状況を目の当たりにさせられたようで、思わずフェオドールの袖を掴んでいた。
「どうした?」
振り返った彼の顔つきで、突然自分の行動が恥ずかしくなる。うつむいたミシェールを、彼は人気のないところへ連れて行った。
「誰かに何かを言われたのか?」
「いいえ……」
「ではどうした?」
触れる手が、肩に移動してくる。
「不安になって……」
こぼしてしまった呟きごとすくうように、抱き寄せられた。
「守ると言ったぞ」
染み入るような一言は、まるで魔法だった。
解き放たれたように、身も心も軽くなる。
「はい」
ゆっくりとぬくもりは離れていったが、もう一人で立つことができた。
「行くぞ」
「はい」
手を引かれずに、ミシェールはフェオドールの後に従った。
今の自分には、この人しかいない。
泣きたいような、笑い出したいような、ひどくあやふやな表情を彼はうつむいて隠した。
「ほら、お父様。あの人よ」
子供達の中で最もかわいがっていると自他共に認めている末の娘アントワネットに耳打ちされて、アラゴン伯爵はそちらを見やった。
集まった者達の中でも飛び抜けて若く身分も高い青年が伴っている者は、予想はしていても彼をひどく動揺させた。
長い水色の髪を頭の後ろでまとめ、質素だが公爵の従者として申し分ない服装をしているのに、どこかおどおどしている若者。優しい頬の輪郭と愁いをたたえたような紫の瞳が、あのときの彼女に生き写しだった。
「本当に綺麗だこと。羨ましいくらいだわ」
うっとりしているアントワネットの様子で我に返り、アラゴン伯爵は揺れ動く心を奥の方へ押しやった。
「もの慣れない様子だな」
「王都へ来たばかりのようだもの。どこか田舎の方に住んでいたんですって」
「田舎?」
「タイーナという街の近くと言っていたわ」
辺境にそんな名前の街があったはずだ。調べさせれば、何かの痕跡が見つかるかもしれない。
「ねえ、お父様」
「何だね?」
「どうかなさったの? 難しいお顔だわ」
表情に出ていたのか。
伯爵は急いで眉間を揉み、手にしていた酒を喉に流し込む。
「狩りがうまくいかなかったのが、そんなに心外だったんですの?」
「ん?」
「もうお年もお年なのだから、ご辞退なさればよろしいのに。お姉様もお兄様もみんな仰ってますわ」
「……うむ」
確かに、狩りの成果もとても残念なものだったのだが。
うつむくと、たるんできた自分の腹が視界を占領する。伯爵は思わず深い溜息をついた。




