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第五章 ルイーズ

 身の回りを世話してくれるルイーズという若い娘は、ミシェールに親しみは持ってくれたようだ。しかし、公爵や家のこととなると途端に口が重くなるのだ。

 公爵を恐れているのか、忠誠心か。いずれにせよ、ミシェールにとってはありがたくない。

 フェオドールは最近でこそ親切にしてくれるが、会ったばかりの頃には命の危険をほのめかしたり脅迫したりしてきたし、何よりこの屋敷から外へ出ることを未だに許してすらくれない。

 にもかかわらず彼を嫌いになりきれないのは、自分がおかしいからだろうか。

 身寄りもなくあまり人と関わらないようにしてきた生活の中に、荒々しく踏み込んできた人。

 そして、ミシェールの抱いてきた不安を見抜き、打ち消してくれた。傲慢でさんざん振り回したくせに、守ると言ってくれた。

 だからこそ、なのかもしれない。

 彼を知りたい。何を考え何を望み、どんな道を行こうとしているのか。

 そこに多かれ少なかれ影響を与えられるのは、他ならぬ自分なのだ。

 昨夜、オラニエ男爵に引き合わされたとき、恐怖におののくようなその表情が気に掛かった。その理由にすぐ気づけなかったが、あとになって思い至った。

 あの部屋には、ミシェールの描いた絵があった。そして、フェオドール。

 男爵は、描かれた光景とそれをフェオドールが何らかの道具に使うことを恐れているのだ。

「あった……オラニエ男爵」

 図書室の奧で、ようやく見つけた書物をミシェールはそっと取り出した。

 オーランシュ家にまつわる記録は、ここではなく当主の部屋にあるという。入れないのは明らかだったので、ミシェールは男爵のことから調べようと思ったのだった。

 貴族の縁戚関係や血筋の歴史は彼が覚えなければならない項目の一つだったので、もしフェオドールに見つかっても何とでも言い訳できる。

 古い書物特有のほこりくさい匂いに微かに眉をひそめ、小さな灯りとりの窓から差し込む光を探し、そこにページをかざす。染みすらも時の経過を表しているようなくすんだ文字を指で辿り、慎重に意味を読みとっていった。

「もともとは騎士だったんだ」

 ジェルマン・オラニエは、二十五年前に刃物を持った男がパーティーに乱入した際、命を狙われた国王夫妻とその周囲にいた者達を守った功績を讃えられ、爵位を受けたのだという。その後貴族の娘を娶り、現在では外交の面で辣腕を振るっていると書かれていた。

 ゆっくりと、どんな記述も見逃さないように文を追っていた彼の目は、男爵の妻の名前と出自の項でふと止まる。

 ジレ侯爵家令嬢。

「ジレ侯爵……」

 聞いたことがある。あれは、どこでだったか。


 ――お前の母親のせいだ。――


 無数の絵画。血で連なる者達の過去の息づかい。


 ――アンヌは、父が失脚させようとしていたジレ侯爵を助けた。――


 フェオドールだ。

 二十五年前の事件、それはまさか。

 前公爵が、失脚させようとしていたという人物は。

「母さん……」

 国王夫妻のそばにいた一人が、ジレ侯爵ではないだろうか。標的は本当は侯爵で、それを阻止したのがジェルマン・オラニエではないのか。

 汗ばんだ手から、本が滑り落ちた。

 この事件を期に、前公爵は栄光を失ったのだと聞いた。ならば、フェオドールの目的は。

 復讐、だろうか。

 全身から力が抜け、ミシェールはずるずると本棚にもたれたままくずおれた。

 胸の奥から、いやな考えばかりが浮かんでくる。

 震えを治めようと、彼は自分をきつく抱きしめた。



 ランベール・ロイク・デ・アラゴン伯爵は、今日も激務をこなして非常に疲れて帰宅した。来客を聞いて正直気分が重くなったが、急いで着替えをすませ応接間へ向かった。

 公私問わず、彼に相談を持ちかけてくる者は多い。突然のこんな来訪も珍しいことではなかった。

 今日の客、オラニエ男爵はひどく青い顔をしていた。いつもは快活な彼のそんな様子に驚いて、アラゴン伯爵は気付けにと強い酒を勧めたが、男爵は力無く首を振って辞退した。

「本当なら、昨夜のうちにでもお伺いしたかったのです。ですが、時刻が遅すぎて失礼になると……」

「落ち着け。何があった?」

 娘の婚約者の父親であるこの男が、こんなに取り乱すのは珍しい。年齢と共に太って動かしにくくなった身体を揺すり、伯爵は一回りほど若いオラニエ男爵の肩を宥めるように叩いた。

「申し訳ありません。お見苦しいところを」

 ややしばらくして、男爵は二、三度深呼吸し、いつもの冷静な声音を取り戻した。

「昨夜、オーランシュ公爵の家に呼ばれたのです」

「公爵家? それで、何が?」

 彼は、自分の従者二人に持たせていた大きな包みを壁のそばへ置かせた。

 従者を外へ出し、布を解く。現れたものを見ても、アラゴン伯爵はすぐにそれが何か理解できなかった。

「オーランシュの手の中に、あの恐るべき力が蘇ったのです」

 呻くように続けられた言葉。

 落ちくぼんだ伯爵の目が、こぼれんばかりに大きく見開かれる。

「ブランが! まさか、あの一族はもう……!」

「私もそう思っておりました。ですが、私たちのよく知るあの娘の消息は、結局つかめないままでした」

 無意識に腰を浮かせていた伯爵は、どさりとソファーに身を沈めた。

 二十五年前。まだ彼自身が若くそれなりの野心に溢れていた頃、それ以上に欲深かった当時のオーランシュ公爵が起こした事件。直接狙われていたのは先代のジレ侯爵だったが、暗殺者はその場にいた国王夫妻にも刃を向けた。

 自棄になっていたのかもしれない。本来の目標を手にかける寸前で、乱入してきた若い娘に声高に告発されて。

「顔立ちがよく似ていた。彼女の……アンヌ・ブランの息子ではないかと。年齢も合うようでしたし」

「ふむ……」

 疲労など吹き飛んでいた。

 アラゴン伯爵は、虚空を見据えて思考を巡らせる。

 長い間、ブランは貴族や王族の脅威だった。魔術の技と知識を用いても完全には逃れることはできず、その力に捕らえられて前公爵の手で宮廷から追われる者、命を失う者もいた。

 ブランの力が通用しないのは、オーランシュ公爵家の人間だけだった。

 あの事件で、公爵家はブランを完全に失った。当時あの一族はアンヌしかおらず、当主の失脚のごたごたで彼女は王都から姿を消してしまったのだ。

伯爵は、男爵の従者が真っ直ぐに掲げているそれにもう一度目を転じた。

 一幅の絵画。若き日のオラニエ男爵とその妻、子供達が描かれている。

「これがブランの力か……。絵や文書として人の時を暴くと聞いていたが」

 精緻な筆遣いと、優しげな色合い。何も知らずに見ていたら、思わず微笑んでしまうような心温まる絵だ。

「絵の描き手の名は?」

「確か、ミシェール・ブランと」

 食い入るように絵を見つめたまま、伯爵はうなずいた。

 生まれたときからオーランシュに縛られていたアンヌですら、それを断ち切ったのだ。

 間に合うかもしれない。

「接触してみよう。できるだけ早く」

 フェオドールがこの絵の真実に辿りつく前に、手を打たなければならない。



「国王陛下に?」

「そうだ」

 その日の朝、食事を終えたミシェールの部屋に外出の支度を整えたフェオドールがやってきた。礼装ではなく狩猟用の服を身につけていたことに彼はすぐに気づいていたが、まさかこんなことを言われるとは予想だにしていなかった。

「陛下って……偉い方ですよね」

「当たり前だ」

「どうして……僕なんかが?」

 戸惑うばかりのミシェールをよそに、フェオドールは使用人に指示を出し彼の服を用意させてしまう。

「わかりきったことだろう。言わせる気か?」

 その一言で、ミシェールは顔を強ばらせた。

 頬が、かっと熱くなる。唇を引き結び、震える指を握り込んだ。

 もらった言葉は確かに嬉しかったし、知識を得る機会を与えられたことを喜んでいた。

 でも。

 二十五年前の事件の記述が頭に浮かぶ。結局は、自分は彼の道具に過ぎないのだ。

「すぐに支度をしろ。終わったら応接間へ」

 彼に目もくれず、フェオドールはさっさと出て行ってしまう。着替える気になど到底なれなかったが、逆らえばどうなるかわかりきっていた。ミシェールは握った拳をテーブルに強く押しつける。

 悔しかった。いつの間にか、彼に何かを期待していた自分が。

「……あの」

 退出しようとしたルイーズが、躊躇いがちに口を開いた。

「旦那様を、お嫌いにならないでくださいませ」

「え?」

 そばかすの残るあどけない顔の彼女は、迷った様子で続ける。

「私達などお気にかけもしませんし、きっと顔も名前も覚えてくださってはいないでしょうけど……でも、本当はお優しい方なんです。それにお寂しい方ですわ」

 思わずまじまじと見つめると、居心地悪そうにルイーズは身じろぎしたが、視線は逸らさなかった。

「あなた様がいらっしゃってから、楽しそうでいらっしゃいます。以前は決して笑顔など見せてくださらなかったのに」

 この自分は、未だにそんな彼を見たことは一度もないのだが。

 けれどうつむきがちに一生懸命に話す彼女をしばらくじっと凝視し、彼は表情を和らげる。

「ルイーズ」

 改まって名を呼ばれ驚いたのか、ルイーズは少し目を瞠った。いつの間にか強ばっていた肩から、彼は力を抜いた。

「よければまた、あの人のことを話してもらえる?」

 利用しているようで気が咎めるが、彼女ならば彼の知りたいことをいくつか教えてくれそうだ。

「はい。私でよろしければ」

 真っ直ぐに返された視線を受け止めて、彼は微笑んだ。

 ルイーズが部屋を出てから、大急ぎで支度を整えた彼はフェオドールの所へ向かう。

 応接間に入るなり、フェオドールは立ち上がってつかつかと彼の方へやってきた。

「遅い」

 そのままミシェールの腕を引き、玄関へ向かう。転ばないように必死で足を動かしながら、彼は着慣れない上着の襟元を指でいじった。初めて着る最高礼服は、襟が高くて息苦しい。

 すでに馬車は用意されており、家の主達が乗り込むと厳かに出発した。窓を覆うカーテンの隙間から外を眺めていたミシェールの喉元に、冷たい何かが触れた。

「乱れている」

 息を止めてしまう。座席からやや身を浮かしたフェオドールの指が、彼の襟元を直していた。引きずるようにして馬車に押し込んだ最前までの仕草とは正反対に、丁寧に。

 わからない。フェオドールという人が。

「あなたは……」

 黒い瞳が、間近からミシェールを捕らえる。

「あなたは、何がしたいんですか?」

 どんなふうに自分を利用しようとしているのか。

 何を望んでいるのか。先が見えなくて、怖い。

 けれど目の前で起きた出来事に、ミシェールは息を呑んだ。

 どんなときにも隙のないフェオドールの表情が、その一瞬だけほどけた。 少なくとも、ミシェールはそう感じた。

 本当に、一瞬だけ。

 しかし、すっと黒は遠ざかる。

 触れられていた喉が、妙に熱い。

 車輪の音だけが彼らを取り巻いた。

「私は……」

 聞き逃しそうなほど小さな声が、とぎれとぎれに耳に届く。

 はっとして、ミシェールは目の前の相手を見た。

「生まれる前に勝手に失脚し、勝手に死んだ父を恨んでいた。その結果を誘発したアンヌという女を憎んでいた。没落しかかった家を建て直そうともせず、絶望に浸るだけの家族を嫌悪していた」

 事件は二十五年前。ちょうど彼が生まれた頃だ。父の顔を知らず、辛い暮らしをしてきたのだろうか。

 そう思っていたのが顔に出たのか、彼はミシェールを見て嘲笑うように唇の端をつり上げた。

「安い同情はいらん。何も知らないくせに」

 けれど言葉には、どんな棘も含まれていなかった。

「父母も兄達も弱かった。弱いことに甘んじ、強さを手に入れようとしなかった。それだけだ」

 肉親に向けるには、あまりに手厳しい言い方だ。

 ミシェールは、おぼろげな両親の思い出を回想する。貧しかったが、二人が笑顔を絶やすことはなかった気がする。

 それは、強さだったのだろうか。

「陛下はお優しく鷹揚な方だが、礼儀は弁えろ」

 王城が近づいてきたのだろうか。一方的に話は切り上げられた。

 結局質問の答えはもらえないままだったが、ミシェールは居住まいを正し国王の人となりについての説明に耳を傾けた。


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