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第四章 オラニエ男爵

 それからの数日は、何事もなく過ぎた。ミシェールは決められた講義を受ける以外の時間は自由に使ってもいいと言われ、絵を描くほかに図書室に通うようになった。

 フェオドールは執務が忙しいようで帰ってこない日もあったが、力を使って絵を描けと言われないのはやはり気が楽だった。

 こだわりは幾分消えてきたといっても、完全に吹っ切れたわけではない。しばらくゆっくり考えてみたかった。自分のことも、ブランのことも。

 図書室は、利用する者は少ない。ミシェールのために雇われている家庭教師も時折使うらしいが、基本的にはミシェールとフェオドールのためだけにあると言っても過言ではない。

 ブランの一族に関する記録もある、とフェオドールは言っていた。暇を見つけてそれらしい書物を探しているが、どこにあるのかわからなかった。

 不意に、かた、と本棚が鳴る。

 驚いて振り向き、ミシェールは目を瞠った。

 一対の青い目が、本棚の後ろから彼を凝視している。

「君……」

 以前廊下で見かけた少女だ。間近で改めてみると、本当に美しい。ふっくらした頬、快活そうな顔立ち、そして大きな丸い目はやはりあのときと同じように何の揺らぎもなく見開かれていた。

 何と言葉をかけていいか、ミシェールは逡巡する。そのとき、ふと少女が一歩踏み出した。

 ずいと、何かを突き出される。彼女の手にあるものとその小さな顔とを、彼は交互に見やった。

 ひどく古ぼけた、小さな本だった。革の表紙はすっかり日に焼けて、中の紙も変色してしまっている。

 少女は手を出したままでいる。柔らかそうな唇は、固く引き結ばれたままだ。口がきけないのだろうか。

 躊躇った後、ミシェールは本を受け取った。少女は一歩下がり、きびすを返そうとする。

「ま、待って」

 呼び止めてたものの、肩越しに振り向いた彼女に何を言いたかったのか、はっきり考えていたわけではない。

「名前……君の名前は?」

 結局、それだけを尋ねる。

「リュンヌ」

 寄越された答えは、簡潔だった。

 真っ直ぐに扉へ向かう彼女を、ミシェールは無言で見送った。

 掌の上で、本がずしりと重さを主張した。



 オラニエ男爵ジェルマンは、居心地よくしつらえられたオーランシュ公爵家の居間で、背中から噴き出す冷や汗を懸命に堪えようとしていた。上着を脱いでしまいたいが、客の身ではそれも憚られる。

「辺境に埋もれさせておくには惜しいと思いましてね。なかなかの掘り出し物でしたよ」

 葡萄酒を優雅に傾けて、彼よりも倍は若い公爵は鷹揚に微笑んでいる。しかしその黒い双眸は鋭い光をたたえたまま彼の一挙手一投足を観察していた。

「すばらしい絵でしょう?」

「……ええ」

 魔術の灯りに、その絵画ははっきりと照らし出されている。

若々しさが輝くような、母になったばかりの女性。赤ん坊をしっかりと腕に抱き満面の笑みを浮かべる男。

 人物の表情が生き生きと表現され、鮮やかであるが品のある実に絶妙な配色をされている。慶びの言葉と赤子の鳴き声すら聞こえるような錯覚を抱くほど、絵の出来映えは見事だった。

 精緻な額に飾られた画布に描かれているのは、彼と妻の姿だった。

 子供が生まれたときのことを、彼はもちろん鮮明に覚えている。あれほど嬉しく幸せで、妻を誇りに思った日はそれまでになかった。抱き上げた赤ん坊が思いの外重かったこと、何とも言えない甘い匂いを、生涯忘れることはないだろう。

 同時に抱え続けることになった、苦痛と罪悪感と共に。

「何を思ったのか、このような絵を想像で描いてしまったもので。万一男爵のお耳に穿った形での噂が届いてはと思い、お見せすることにしたのです」

 想像、という単語を強調しているが、オーランシュの当主は微塵もそうは思っていないはずだ。

 如何なる天才的芸術家であろうと、頭の中で思い描いただけでこんな絵を形にできるわけがない。

 生まれた赤子が二人だったことを知るのは、彼と妻と、あとはごく限られた信用できる人間だけなのだから。

 爵位を拝領する前から今まで変わらず尽くしてくれている使用人達が、フェオドールに情報を流したとは考えにくい。仮にそうだったとしても、絶対にもう一人の子供の行方は知られていたはずがない。

 そう己に言い聞かせ、男爵は絵からフェオドールへゆっくりと視線を移した。

「画題の選び方はともかく、本当に腕のいい画家を見つけられましたな」

「ご気分を害されましたか?」

「いえ、まったく。なぜこのような絵を、とは思いましたが」

 実際、息が止まりそうな衝撃だった。

 この絵は、始末した方が良さそうだ。他の者ならいざ知らず、フェオドールの手元に置いておきたくない。最悪の可能性だけは免れるとしても。

 異例の若さで爵位を継いだ青年。彼の兄二人について不穏な噂があるが、実際相対すればそれも真実かもしれないと思えてしまう。

 それほどに、底が知れない。

「公爵閣下。よろしければ、この絵をお売りいただけないでしょうか」

「これを?」

「ええ。事実との多少の差異はあっても、私にとっては思い出の光景です。妻も喜ぶでしょうし」

「わかりました」

 男爵にとっては意外なことに、フェオドールはあっさりと承諾した。

「差し上げます……と言いたいところですが、私の一存で決めるのは描いた者に申し訳ない。連れて参りますので、ついでに紹介させていただいても?」

 うなずくと、彼は扉まで行き、外に控えていた使用人に何事かを申しつけた。

 その画家のことも、調べ上げなければならない。

 何かが引っかかる。

 誰も知るはずのないものを絵にする。どこかで、そんなことを見聞きしたような気がする。

「男爵」

 声をかけられ、彼ははっと身体を強ばらせる。

 フェオドールが、扉に手をかけて誰かを招き入れようとしていた。

「ご紹介します。彼が絵の描き手です」

 手を引かれ、おずおずと現れた青年の髪と瞳の色。

 男爵は、危うく声を上げそうになった。

 爆発するように、頭の中で記憶が弾ける。

 触れれば消えてしまいそうな儚げな雰囲気。背は高い方だが華奢で、余計に彼の印象を夢幻じみて見せている。困惑したようにそっとこちらを見ている菫の瞳と、白い頬を縁取る水色の髪。

 一度目にしたら忘れられない美しい面差しが、遠い過去に出会った女と重なる。

 アンヌ・ブラン。

「名を、ミシェール・ブランと申します」

 フェオドールの紹介に、ぎこちないが丁寧な礼を取る青年に対して会釈を返すので精一杯だった。

 ようやくわかった。フェオドールがこの絵を自分に見せた理由が。

 ブランの名を、男爵はもちろん知っていた。忘れていたのは、もうとっくにいなくなったと思っていたからだ。

 これは挑戦であり、脅迫だ。

 オラニエ男爵は思わず、二柱の女神に心の中で助けを求めた。

 かつて貴族達にとって脅威だったあの一族を再び手中に収めたことを、若きオーランシュ公爵はいずれ広く知らしめるのだろう。

 あるいは笑顔で、あるいは刃で。



     手記



 私にできることは、驚くほど少なかった。どうやら自分の力を過信していたらしい。

 何とか、私に取り得る最善の方法を見つけなければ。

 彼に見つからないように。彼は、危険だ。


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