第三章 母の肖像
眠りから覚めたような瞬間を経て、ミシェールはそこにある絵を認めた。描くつもりなどなかったのに、紙を手に取った途端気が遠くなっていた。これはきっと、その結果だ。
木炭の線と濃淡だけで描かれた光景。中心にいる人物が誰なのかすぐにわからなかったのは、最初に見たときに印象に残った特徴的な口ひげがなかったからだ。
これは、おそらく過去だ。広い寝台に女性が横たわり、傍らの男爵は顔中を笑みにして腕の中の何かを見つめている。口元が、今にも動き出しそうだ。
「子供……?」
目をこらしてみて、彼は呟く。男爵が抱いているのは、赤ん坊ではないだろうか。そういえば、息子がいると聞いていた。
けれど。
簡単な素描だから、そう見えてしまうだけかもしれない。男爵の腕の中にいるそれすらはっきりしないのだ。
女性の頭のすぐ隣りにあるのは、何なのだろう。
木炭を持った手を持ち上げようとして、はっとする。
これ以上描き加えていけば、さらにはっきりしてしまう。視えるはずのないものを識る自分の力を、肯定してしまうことになる。
――その力が、それほど忌まわしいか?――
頭の中を、声がよぎった。
――何を恐れている? 常人と違うからと、排斥されることか?――
フェオドール。
人間にないはずの力を、備えている人。
それを使いこなし、思うがままにしている人。
――目を逸らすのはやめるんだな。私はお前の力を否定も迫害もしない。存分に描かせてやろう。――
ミシェールは、ゆっくりと深呼吸し、もう一度キャンバスの絵を眺めた。
男爵の幸福そうな笑顔。妻であろう女性の、満ち足りた様子。
泣きたいような、胸が締めつけられるような、温かな気持ちがせり上がってくる。
その想いは命のない木炭を通じ、溢れた。
「渋っていたわりには力作だな」
開口一番に皮肉をぶつけられても、ミシェールは無言を通した。というよりも、身体中が重くて口をきくのも億劫だった。
「それにしても、何だこれは?」
訊かれてもわかるはずもないし、別に答えも期待されていなかっただろう。
フェオドールは少し離れて、絵の具の匂いも真新しい絵をためつすがめつしていた。
「出産風景か……。これは奥方だな」
形のいい眉をひそめ、彼はソファーに沈んでいるミシェールに顔を向けた。
「お前の想像で描いたわけではないな?」
「無理です……描いているときは意識がありませんから……」
実際、すべて完成してようやく我に返ったのだ。木炭でただの紙に描いていたはずがいつの間にか画布に色を塗っていて、本当に頭がはっきりしたときにはこの絵が目の前にあった。
だが、本当にこれを自分が描いたのかすら曖昧だ。
「ふむ」
フェオドールはしばしなにやら思案していたが、つかつかとミシェールの方に歩み寄ってきた。そして、背中の下に腕を差し入れ、抱き起こす。
「何を……?」
呂律の回らない口で抗議の声を上げるより早く、彼は柔らかいものの上に放り出されていた。
寝台だと気づいたときには、フェオドールは部屋を出て行ってしまっている。
一瞬だけあっけにとられていたが、彼はもそもそと靴を脱ぎ捨て、掛布の中に潜り込む。肌触りのいいシーツの感触は非常に魅惑的だった。
今は、今だけは何も考えずに、眠りたかった。
あの絵がどう使われるのかも、男爵の運命も。
描かれた赤ん坊が、二人いたことも。
身体のだるさがぬけたのは、絵の完成の翌々日のことだった。
今日まで勉強は休みになっている。朝食が終わってからずっと、ミシェールは積み上げられた書物の山を崩していくことに夢中だった。
太陽の光がたっぷり入る窓際に椅子とテーブルを移動させ、ポットとティーカップを時折傾けながら、夢想に浸り続けている。ルイーズという名のそばかすの少女が、お茶の時間に運んできてくれたものだ。
本を読め、とフェオドールに命じられて何冊か押しつけられたのだが、読み始めると虜になった。小難しい学問に関するものではなく、子供の読むような物語だったから親しみやすかったのだ。
両親は彼に読み書きを教えるのに熱心ではなかったし、二人の亡き後彼の世話をしてくれた村長も、簡単な手紙をしたためるくらいの教養しかなかった。それでも自分の名前すら書けない者が大半の村ではとても尊敬されていて、ミシェールは彼の恩恵を受けたのだ。
画家として生計を立てるようになってからまた少しだけ勉強したが、必要最低限の読み書きが精一杯だった。
生まれて初めて触れる文字で創られた世界に、ミシェールはすっかり魅了された。昨日などはのめり込みすぎて、紙面が見づらくなって初めて夜になっていたことに気づいたくらいだ。
だからいきなり目の前から言葉の連なりが消え失せたとき、驚きよりも怒りが先に立って、本を取り上げた犯人を思わず睨みつけてしまったのだ。
その直後、目に飛び込んできた光景に青ざめ、椅子の上で腰を引く。
「ずいぶん熱心だな?」
いつ部屋に入ってきたのか、フェオドールは本を片手にミシェールを見下ろしていた。
口調は揶揄するようだったが、黒の双眸は楽しげに細められていた。縮こまっているミシェールの膝に本を戻し、彼はテーブルに積み上げられていた残りの書物に視線を移した。
今日は外出の予定はないようで、シャツに袖のない上着だけの簡略な服装だった。
「これは読み終えたものか?」
「……はい」
「そう怯えるな。尋問しているわけではない」
本人にそのつもりがなくても、威圧的に聞こえてしまうのだ。毎日のように顔を合わせていても、苦手意識が消えない。
強引にこんな所へ連れ出され、ほぼ軟禁されているのだから当たり前なのだが。
「お前は本当に飲み込みが早いな」
「え?」
「ベルトラムが褒めていたぞ」
歴史の教師の名前と言われた内容に、ミシェールは目を瞠った。
「一月足らずで、本来の予定の三分の一を消化したそうではないか。簡単な文章すら満足に綴れなかったのが嘘のようだ」
「そんなこと……」
そもそもは、脅迫されて覚えさせられたことだ。でも。
なんて真っ直ぐな褒め言葉。
頬が熱くなるのがわかった。気恥ずかしくていたたまれなくなり、彼はうつむく。
すっと、耳の横を風が走る。目を上げると、フェオドールの指に自分の水色の髪が絡められていた。
「アンヌとは違う色だな」
「え?」
心臓が跳ねる。
「あなたは、母のことを?」
フェオドールは今年二十五だと聞いた。母がこの家に仕えていたのが事実だとしても、「本人は知らない」と初対面の時に言っていた。
だから、尋ねることはしなかったのだ。
彼は、ミシェールの髪をもてあそびながら不思議な表情をした。
「会ったことはない。顔は見たことがある」
「……?」
「肖像画が残っている」
首をかしげた彼に、答えは簡潔に与えられた。
「見てみたいか?」
問われて、間髪入れずにうなずいた。七つの頃に死別したのだ。面影もおぼろげにしか覚えていない。
母の顔を、見たかった。
フェオドールは、無言で先に立って歩き出した。
昼間なのにカーテンが引かれているのは、壁に無数に掛けられている絵を守るためだろう。
額に入れられ、立派に飾られている絵の中で真っ先にミシェールの目に飛び込んできたのは、溢れんばかりに咲き誇る薔薇園の様だった。
真紅が迫ってくるように情熱的でありながら、花びらや葉に滴る朝の真新しい露の清廉なみずみずしさは柔らかく、朝靄の濡れた薫りすら錯覚しそうになる。
色遣い、筆の運び、構図、どれを取っても自分には遠く及ばないと思える、すばらしい絵画だった。輝く太陽の力強さ、その光の中で天を目指し風を感じている色とりどりの薔薇に、彼は立ちつくしたまま見入っていた。
「ミシェール」
後ろから肩に手を置かれ、ようやく彼は長く嘆息する。胸がどきどきしていた。
「誰がこの絵を?」
「お前の先祖の一人だ」
そう告げられても、不思議なことに違和感や不安感を少しも抱かなかった。
「ブランの力もそもそもは、曖昧な予兆だけを読みとることができるだけの、不安定なものだったらしい。どこかの家の私生児か何かの血筋と考えられていたようだが、定かではない」
絵から目を逸らさぬまま、静かに流れてくる青年の声に耳を傾ける。
「我がオーランシュの三代目当主が、家に伝わる魔術の秘技と秘薬を用いて、時間をかけてそれを強めていった。七代目のころには、他の貴族や王族からも恐れられるようになった。もちろん影の部分でだ」
人の過去に潜む秘密を利用し、未来に犯す失敗を予測し、オーランシュ公爵家は栄えたのだという。
ブランの一族がその力を使うときはミシェールと同じように意識がなくなることが多く、それを絵や文字として記し、残したものの一部がここにあるのだとフェオドールは語った。
しかし栄華は、先代に当たる十五代目で終わりを告げた。
「お前の母親のせいだ」
「……」
「アンヌは、父が失脚させようとしていた当時のジレ侯爵を助けた」
「え……?」
「おそらく、侯爵暗殺の計画を立てていたのだ。我が父上は」
勢いよく振り返った視線の先で、フェオドールは自嘲めいた笑みを浮かべていた。
「父は浅はかだったからな。政敵は安易に殺せばいいと思っていた節がある。飼い犬に手を噛まれなくとも、自滅していただろうな」
この人は。
この人のやり方は、どうなのだろう。
「政局を担う者が死ねば、多かれ少なかれ面倒ごとが起きる。目障りだからといって打ち払えば解決するというわけでもない。蜂を一匹殺せば、そのあとで群れに襲われることもある」
一歩後ずさったミシェールの腕が掴まれ、引かれた。
「アンヌの父が描いたのだったか。お前ほど腕はよくなかったようだ」
部屋の隅の方、壁際の目立たないところに、その小さな絵は埋もれるようにして飾られていた。
銀色の髪を長く伸ばし、頭の上で青いリボンを結んでいる。十七歳くらいだろうか。ふっくらとした頬と大きな菫色の瞳が印象的な、優しげな面差しの少女が微笑んでいた。
「わかるか?」
無言でうなずき、つくづくと絵の少女を見つめる。
生活は貧しかった。手は温かかったが、いつもかさかさにひび割れていた。
それでも、笑顔を絶やさない人だった。
こんな風に、優しく穏やかに笑う人だった。
胸が切なさでいっぱいになる。
「お前がその力を忌むのは何故だ? あからさまに迫害でもされたか?」
「……いいえ」
うつむいて、ミシェールは自分の両手に目を落とした。
「わけがわからなくて、怖かった。だって普通はできないはずのことだから」
不審な目で見られることが多くなった。それがどんな風に変わっていくかが恐ろしかった。いても立ってもいられず、毎日が不安でたまらなくて慣れ親しんだ村から逃げるように去った。
「臆病だな」
言葉とは裏腹に、頭を抱き寄せた手は大きく優しかった。
「未知なるものは実際以上に恐ろしく感じる。向き合い、理解すれば対処法も解決法も考えることができ、ただの障害や厄介なものとしか見えなくなる」
初対面の時は、不遜で威圧的な言動が害意の表れのように思えた。自分を人として扱うつもりなど毛頭ないのだと、勝手に思いこんでいた。
何一つ、知らなかったのに。彼のことを。
魔物のような人物像を、心の中で創り上げて彼に重ねていた。
「ブランはもうお前一人だが、書庫には文献が残っている。逃げるよりも立ち向かう方が楽になれるときもあるぞ」
ミシェールは、恐る恐る顔を上げた。少しだけ高い位置にある黒の瞳は、静かだが強い光をたたえている。
「力を抜きにしても、お前の絵はすばらしい」
出会って以来初めて。
その目が、柔らかくとろけた。
「心を戒め、才を振るえぬのは悲劇だ」
間近で微笑まれて、なぜだかミシェールは顔が熱くなった。
こんな表情もできる人だったのか。
「前にも言った。私はお前を否定しない。ブランの力も才能も」
ミシェールから身を離し、彼はアンヌの肖像に視線をやった。
「お前に害を為す者が現れても、必ず守ってやろう」
その横顔を、じっと見つめる。
強い意志を感じさせる、凛々しい美貌。
この人のそばにいる限りは、自分を恐れたり隠したりしなくてもいいのだろうか。
「ありがとうございます……フェオドール様」
向けられたまなざしを、今は当たり前のように受け止めることができた。
手記
これは、一つの賭けだ。
私は、私が見たものを信じる。たとえその結末を見通せなかったとしても。
その上で私がすべきことは一つだ。
私は私の愛する存在を、きっと守り導いてみせよう。




