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第三話


 帰宅をしたのは夕暮れが目前に迫った時刻だった。十八時の門限は少しだけ過ぎていた。自宅には既に灯りが付いていて、イヤーマフを外しながら足を早める。


「ただいま帰りました」


 気が付かれなければいいと思いながら、静かに帰りの挨拶を呟く。いくらダメ元で願っても、私の帰宅が見逃されるはずはない。リビングからは間を置かずに母さんが顔を覗かせた。


「遅かったじゃない。どこかに寄るなら連絡くらい」

「バスに中々乗れなかったんです」

「そうだとしても遅いと心配するでしょう」


 ほんの少し寄り道をしたことは話さなかった。元より、母さんはそんなことを気にしていない。母さんが心配しているのは私のことではない。私が何か問題を起こしていないか。誰かに危害を加えていないか。心配なのはそれだけだ。


「少し疲れたので、部屋で休みます。食事はいりません」


 軽く頭を下げて、二階への階段に足をかける。母さんの声はもう聞こえてこなかった。



 魔法使いが出て来る本は、やはり埃を被っていた。手に取るのはいつ以来だろう。分厚い一冊は七巻分が揃って並べられている。読み応えがあるシリーズものは、私の子ども心を完全に掴んでいた。

 大人になれば自分にもあんな風に信頼し合える仲間が出来て、命をも賭けるような素晴らしい体験が待っているのだとばかり期待したものだ。

 

 けれど現実は、そんなに上手くはいかない。小説との唯一の共通点は、大切な人の命を脅かすような出来事を経験したことだけだろう。


「何か考えごと?」

「あ、姉さん」

「ごめん。扉、開いたままだったから」


 私が慌てて本を置くと、姉さんは申し訳なさそうに肩を竦めた。

 六つ年が離れた姉さんの楓は、あと数年で三十になる。夜勤のある福祉の仕事は忙しそうで、実家暮らしは助かると、いつの日か母さんと笑っているのを聞いたことがある。


 姉弟仲は悪くない。姉さんは私のことをよく気遣ってくれているし、私も姉さんのことが家族として好きだ。だから余計に、姉さんに対する罪悪感が常に付き纏う。


 進学した大学には満足に通えず、何かと目が離せない弟のために、姉さんはここに縛り付けられているのだろう。完全に悪は私で、傷付いたのは姉さんなのに。それでも姉さんは、いつも私の優しい姉でいてくれる。


「懐かしいね、それ。私も好きだったな。梓と違って私は映画派だけど」


 私がテーブルに置いた本を見つめながら、姉さんはそう言った。原作は映画化もされて、あの頃の子ども達は誰もが魅了されていた。

 子どもの頃は二人揃って魔法の世界に憧れたものだ。空を飛べたら。透明人間になれたら。過去に戻れたら。記憶を消せたら。私は今でも、魔法使いに憧れる。


「思い出しちゃう?」

「いえ。この本は関係がないので」


 姉さんの言葉は否定して、埃が被った本をそのまま棚に戻した。楽しい記憶はあまりないし、魔法の呪文を唱えても悲しい記憶は消えてくれない。

 思い出していた全てを振り払うように頷いて、姉さんと視線を交わす。姉さんがこの部屋を訪ねた理由は分かっている。


「時間、ですよね」

「うん。でも、まだいいよ。もう少し私は起きているから」

「もう支度は終わっています。大丈夫です」

 

 食事を断ったけれど空腹は感じていない。シャワーも済ませて寝巻きに着替えてある。


「薬は飲んだ?」

「はい。済ませてあります」


 テーブルの上には空のシートが置かれている。薬を飲んだ後は、そうする約束になっているのだ。私はあと眠りにつくだけだ。


「何かがあったら必ず合図をして。分かった?」

「分かっていますよ」


 頷く私を見つめる姉さんの瞳は今夜も揺れていた。そうして部屋から去ろうとする姉さんの背中は小さい。


「姉さん。あの……」


 思わず呼び止めてしまってから、繋げる言葉に悩む。


「うん?どうしたの」


 先生に促された提案を、相談するなら姉さんしかいない。父さんはもうこの世にいないし、母さんの反応は嫌でも想像がついてしまう。


「梓?」


 思わず俯いた顔を姉さんに覗かれる。全身に力が入った。


「えっと……いえ、すみません。何でもありません」


 例の相談はもう少し先でいい。今夜はそれが心を乱してしまう気がした。ただの義務に思えるような通院もやはり私には負担なようで、診察の日は気持ちが落ち着かなくなる。

 早まる鼓動と霞み始めた思考に、既に違和感を覚え始めていた。


「大丈夫?今夜は一緒にいようか」

 

 姉さんにはきっと、全てを見透かされている。私が何を話そうとしていたのか。診察で何を言われたのか。私の中で何かが変わろうとしていることすら、きっと。


「いつかお話がしたいです。きちんと」

「うん。そうだね」


 辛いのは私ではない。辛いのは姉さんの方だ。


「おやすみなさい。姉さん」

「ゆっくり休んでね。おやすみ」


 姉さんはそのまま、名残惜しそうに部屋の扉を閉めた。静けさが満ちた部屋に、鍵をかけられる音が響いた。それはどこか遠慮がちで、私はふっと肩の力を抜いた。



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