第一話
病気の表現を含みます。大丈夫な方のみ、読んでいただけたら嬉しいです。
また、悪夢を見た気がする。毛布は床に落ちて、全身が嫌な汗で濡れていた。いつの間に眠りに落ちていたのかは分からない。夢の記憶は、押し寄せた波のように遠ざかっていく。
カーテンは開け放たれたままで、部屋の中には陽の光が満ちていた。
ようやく、ほっと溜め息をつく。ベッドから足を下ろして、現実が色付いていくのを待つ。変えてはいけない目覚めの習慣は、心を落ち着かせてくれた。
朝を疑っている訳ではない。一日は当たり前のように繰り返されることを、私は信じている。
壁にかけられたアナログ時計は、昨夜見たときと同じ時間を示していた。もうしばらく動きを止めたままの針を、ゆっくり眺める。火照っていた身体は冷え始めていて、小さく身震いをした。
階下に物音が聞こえる。私はベッドから立ち上がった。今日は予定がある日だ。わざわざ確認をするまでもない。
部屋の扉に手をかける。重たく見えたそれは、簡単に開いた。
***
「十七番の方、診察室へどうぞ」
番号を呼ばれて、待合室の硬いソファから腰を上げる。名前をアナウンスされないのは、プライバシーへの配慮らしい。精神科ではこれが普通だ。十七が書かれた受付表を手にしたまま、私は診察室の扉を押した。
「梓くん。櫻井梓くん。こんにちは」
「よろしくお願いします」
主治医の高田先生は眼鏡をかけた白髪の老人で、決まって最初に私の名前を確認するように繰り返す。いつも同じやり取りは、変化に苦手な私を安心させる。
こちらのペースなど関係なくやたらと踏み込まれたり、逆にこちらの感情など無視をして淡々としていたり、医師も人間なのでタイプは様々だ。
軽く頭を下げながら、先生と向き合って座った。気の良いお爺さんと話しているような空気が、私には合う。
「どうですか。体調は」
「特に、変わりはありません」
「眠れているかい」
「まあ、一応……はい」
「食事はちゃんと摂れている?」
「それは、はい。大丈夫です」
まずは事務的に、身体のことを聞かれる。隔週で顔を合わせていればそこまでの変化もなくて、私も事務的に返す。
「お薬のことで困っていることはないかな」
「今のところはありません」
隠し切れない隈があることを、先生が見逃すはずはない。それでも私が何も言わなければ、先生は正面から疑うことをしない。
「最近何か、楽しいことはあった?」
「えっと……そういえば、昨日読み終わった本が、面白くて。それは楽しかったかも、しれないです」
「そうかい。どんな本だったのかな。僕も読書は好きでね」
「あの、魔法使いが出てくるお話です」
私は古い記憶を探った。子どもの頃に好きだった小説は、もう長いこと本棚の隅で埃を被っている。先生は柔らかく微笑んだまま頷いた。眼鏡の奥の小さな目は、猫のように細められている。思わず、肩まで伸びてしまった黒髪を撫でた。
「それじゃあ、悲しいことは?無理に話さなくていいからね」
短い診察時間が終わりの合図だ。無意識のうちに肩の力が抜ける。
「それも別に。あ、悲しかったことではないんですけど」
「うん、なんだい」
「部屋の鍵、もう必要ないのでは、と思うんです」
私の頭の中で、鍵をかけられる冷たい音が響いた。
「梓くん、今日は一人?」
「はい。そうです」
「そのうち一度、お姉さんか親御さんと一緒に来てもらえるかな。退院してしばらく体調も落ち着いている。これからのことを話し合ってみましょう」
先生は私の反応を待っているようだった。嫌だと暴れれば、また病院送りになるだろうか。そうする度胸もない私は、やっぱり先生の言う通り、状態が落ち着いているのだと思う。背筋を伸ばして、軽く頷きを返す。
「分かりました。そうします」
「よろしくね。では、また二週間後。辛くなったら、考える前にいつでもおいで」
通院の間隔はまた同じだ。喉元を通り過ぎた溜め息を飲み込んで、先生に頭を下げる。
高田先生は優しい大人だ。先生が纏う柔和な雰囲気は、思わず気が緩んでしまいそうになる。最後に先生は、いつも同じように診察を締め括る。私と先生が顔を合わせる頻度は、二週間より短くなったことがない。
「十七番でお待ちの方」
診察の受付番号と同じ数字が私を呼ぶ。
「前回と処方は同じですね。十四日分、出ています」
窓口に立つ女性の薬剤師は、いつも淡々としている。目の前に並べられた薬はどれも見知ったものだ。律儀に続く説明は頭の中を通り過ぎていく。効果はあまり、実感していない。
寝付きを良くすると言われても、毎晩あまり心身は休まらずに朝を迎える。気持ちを落ち着かせると言われても、そもそもそこまで心が荒れている自覚はない。
「容量は必ず守ってくださいね」
「はい」
上の空な相槌を打って、処方薬が詰め込まれた紙袋を受け取る。二週間分の重みに、気持ちは沈んだ。
私が先生の所に通い始めて、ちょうど一年程になる。初めて診てもらったのは、この病院に運ばれたことがきっかけだった。七ヶ月もの間、入院していたことを考えると、先生との付き合いはもうじき二年といったところだ。
正直、私自身は入院にも通院にも必要性は感じていない。ただ時間を費やしているだけのように思う。実際に何も状況は変わっていないからだ。
ただ、もう二度と、誰かを傷付けることはしたくない。同じ過ちを、絶対に繰り返してはいけない。意味がないと思いながらも流されている理由は、ただそれだけだ。
新しく長編の連載を始めました。
活動報告に詳細を書いています。併せてご覧いただけたら幸いです。




