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精霊流し  作者: 名夢子
32/46

進路

三十二


 僕の右拳は完治した。ピアノも自由に弾けるようになった。少し前から指揮はしていたが、やはり自分がピアノを弾くのに不自由な時間は、鬱憤が溜まっていた。その澱をゆっくりと濾過するように、ピアノを弾いていく。潤滑油を指した歯車のようにくるくると良く回る。

 先日から、土日の部活が終わってから、愛宕のおじさんの家で、篠沢先生と大塚のじいさんの遺影を描き始めた。二人の遺影写真をポジフィルムに撮ってから、そのフィルムを幻灯機にかけて壁に遺影を引き延ばす。そこに厚手の模造紙を貼り付けて、いきなり薄墨で陰影を描いていく。

 引き延ばされた映像はぼやけているのだが、そこに墨がのってくると、だんだんと、そこに篠沢先生が生きて、呼吸をしているかのように見えてくる。幻灯機の温度によってフィルムが伸びてくる。それと微妙な家の振動とが重なって、映像が揺らいで、呼吸をしているようにみえるのだ。大まかな輪郭が整うと、筆の大きさを小さい方に変えていき、墨も濃くして、仕上げていく。思ったより早く篠沢先生の遺影画ができあがった。

「こいで、まぁ八割方できたかな。それにしても美しか先生やね。」

 おじさんが、しげしげと眺めて言う。さっそく篠沢先生のお母様に電話をして、夕方見てもらうことにした。幻灯機の位置を遺影の四隅に合わせるように点を打ち、壁からはがした。日光に照らされた先生のお顔が、うれしそうに空を見上げていた。

 大塚のじいさんの方は、なかなかうまくいかなかった。深く刻まれた皺が、陰と見間違えるため、気がつくと、顔中が真っ黒になっていた。2枚目の紙を貼って、おじさんに手本を描いてもらう。さすがに筆が速い。あっというまに、大塚のじいさんが生き返った。

「皺と陰は見たらいかん。皮膚の明るかところば、見つめるとよ。」

 なるほど、明るいところを見ていれば、暗いところも気がつくと言うことか。


 先生の絵が乾き、墨も落ち着いた色になり、またしっとりとした遺影になった。太い円筒形のケースにしまい、僕は先生のお宅に向かった。

 夕方のラッシュもあり、バスは時間がかかった。途中で降りて路面電車に乗り換えた。あっといまに先生のお宅の前に着く。この間のお礼だと、殴ってけがをした電信柱を足蹴にした。

 先生のお母様は、僕とおじさんで描いた遺影を見ると、目頭を押さえながらも、じっと食い入るように見つめた。

「ようできて。頼んで、本当によかったわ。絵というのはすごかねぇ。吉野君、上手なんやねぇ。」

「ありがとうございます。いや、僕も、おじさんに教わっただけですけん。なんか修正するところはありますか。」

「ないわ、もうこのままでいいぐらい。」

「おじさんの話だと、あとは目を入れるのと、唇周りに筆ば入れるって言うとりました。」

「わかりました。おまかせしますけん。」

 僕は、ありがとうございました、と言って帰ろうとすると、

「急で悪かけど、お願いがあるとばってん」

 どうしたのだろうと、浮かした腰を元に戻す。

「レッスン室で、ピアノば弾いてくれんやろか。玲子がうなって、こん家からピアノの音が消えて、寂しかとよ。わたしも少しは弾けるとやけど、自分で弾くとよけいに寂しくてね。」

 ああ、そんなことはおやすいご用ですよと、僕は久しぶりに、本当に久しぶりにレッスン室に入った。長崎の家は、湿気との戦いである。ちょっとでも手を抜くとすぐにどこかにカビが発生するほど、梅雨から秋にかけてはカビとの戦いだ。冬場もストーブの上で沸かす薬罐の湯気で、カビが発生する。古い木造住宅ほどかび臭いのだ。

 しかし、このレッスン室は以前と変わらず、ピアノの弦とワックスのにおいがする。そして、先生お気に入りのウォールナットの椅子。それとおそろいのメトロノームが、昔のまま置いてある。何を弾こうかと迷っていると、

「そういえば、あなた、去年の集会の時、弾かなかった曲があるでしょ。プログラムには出ていたけれども、連弾してくれたから。」

 ああ、そういえば。バッハのトッカータ・ハ短調、覚えているかな。弾いてみます、といって目を瞑った。

 高らかに右手から暗い、そう悪魔のささやきのようにテーマが急流に従って、そうなることが運命のように低音部まで一気に駆け下りる。いつの間にか右手から左手に音が乗り移り、滝壺でうねりをあげている。そして、別の悪魔が空から舞い降りてくる。交互にやりあう悪魔達。いずれが勝つこともなく、負けることもなく、ただ戦う。

 ああ、こんな邪悪な音楽では無いはずだ。ハ短調は悪魔の音ではないのだ、悲しみ、そう希望を失わない悲しみなのだが、どうして今日はこんな音楽なのだ。

「あっ」

 と僕は思わず声を出してしまった。左小指が鍵盤からこぼれ落ちたのだ。音楽は消えた。悪魔も消えた。

「すみません、練習不足で。うまく弾けずに、ほんとすみません。」

「急に言い出したからね。こちらこそ、ありがとう。でも、玲子だったら、きっとすごい嫌みを言われたかもね。うふふ」

 先生のお母さんは、先生のレッスン風景を思い出したのだろう。きっとレッスン室の向こうの部屋で、一部始終を毎日のように聞いていたのだろう。

「はい」

「あなたとのレッスンの時はなにやら小言を言っていても、あなたが帰るといつも、少し寂しそうにしていたわ。もっとレッスンしたかったのかも。なにかにつけて吉野君をプロにしたい、って言っていたのよ。あら、ごめんなさい、あなたがどう思っているか気にもせず、話しちゃって。」

「いえ、いいんです。先生もプロになれ、って言っていましたから。」

「そう。どうするの。今レッスン受けてないのでしょ。」

「はい。このまま独りで勉強します。それで音大受けます。当面の目標です。プロになるかどうかはわかりません。自分にそこまで根性があるかどうか。ただ、篠沢先生の弟子だったという誇りだけは失わないようにしますから。」

「そう言ってくれると、あの子も浮かばれるわ。遺影画まで描いてもろうて、本当にありがとうね。ありがとうございます。」

 先生のお母様が深々と頭をさげる。ほぼ真っ白になった髪の毛に向かって僕も頭を下げた。


 先生の家を出ると、例の電柱が目に入った。さっきの僕の音楽といい、忌々しい。頭の片隅に先生の婚約者の顔が浮かんできた。あいつのせいや。帰り際に、先生の精霊船を作っている町の集会所に顔を出した。町内会長のおじさんが僕の顔を見て手招きする。今年はこの町内会で4艘の船が出る。意外と少ないそうだ。しかし、今年は篠沢先生の船が古式に従った本造りとあって、木造船工場の船大工がひとり雇われていた。まわりの素人はほとんど手を出せない。出せるのは、船が出来上がった後の飾り付けや、車輪の取り付けといった力仕事だけだ。相当の重量もあり、これをこの集会所から一旦坂を上らせ、中川を渡り大通りに出すだけでも、かなり大変だろうと町内会長は言っていた。

「もちろん、おいたちも手伝いますけん。」

「ほう、掛け持ちはできんばい。」

 そうだ、大塚のじいさんの船はどうする。船出しから納船まで、よっぽどの事がない限り、船から離れるわけにはいかないのだ。先生の船旅は古式に則ったものにするという。ということは脇人も脚絆、褌、股引、晒、鉢巻で、手に白木の錫杖。船と脇を固める人々との間は絹か木綿の綱。そういった衣装にも金がかかる。

「そうそう、テレビ中継ばするげな。こん間も、船造りの様子ば、撮影していったと。東京もんは、好かん。土足で礼もせずに舟場に入ってきて。こげなは、地下(じげ)もんだけでやりたか。」

 そうぶつぶつ言うと、町内会長は、自分たちの船造りに戻っていった。しきたりを知らない者が、知らないことを言い訳にして、ものごとを蹂躙して良いわけがない。昔から郷に入らば郷に従え、と言うではないか。そういったことすらも知らない東京の大人が、これから僕たちに禍をもたらすであろうことは、先ほどの僕の音楽が予言している。僕にはわかっちゅう。背中に背負ったケースの中の先生の遺影画がかさこそと、音を立てて騒いでいた。

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