2−4.違和感と鈍感
降儀祭は、準備や後の支度も含めて約一日半に及んだ。午前中にゆっくり湯浴みをしてから宮殿へ帰還し、昼餉を済ませると、すぐに政務に取りかかった。
「念のため確認だけど、私がいない間、特に問題はなかった?」
執務室には宰相の桃李と倫花の二人きり。倫花は自分が不在だったからといって、政務が滞っていたとは思っていない。だけど、落ち着かないのも事実で。
「もちろん、陛下が気掛かりになるようなものは何も」
「さすが桃李。私があと一月いなくてもどうとでもしてくれそうよね⋯⋯」
倫花は宰相である桃李に絶大な信頼を置いている。それは政務だけでなく、ちょっとした相談においてもだ。
「一月は厳しいですね。今回みたいに陛下が事前に隅々まで手を回してくれていたら別ですが」
眉を顰めて心底嫌そうにする桃李に、倫花は苦笑した。
「手回しって、大袈裟ね。各方面に仕事をばら撒いただけなんだけど」
戻って来てからあたふたするのが嫌だから、そうならないよう関係各所に仕事を押し付けてきた、が正しい。
「その裁量が普通は難しいんですけどね⋯⋯」
「ん?」
ぼそりと漏らした桃李の言葉は、ちょうど欠伸をしていた倫花の耳に入らなかった。
「ところでさ、桃李って神殿の祈りの間に入ったことある?」
「あるはずがないでしょう。そもそも、神殿の奥は教皇と皇帝陛下の許可なしには足を踏み入れることすら叶いません」
「だよね。そうだよね⋯⋯」
ふと思い出した壁の文字。やはり誰かが侵入したとは考え難い。何より、祈りに集中していたとはいえ、さすがに誰かがあの狭い空間に入ってきたのなら気付くはずだ。
「何か面白いものでも見つけたんですか?」
「ううん、面白くはないけど、怪奇現象に遭遇したわ」
「というと?」
怪訝な顔をする桃李に、倫花は祈りの間であった出来事を簡単に話した。
「やっぱり教皇猊下の仕業かしら? それとも、何か特殊な仕掛けがあの空間にあったとか?」
「そこで龍神様の御業に行き着かないのが、陛下らしいですね⋯⋯」
眉間に手をあて呆れたように言われ、倫花はムッとする。
「行き着かないでしょう。実在しないもの」
「マジかよ、この皇帝⋯⋯。どんだけ信仰心が無いんだよ」
桃李は臣下としての取り繕った態度をかなぐり捨て、倫花の目の前で盛大に悪態をついた。
「嘘でしょ、桃李は龍神様を信じてるの? あなたは迷信とかそんなの信じないタイプだと思っていたわ」
「むしろなんで信じてないんだよ⋯⋯。君が皇帝になったのは、誰が指名したのか忘れたっていうのか? 龍神様だろう?」
「ええ! 龍神様のお告げに見せかけて神殿関係者たちが決めてるんでしょう? やだ、桃李もそっち寄りだっただなんて!」
「そっち寄りってなんだ。そんな態度でこの一年よく皇帝としてやってこれたな⋯⋯本当なら、バチが当たってもおかしくない」
「バチなんて当たりようがないわ。そもそもいないんだもの」
「⋯⋯」
眉間に皺を寄せ、無言でこちらを見つめる桃李に、倫花は自分が悪いことをしたような、妙な罪悪感に襲われる。
「⋯⋯なんかごめん」
「俺に謝るな。じゃあ問うが、なぜ君の髪は皇帝の証である紅い髪に染まったんだ?」
「それ、栞那にも言われたわ。怪奇現象よね」
「⋯⋯歴代の皇帝が任期の間は病も、何なら風邪一つ引くことがないのは?」
「偶然でしょ。ここまで手厚い待遇されてたら風邪も引かなくなるわよ」
「皇帝は教皇と同じく、龍神様の声が聞こえると言われているが」
「残念だけど、この一年一回も聞こえてきたことは無いわね」
「⋯⋯」
桃李の眉間はいよいよ深くなった。彼を困らせている自覚はあったのだけれど、こちらは本心を語っているだけなのだ。
(確かに、髪色とか、ちょっと不思議に感じることはあるけど、どこかに種も仕掛けもあるはず。龍神様の声が聞こえるだなんて、先帝から聞いたことないし)
「――では、謎の文字の件は、陛下の幻覚ということで。ところで、昨日上がってきた議案で相談したいことが」
「無理やり纏めたわね⋯⋯はいはい、そんなじとりと睨まないで。で、相談したいことって?」
結局、祈りの間に浮かんだ文字については何もわからないままで。倫花も考えても仕方がないと、謎は謎のまま置いておくことにした。
***
「陛下! そろそろ休憩時間の頃合いで!?」
「本当、毎度寸分の狂いもなくオヤツの時間にやってくるわね⋯⋯」
溜まった決済を一通り捌いたあと、侍女が持ってきた三色団子の串を手に取ろうとしたタイミングでいつものごとく八千代がやってきた。
彼が同じ空間にいるだけで、くたびれた気分が無理やりにでも引き上げられるのだから不思議だ。
「よし、今日も間に合った」
倫花が休憩を取るとわかれば、八千代は皇帝の臣下から、ただの茶飲み友達として振る舞うようになる。これもいつものこと。
「昨日はリンがいなかったから、今日は長めに休憩を取る」
「なに確定事項のように言ってるの。私はこれを食べたらすぐ政務に戻るわよ。というか、昨日あれから大丈夫だったの? 失神してからどうなったのか聞いてなかったのだけど」
「恥ずかしいこと蒸し返すなよ⋯⋯紫音の野郎、本当容赦なくてムカつくわ。起きたときは、リンたちが出発してしばらく経った後だった」
「うわー、かなりの間伸びてたってことよね」
「だから、恥を抉んなって。やっぱ身体鈍ってたこと反省してんだから」
八千代は不貞腐れた顔で皿から団子を三本まとめて掻っ攫っていく。八千代のご相伴は毎度のことなので、オヤツもお茶も、きちんと彼の分まで用意されているのが当たり前の光景となっていた。
「ほんと、前より随分と細くなったもんね〜」
「⋯⋯おい、言ったな。今に見てろ。鍛錬を増やして紫音をギャフンと言わせてやるからな」
「財務卿が軍務卿に張り合って何目指そうとしてんのよ⋯⋯」
八千代とのこの時間は、肩の力を抜いて互いに他愛もないことを話せる貴重な時間だ。
桃李が倫花にとって何でも相談できる兄のような存在であるなら、八千代は仲の良い兄弟といった感じだった。
(あー日常に戻ってきたって感じだわ)
「それで、儀式はどうだった?」
「やることがなさすぎて寝てたわ」
倫花の素っ気ない返事に、八千代は「さっすが」と手を叩いて笑った。
「馬鹿にしないで、ちゃんと祈りも捧げてたんだから」と言い訳をしてみるも、「どうせ三十分もやってないだろ」と鋭い指摘を貰ってしまい、倫花はぐぬぬと唇を噛みしめる。
「俺はさ」
すべての団子を食べ終え、茶を啜りながらどこを見るでもなく八千代が呟く。
「昨日、この時間が無くて寂しかった」
その声が、思いのほか切実で。
急に真面目なトーンで言ってくるものだから、倫花は一瞬返事を詰まらせてしまった。
「そ、そっか。で、戻ってきた感想は?」
「最高」
曇りのない笑顔を向けられ、いよいよどう返していいか分からなくなり、「ソレハ良カッター」と台詞を読むようにして返事をして、団子を頬張って急に早くなった鼓動と動揺を隠した。
(八千代はたまに変なこと言ってくるから困るわ。前はこんなに仲が良いわけではなかったのに――)
と、そこまで考えて引っ掛かりに気付く。
前?
「よし、それじゃごちそうさん。また明日な。休み明けだからってあんま遅くまで仕事すんなよ」
「あ、うん、ありがとう。また明日――」
八千代の背を見送ると、この後の仕事の段取りを頭の中で計算し始めた。
(はぁ、やりたくないけど。今日できることは今日のうちにやり終えておかないと)
そうして倫花はまた溜め息をつく。
先ほど覚えた引っ掛かりは、すでに倫花のどこにも残ってはいなかった。




