表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/16

12

 竜司のアパートを飛び出した寛治は、

昼下がりの強い日差しの下をしばらく全力で走った。

 アスファルトの照り返しが容赦なく体力を削り、呼吸が荒くなる。


 (流石に歩きじゃ無理だ……そうだ、この辺なら!)


 頭に地図が浮かぶ。

西区大通りを一本外れ、住宅街へ続く細い脇道を抜けた先――

そこに、昔からの自転車屋がある。


 寛治は脇道へ折れた。

 平日の昼の住宅街は、人影こそ少ないが、どこか生活の気配が漂っている。

 玄関先で植木に水をやるホースの音、

ベランダの風鈴のかすかな鳴り、遠くを走るトラックのエンジン音。


 静かだが、生きている街の音だ。


 やがて、陽光で色褪せた古い看板が見えてきた。


 〈山口サイクル〉


 年季の入った自転車屋だ。

 店先のシャッターは半分開けられ、店内の涼しい空気が外へ洩れている。

 青いペンキの剥がれた古い外観は、相変わらずだった。


 寛治は息を切らしながらガラス戸を開け放った。


 「勇ちゃん! 久しぶり!」


 油とゴムの匂いが混ざった、独特の作業場の空気が鼻をくすぐる。

 奥から姿を現したのは、細身でさっぱりとした男――


 黒のカッターシャツにジーンズ、上からエプロンをかけた 山口勇。

 高校時代からの友人だ。


 「えっ、寛ちゃん!? 本物? いつ帰ってきたんだよ!」


 驚きで目を丸くしつつ、工具を置いて近づいてきて。

 そして自然に高校時代の話題を始めようとするのを、

寛治は手を軽く押しとどめ、息を整えながら切り出した。


 「勇ちゃん、悪いんだけど……自転車、貸してもらってもいいかな?」


 突然の頼みに、勇はうっすら眉をひそめた。

 「いやいや、流石に“家”はレンタルはしてませんけど?」


 寛治は両手を合わせ、拝むように頭を下げる。

 「頼む、勇ちゃん……ほんと緊急事態なんだ」


仏顔の寛治がやると――

 「うおっ、寛ちゃんが拝むと後光差すからやめい!」

 勇は肩をすくめ、やれやれと息を吐く。

 「……はぁ。家のママチャリで良ければタダで貸すよ」


 作業台の横に身体を預けながら、勇は続けた。

 「で?どうしたん。

さっきからパトカーのサイレンもやたら多いし……なんか大事件?」


 寛治は視線を泳がせつつ、短く答える。

 「すまん、職業柄あんまり言えない。でも助かった。ありがとう勇ちゃん。

  今、実家にいるから……今度の休みにツーリング行こうな!」


 「はいはい。家の脇に置いてあるママチャリなら好きに使いな。

  それと――」


 勇が言いかけたときには、すでに寛治の姿は店の外だった。


 「……あ、もう行ったか」


 店の外から、ママチャリのスタンドを上げる音、

ペダルを踏み込む勢いのある音が響く。


 「おーい寛ちゃん!それまだうちの家族も使ってんだから――

ちゃんと返せよ!ツーリング忘れるなよ!」


 走り出した後ろ姿の寛治は、片手をひらひらと上げて応えるだけだった。

 風を切り裂きながら、

ママチャリは驚くほどの速度で住宅街を駆け抜けていった。


 普段ならのんびり走る道も、今は一刻を争う“現場”へのルートだ。


 南から吹き抜ける風で、街路樹の葉がざわりと揺れ、

 その間を縫うように寛治はハンドルを切る。


 坂を下りるたび、ブレーキを握る余裕すらない。

 ママチャリの前カゴがガタガタと音を立てながら跳ねる。


 大通りへ出ると、交通量が一気に増える。

 昼休み終わりの会社員、宅配トラック、タクシー。


 そのすべての隙間を縫い、信号が黄色に変わるのを見て、

寛治は加速する。


 チェーンが悲鳴を上げ、タイヤが路面を掴む。

 風が頬を叩き、額に汗が浮かぶ。


 中央区へ向かう裏通りへ入ると、雰囲気は一変する。

 ビルとビルの隙間をすり抜けるような細い道。

 昼終わりでも薄暗く、雑居ビルや古い居酒屋がひしめくエリアだ。


 寛治はペダルを踏みながら、呼吸を整える余裕もなく、

 ただひとつの場所――


 カラオケ K-LooP


 ――その名だけを頭に刻んで走り続ける。


 そしてついに、ひときわ古びた雑居ビルの前に飛び込む。

 入口横の看板には、色褪せたネオンサイン。


 〈K-LOOP カラオケ〉


 ペダルを踏む足を止め、寛治は息を切らしながら呟く。


 「……着いた。頼む、まだいるよな……!」


 ママチャリを投げ置くように壁際に止め、

 寛治は三階へと駆け上がっていった。


 午後二時。

 昼下がりだというのに、

カラオケ K-LOOP の店内は夜の名残を引きずったように薄暗かった。


 古いスピーカーからは十年前のヒット曲がくぐもって流れ、

 空気にはアルコールとタバコのヤニが混じりあった独特の臭いが満ちている。


 カウンターの奥では、髪を赤く染め、

耳という耳にピアスを散りばめた若い男――

 高橋が、イラついたようにくゆらせたタバコを指先で弾いていた。


 K-LOOPは、かつて“普通のカラオケ”だった。

 だが今は、売春婦と客引きたちの拠点と化しており、

 真っ当な客が入るほうが珍しい。


 高橋は、佐伯竜司のチームに属しており、

 店員というより“若葉たち”の送り迎えが主な仕事になっていた。


 スマホの画面を睨みつけながら、舌打ちをする。


 「……竜司さん、どうしちまったんだよ……

  藤井にも繋がんねぇし。こんなんじゃ商売になんねぇっての」


 そう考えかけたちょうどその時――


 乾いた電子音とともに、自動ドアが開いた。


 日の光を背に、スーツ姿の大柄な男が汗を拭いながら入ってくる。

 その顔に見覚えはない。だが妙に落ち着いている男だった。


寛治は店内を素早く見回す。

 学生時代に何度か来たことがある店――

しかし懐かしさより先に、荒れた空気の変化を察する。


 壁紙は剥がれ、カーペットは薄汚れ、

 かつての賑わいは失われ、全体が“古びたまま”に止まっていた。


 カウンターには、高橋が煙草を吸いながらスマホをだるそうに弄っている。


 (……この子? 成人か? いや、見た目の割に落ち着きがないな)


 そう考えながら寛治が近づくと、

 高橋がぎょっと目を見開き、慌ててタバコを灰皿に押しつぶした。


 「お、おい……! 今日は休みだって言ってんだろ。

  客は帰れよ」


 わざと凄むような声音だったが、

 寛治の体格を見た瞬間、喉がひゅっと鳴るほど怯えた。


 寛治は静かに、落ち着いた口調で警察手帳を掲げる。


 「生活安全課のふくろ寛治です。

  ここに――山本若葉さん、鍵沼カナさん、江口良子さん。

  彼女たちはいますか?」


 その瞬間。


 高橋の顔から血の気が一気に引いた。


 「……ッ、さ……サツ……!?

  お、おい!! サツだ!! サツが来たぞ!」


 叫び声は店内に木霊し、細い廊下にまで響き渡った。


 K-LOOPは四部屋だけの小さな店だ。

 高橋は慌ててその中で一番奥の“大部屋”へ走り寄り、

 まるで壁のように扉の前に立ちはだかった。


 「て、てめぇ……!

  これ以上近づいたら――容赦しねぇぞ……サツだろうが!」


 手は震え、声も裏返っている。


 寛治は無理に威圧せず、あくまで冷静な声で言う。


 「君、落ち着きなさい。

  私はここで暴れるつもりはない」


 「な、なめんなよ……ッ!」


 言い終わらぬうちに、高橋は自棄になったように寛治へ殴りかかった。


 振り下ろされた拳。

 だが――


 寛治はその拳を“寸前で”掴む。


 力ではなく、角度。

 高橋の体重が前へ乗った瞬間、寛治は手首を軽くひねり、

 足を払うように体を回転させた。


 「ぐっ……!?」


 高橋の身体は空中で一度ふわりと浮き、

 そのまま床に ドサッ と叩きつけられた。


 受け身も取れず、視界が飛んだのか目を白黒させる。


 「……やべ、君。大丈夫か?」


 寛治はしゃがみ込み、軽く肩を揺らす。

 高橋は目を回して、かすれた声で「ひ……」と漏らした。


 (まあ、死んでないな……)


 確認すると、寛治は立ち上がり、

 高橋が守っていた大部屋のドアノブへ手をかけた。



 ドアを開くと、薄い甘ったるい香水の匂いがふわりと漏れ出した。


 大きなテーブル、飲みかけのジュース、

 散らかったバッグ、そして――


 怯えた目でこちらを見る一人の少女。


寛治は警察手帳を見せ、もう一度丁寧に名乗った。


「生活安全課のふくろ寛治です。

 少し……話を聞かせてほしい。」


革張りのソファに二人の少女がいた。

一人は座ったまま寛治を見て固まっており、

もう一人は寝そべったまま目も合わせない。


固まっていた少女――山本若葉が勢いよく立ち上がり、

寛治の方へ視線を向けた。


その視線の先にあったのは、大柄で、どこか仏のような顔の男。

声は優しく、それでいて逆らえない重さを持っていた。


 山本若葉。

 身長は百五十五センチほど。髪は無造作に後ろでまとめ、ぱっと見は可愛らしい顔立ちをしている。

 だが、その表情はいま震えていた。


 「わ、私たち……な、何もしてませんよね、カナちゃん……」


 上ずった声。

 普段は《NOPUR HEAL》のリーダー面をしている彼女の気迫は、今は欠片もない。


 そんな若葉を見て、ソファに寝そべっていた少女が吹き出した。


 「ぎゃははっ、若葉、笑えるんだけどw」


 鍵沼カナ。

 緑色に染めた肩までの髪、耳という耳に開いた多数のピアス、

 首筋には大胆な刺青。

 病的なほど細い体つきで、だるそうに片腕を投げ出している。


 「なに? 売春してんのバレちゃった?w」


 「な、何言ってんのよバカ!」


 若葉が怒鳴り返すが、カナは楽しそうに転げている。


 寛治が両手を軽く上げ、宥めるように声をかけた。


 「お二人さん、落ち着いてください」


 その声音はいつも通りの落ち着きと柔らかさを帯びていた。


 「ところで……お二人だけですか? 他の女の子は?」


 カナが面倒そうに身体を起こし、寛治を見る。


 そして、ぱっと顔を明るくさせた。


 「うお、いい男じゃん。

  私、逞しい男だーいすき♡」


 身をくねらせながら腕に抱きつこうとしたその瞬間、

 寛治はすっと半歩横へずれ、かわす。


 「ええっと……山本若葉さんと、鍵沼カナさんで間違いないですね?」


 避けられたカナは、頬を膨らませて子供のように怒った。


 「……そ・う・で・す・ぅ〜〜」


 語尾が妙に伸び、情緒が不安定なのが見て分かる。


 寛治はもう一度、穏やかに尋ねた。


 「他の女性は……ここにはいないんですか?」


 カナは右手の人差し指を顎に当て、

 わざとらしく首を傾げてみせる。


 「どーしよっかなぁ〜?

  教えてほしい? ねぇ、知りたい?」


 わざと茶化すような声音。


 そのやり取りの横で――若葉は、もはや会話も聞いていなかった。


 爪を噛みながら、目はどこか焦点を失っている。


 (終わった……

  あんな女の口車に乗らなきゃよかった……

  ――水沼絵里……)


 若葉の喉が小さく鳴る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ