第五話
校長室を出た後、
澪音は教室には戻らずその足で保健室に向かった。
「失礼します」
「あれ、志水さん。どうしたの?」
軽くノックをしてから扉を開けると、養護教諭の朝比奈先生が笑顔で出迎えてくれた。
「すみませんちょっと具合が悪いので早退させてください」
澪音がそう言うと、朝比奈先生はすぐに未央のことに思い至ったのかその表情は澪音に対する心配の色があらわれた。
「そう...分かった。ちょっと座って待っててね」
そう言って朝比奈先生は受話器を取り電話をかけ始めた。
「あ、こちら保健室朝比奈です。1年A組の志水さんが体調が悪いそうなので、帰そうと思います。はい、連絡は私のほうでしますから。はい、失礼します」
受話器を置いた朝比奈先生は澪音の正面に腰かけた。
「荷物は自分で取りに行ける?」
そう問われた澪音は無言でうなずいた。
「じゃあこの時間が終わるまで少し先生とお話しようか」
そう言うと朝比奈先生は一度立ち上がり、机の引出しから四角い缶を取り出し、再び座った。
「これ、先生のおやつなんだけど。あっ、ほかの人には秘密だよ」
そう言って缶のふたを開けた。中には花の形をしていて、真ん中にジャムがのっているクッキーが入っていた。 澪音は一つを手に取り封を開けて口に入れた。柔らかなバターの香りとジャムの甘酸っぱさが先ほどから気を張っていた澪音の肩の力を抜かせた。
「昨日は寝れた?」
澪音は首を横に振った。
「そう、雨谷さんのことが心配なんだよね」
今度は首を縦に振った。
「これから言うことは教員として間違っているかもしれないけど、それでも言わせてもらうね」
そう言う朝比奈先生の目はとても真剣で、先ほどから少し人間不信になっていた澪音にはまぶしく見え、その目に引き込まれた。
「私は絶対に大丈夫なんて軽いことは言えない。それでも、どんな結果になろうとも責任は私たち大人が持つから、あなたはしっかりといつ雨谷さんと会っても大丈夫なように元気でいなきゃだめだよ」
それは許しの意味を持つ言葉だった。
まだ子供である澪音に責任を持つ必要はないという優しい言葉。
しかし澪音はその言葉を受け入れる気にはなれなかった。
なぜならそれはあきらめの意味でもあるのだから。
その時チャイムが鳴った。
立ち上がる澪音に朝比奈先生は最後にもういちど声をかけた。
「どんなことでも相談に乗るからまたここに来てね」
そんな朝比奈先生に澪音は頭を下げてから保健室を後にした。
熊野に合わないようによく見計らい、教室から自分の荷物を取りったあと、 澪音は帰路についたかのように思えた。
ただ、澪音の足は家ではなく、山道の少し回り道なルート。昨日祠があった場所につながる道へと向かった。
道は昨日の雨でぬかるんでいて、所々に大きな水たまりもあった。 ときおり木々の葉っぱから落ちてきた水滴が肌に触れ、その冷たさに澪音は煩わしさを感じたが、その足が止まることはなかった。
しかし、澪音は前に進むことばかりに気を取られていて気が付かなかった。
足音が自分一人のものだけではないことに
やがて吊り橋を超え、昨日と同じ川岸に降り立った。
自分の呼吸音しか聞こえないまるで時が止まったかのような静寂の中、澪音は祠の前に立った。
そして祠の周辺をよく調べようとすると側面に文字が書いてあることに気が付いた。
昔よりこのかたにはよく死体流れ着きき。かくて飢饉になるといまだいわけなきわらはも自らの親に流されくることも少なからざりき。村の者はそのこといたはしく思い祠作りとぶらひき。すとわらはどもの魂は青き水螢となりて村の者の願ひかなへ天へと昇りゆきき。
どういう意味ののか考えようとしたとき、背後から気配を感じた。
ゆっくりと後ろを振り返るとそこには着物を着た子供が立っていた。
今朝と同様な真っ暗な双眸と三日月のように開かれた口元、その存在感がまるで底なし沼のように澪音をつかんで離さない。
それでも、澪音は勇気を絞り出した。
『あなたなんでしょ。未央を返して』
しかしそれは声になることはなかった。
なんで、と疑問を口にしようとするよりも早くそれは名前を告げた。
「熊野大吉」
それは担任の熊野の本名だった。
そして澪音は、その名前が告げられた意味に少し遅れて気が付いた。
「熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉熊野大吉...」
笑い狂っているように同じ言葉を繰り返すそれに、澪音は気が遠くなっていった。
そして完全に意識が途切れそうになったころ、突如として上から手が降ってきて澪音の肩をつかんで引っ張り上げた。
必死に抵抗をしようとしたが体が思うように動かせなかった。
そしてももなく空につきそうなとき、それは澪音の耳元まで近づいてささやいた。
「次は誰?」
どこか親しみを感じるような無邪気な声を聞いたのを最後に澪音は空を突き破った。
空を突き破った澪音が感じたのは水を吐き出す感覚だった。
「よかった息はある。冴木さーん引っ張ってくださーい」
「よーし行くぞっ」
二人の男性の声が聞こえたと思ったら再び体が持ち上がった。
今度は斜面を引きずられながらずるずると上に登っていき、やがて平らな場所に寝かされた。
そのころになるとだんだんと意識が覚醒していき、視界が広がって行った。
広がった視界がとらえたのは見知らぬ男性が一人と、先ほど会ったばかりの冴木という名前の刑事だった。
澪音は川の方に頭を向けた。
だが先ほどまで穏やかだったはずの川は茶色い濁流にのまれていた。
そして自身の制服が体にぺったりつくほど濡れているのを感じて、ようやく気が付いた。
自分は先ほどまで水の中にいたのだと。
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