01:いきなりのピンチ
突然だが、私は今、大ピンチである。
「ガルルルル……」
目の前には私の十倍はあろうかという巨熊がいる。
それもただの熊ではない。背中の毛が真っ赤に染まった魔物の熊だ。
その熊がヨダレを垂らしながら、今にも襲ってこようとしている。
そもそも普通のツキノワグマであっても、十歳の子供に過ぎない私に勝ち目はなかった。
周囲を見渡しても深い森が広がるばかり。叫んだところで誰も助けてくれない。
どうしてこんなことになったのか。
頭の中に走馬灯が駆け巡る。
その中でも心に残っているのは、つい今朝のこと。
私が前世の記憶を思い出していなかった時、ただの貴族の子供だった頃の光景だった。
◇
今日は私の誕生日だった。
この国の貴族の子は、十歳の誕生日に魔力属性の鑑定をする習わしになっている。
魔力属性は火土水風の四大属性を筆頭に、いくつか細分化されたものも存在する。
そして魔力とは貴族特有の能力。
凡庸な民草にはない、特別な能力とされていた。
「プリムローズよ。我がアートライト伯爵家は、代々火の属性が宿る家系。お前も当然、気高い炎を使いこなせるようにならねばならない」
鑑定が行われる神殿への道すがら、馬車の中で父が言った。
教え諭すようでいて、ひどく冷たい口調だった。
時刻は朝。
季節は秋。
馬車の窓の向こうには、色づき始めた街路樹がちらちらと見える。
私は前世の記憶を思い出す前から、父のことが苦手だった。
今だったらはっきり言える。
モラハラ不倫クソカス野郎、と。
というのも、この父親は私の母が亡くなる前から浮気をして愛人との間に子供をこさえていたのだ。
病気だった母が亡くなると、父はいそいそと愛人とその子供を屋敷に招き入れた。
これがまあ、テンプレシンデレラみたいな継母と義妹だった。
意地悪は当たり前。
私のものを奪い取る。
食事を私だけ粗末なものにする。
何なら暴力もあった。
「お姉様は由緒正しい血筋ですもの。きっとすごい火の属性が出ますよね?」
馬車の向かい側に座っている義妹が、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。
この子はまだ九歳だというのに、ちっとも可愛げがない。
「そうそう。プリムローズのお母様は侯爵家のお嬢様ですもの。これで火の属性が出なかったら、いい恥さらしですわ」
義妹の隣の継母も、いかにも嫌味な口調で言った。
親子揃って座る向かい側、そっくりな茶色の髪が揺れていた。
継母は男爵家の出身である。貴族としては最底辺だ。
正妻で身分の高い私のお母様に嫉妬していて、亡くなった後もこうしてずっと嫌味を言い続けているのだ。
というか父が浮気に走ったのも、身分のせいであるらしい。
このアートライト家は伯爵家。
祖父母の代の取り決めで侯爵家からお母様を娶ったが、爵位が低い父はいつも肩身の狭い思いをしていたようだ。
それで癒しを求めて不倫して、真実の愛とやらを見つけたと。
生前のお母様は悲しそうにしていた。
歩み寄ろうとしても、旦那様が心を開いてくれない――と。
私の記憶の範囲では、お母様は身分をかさに着るような人ではなかった。
それにもっと小さかった頃の私にも、父は冷淡だった。当然だ。義妹は私の一歳年下。私が生まれる頃には、父は浮気していたわけで。
だからたとえ背景事情を汲み取っても、父の有責で決まりである。
今であれば言える。
『身分にコンプレックスがあるからと言って、十歳の子供(私)をいじめるな外道どもが』と。
しかしこの時の私は年相応の子供だったから、言い返せずに下を向いていた。
父は私を庇うでもなく、継母と義妹の愚行を放置した。というかむしろ加担した。
まあそんなわけでただの子供だった私は、父が苦手で嫌いだった。
父と継母、義妹は私を無視して、三人だけで楽しそうにお喋りをしている。いつものことだ。
「来年はこの子の属性鑑定ね。今から楽しみで」
「今日はその予習だと思いなさい。神殿の神官にしっかり挨拶するんだぞ」
「はーい、お父様、お母様!」
お父様、お母様と言いながら義妹は私をチラチラ見ている。
親に愛されている私が羨ましいでしょ? と心の声が聞こえてきそうだ。
正直に言えば、少しだけ羨ましかった。お母様が亡くなって以来、私に優しくしてくれる人はいなかったから。
父は外聞を取り繕うのだけは上手く、母方の祖父母に対しても良き父を演じている。だから誰も助けてくれなかった。
(予習……。一生に一度の鑑定の儀式も、妹の予習なんだ)
私は黙って拳を握りしめていた。
◇
馬車は石畳の街路をガタゴトと進んで、やがて目的地に着いた。
鑑定の儀式を行う神殿は、かまどの神であり世の真理を司るウェスタを祀っている。
ウェスタ神殿はかまどを模した円形の神殿だった。
私たちは馬車から降りて、円形神殿の入口まで歩いていく。
この国は多神教で、人々はその時の目的ごとに祈る神を変えるのだ。
旅をする時は、旅人を守護するメリクリウスに。
船を出す時は、海の神であるネプチューンに。
安産祈願は家庭の守り神であるユーノーに。
神様の名前は国によって多少変わるが、この地域一帯ではおおむね同じ神様を信仰していた。
ウェスタは女神だ。だから神官も全員が女性である。
私たちは出迎えてくれた神官の後について、鑑定を行う広間まで行った。
「ようこそ、アートライト伯爵。本日鑑定を受けるプリムローズ様は……あら、どちらかしら?」
広間で待っていた神官長は、私と義妹を見て首を傾げた。
義妹は一つ年下だが、甘やかされてお菓子をたくさん食べているので太り気味。
対して私は食事も冷遇されているため、痩せて小柄だった。
これではどちらが姉か分からないだろう。
「……私です」
小さい声で言うと、父の叱責が飛んできた。
「挨拶くらいできないのか。申し訳ない、神官長。この子はいつまで経っても至らないままで」
神官長は肩をすくめた。
「構いませんよ。ではプリムローズ様、こちらへ」
神官長のすぐ背後にある祭壇には、不思議なものが置かれていた。
直径二十センチほどはありそうな、大きな水晶玉だった。
水晶玉は鈍い光を放っている。
「この霊珠に手をかざしてごらんなさい」
「はい」
言われた通り歩み寄り、水晶玉に手をかざす。
この水晶玉は霊珠と呼ばれているようだ。
霊珠はぼんやりと濁った銀色をしている。
その表面に私の顔が映った。痩せて顔色の悪い、銀髪に紫の瞳をした少女の姿が。
「目を閉じて、集中して。ウェスタ女神と霊珠に語りかけるのです。そうすればおのずと答えが返ってくる」
私は目を閉じた。
語りかける……というのがよく分からなかったが、心の中で祈った。
(ウェスタ様、どうか炎の属性を私に与えてください。そうじゃないと、お父様に叱られてしまう。お義母様と妹にまたいじめられる……)
子供の私にとっては、切実な祈りだった。
と。
『魔力属性鑑定を実行します。個体名、プリムローズ・アートライト。年齢、十歳。性別、女性……』
奇妙な声が頭の中に響いた。
やけに抑揚のない、男性とも女性ともつかない声だった。
(今のがウェスタ女神の声!?)
私はたいそう驚いたが、騒ぐわけにもいかない。目を閉じたまま黙っていた。
『魔力属性……エラー。再実行します。エラー。……原因を検索。魂の質量が通常と異なると判定します』
(何のこと?)
『魂の内部に「彼方の土地」の要素を検出しました。条件クリア。原初の魔王の祝福を発動します』
新作始めました。
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