狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい④
読了目安→5~8分
今回ちょっと長めですが、後半、急展開なので多分たのしい。
「…………」
その瞬間、この森に帰ってくるまでにあった色々なことが一瞬でフィーの中を駆け巡っていった。
あの月と雪と、血の海のなかでのこと。
せめて苦しまないように一突きで葬りつづけた、手にのこる感触。耳にのこる断末魔。
そして大事な人のため口を閉ざし続けて、本当は消えてなくなりたいフィーを今もここに繋ぎ止めている『約束』。
それに、フィーだって分かっているはずだった。
この子供は、あの人たちではない。
だってあの雪山に住まうトルタンダの民は、みんなフィーの毛並みよりずっと濃い、炎のような赤毛と美しい金の瞳をしていた。
この子の髪は日に透けると茶色に見える程度の、色素の薄い肩までの黒髪だ。
……けれど、この子はまだ生きている。
(────この子は、『奴隷になってもまだ生きている』んだ……?)
本来ならきっと、二つは結び付きはしないだろう。ゆえにこれも常人の思考ではけっしてないのだろう。
けれど確かにいまこの瞬間、この小さな娘はフィーの中でとても大切にしたいもの、あるいは自分のために守りたくて仕方のないもの、になってしまった。
彼女は熱を帯びたような瞳で微笑んで、子供に向かって話しかけ始める。愛でも囁いているかのような、とても優しい声だった。
だってあの雪と月の夜からの狂おしい思いに胸を灼かれても、フィーはまだ、失ったものを埋め合わせるように心のどこかで救いと償いを欲している。……例えいくら願うても、その器にほしいものが満たされることはないのだと、知ってしまっていれば尚のこと。
「ねえ、大丈夫? きみ? 行くとこないならうちのこになろうよぅ?」
なのに、声をかけたのに、返事はない。
目も開かなかった。意識を失っているかのように湿った落ち葉の上に丸くなって、動かない。
「ねぇ、どうしたの? 怖くないよ?」
それでも身をかがめ、そっと話しかけ続ける。
フィーは、『相棒』にずっと心配をかけている。知っている。
でも、そうだとしても、傭兵として戦士として、獣人種・亜人種問わず人間を相手にし続けてきたフィーには、わかるのだ。
眠っているはずの子供の身体は、わずかに力が入って強ばっていた。何に緊張しているのか、息も少し荒い。
(やっぱり起きてるよね、これ……)
「どしたの? 寝たふりしなくてもいいよ?」
スッと伸びた彼女の手は、形だけなら人族とまったく同じ。薄く細やかな毛皮に覆われて、握ると物が触れる場所にだけピンク色の肉球がついている。
その、温かくて少し湿った柔らかさが、ぴとりとその子供の二の腕に触れた瞬間だった。
「ッッ!!」
刹那、声にならない声と共に開いた瞳は榛色だった。ビクリと震えた小さな身体。
「わっ?!」
フィーは驚く。『バチン!』と、一瞬にしてその手のひらを振り払われたからだ。
子供は脱兎のごとく茂みから抜け出していた。
身体のあちこちに落ち葉とクモの巣を貼りつけたまま、森の奥へ向かって駆け出して行く。人族の子にしては素早い。
「ん、えええ……??」
一瞬、ポカンと見送るフィー。
踏みしだかれて鳴る落ち葉の掠れて軽やかな音に、足枷が引きずる千切れた鎖の音がじゃらじゃらと混ざる。
どんどん遠ざかっていく。
どこから来たのかわからないが、だから逃げて来られたのかもしれない。
けれどフィーとて逃がす気はなかった。こうやって後ろから見ていても、彼女の走り方はどこか変である。脚を傷めているのかもしれない。
それに一枚しか着ないブカブカな服のしっぽ穴からチラチラと覗く太ももや膝裏にも、一歩踏み出すごとに鞭のあとや赤黒い痣のようなものが見えた。
フィーは円い両目を、これ以上ないほど嫌悪感に歪める。
「んん、良くない商人に、いじめられたのかな……?」
奴隷商人なんて元からロクなものではないが、きっと他にも怪我をさせられているはずだ。幼気な子供へ、服で隠れる部分にだけ暴力を振るうなんて、かなり陰湿である。
フィーは嫌な気分になった。
まともな思考の人間ならば、この子を捕まえて傷の具合くらいは見てやりたいと考えるかもしれない。一方、絶対にまともでないフィーもまた、そこでゆらりと立ち上がるのだ。
「んへへ、人族の子が、駆けっこでボクに勝てるわけないじゃないのよう。イチヘイみたいな〈祝福持ち〉じゃないのにねえ……」
フィーは大好きな『相棒』のことを想いだして、にへら、と楽しそうに笑う。それから心のどこかで、
(………大事にして、あげたら、……何か変えられるかな……)
そんなことも思っている。
次の刹那、毛皮に覆われるしなやかな脚で、彼女は『たん!』と一歩蹴り出していた。
その軽い一歩だけで、耳長族のフィーは優に二メートル近くは跳ぶ。まるで矢のようだった。
そのままの勢いで湿った落ち葉をけちらしながら、たん、たん、とリズムよく加速していく。この世界には色んな種族が住むが、平均的な種族値で言うならば、耳長族の足の速さはその中でもトップレベルだった。
ゆえに朝の森の涼やかな風を切り、三十歩も走ればもう、
「はい! おーいつーいたぁー!!」
全力で駆ける子供の傍らを、笑顔で並走している。
控えめに垂れる子供の大きな瞳が、ギョッとした面持でフィーのその顔をみあげた。少し絶望を含んだような表情だった。
「えへへ、ねえねえ、きみ、うちの子になろうよう!? うちにきて手当てしよ?! ねーー??」
そのまま腕を伸ばしガバッと抱きつくフィー。
殺せない勢いのまま、二人まとめて倒れ込んだ。花畑の中だった。
――ちぎれる黄色い花びら。
――フィーの手を離れる赤い花束。
そんなものを舞い散らしてゴロゴロと転がる。
同時に森の中には、「いやぁぁぁ!!」と変に掠れた幼い少女の悲鳴が響いた。
「……えへへぇ、つかまえたぁー!」
そうしてフィーは満面の笑みを浮かべて、羽交い締めにした子供の横顔を覗き込む。
やがてじたばたと暴れまわる子供が、苦しそうな息で口を開いた。
《はなし、てっ!》
「んえぇ……?」
不意を突かれてフィーは驚く。聞こえてきた言葉が、異国の言語だったからだ。
(聞いたこと、ある気もするんだけどどこの言葉だったっけー……?)
けれど深く考えることはできない。その次の瞬間に、突如として花畑の脇の大きめの茂みががさりと揺れ動いたのである。
「ん?!」
《うぅうーー!!》
フィーは今度こそビクリと動きを止め、暴れてうめく子を抱えながらも器用に立ち上がった。一方子供は彼女の行動に怯えた様子でいまだに踠いていたが、そこへ突如として響き渡る、
『ピエッピエッ! ギャーギャー!』
『ピエッピエッ! ギャーギャー!』
という異様な鳴き声には驚いて動きをを止める。
「うえええ、この声って〈虚棲ミ〉の『呼び声』だあー……?」
甲高さと不愉快さを併せ持つ鳥のようなその鳴き声。
これは『危ない妖獣は出ない』と言われる森の端に、唯一よく出るあの〈虚棲ミ〉のものだが、しかしフィーはその声の違和感に、警戒しながらもぴょこりと首と耳を傾ける。
「……んえ? なんか、声へん……?」
だってこの妖獣は、猫くらいの大きさだったはず。のわりにその鳴き声は彼女が覚えているそれよりなんだか野太く、声も大きい。
それに狩りは位置を悟られると不利だから、弱い彼らはよほど弱った生き物か屍肉の前でなければ仲間を呼ぶ声は出さないはずだった。
……確かに今のフィーは丸腰ではあるけれど、イキのいい獲物相手にちょっと強気すぎではないか。
けれどその理由は次の瞬間、フィーが注視していた低木の陰から、ぬっと現れた〈虚棲ミ〉を見てぜんぶ合点がいってしまう。
『ギャー! ギャー!?』
たしかにそれは、彼女がこの森で見てきた〈虚棲ミ〉と同じではあった。赤錆色と焦げ茶色のまだら模様に、イタチのように細長くしなる身体と、二つの赤い目はそのまま。
……それでも一瞬、フィーはいつものように「んええ……」と声をあげるのも忘忘れる。
……大き、かったのだ。
どういうことだろう、普通に山狼くらいの大きさはある。つまりフィーのおへそと同じくらいの体高だ。
エナタルの山腹まで行けば、ここよりもっとたくさん〈虚棲ミ〉とも出遭うけれど、小さい頃からこの妖獣を倒し慣れてきたフィーですら、さすがにこんな巨躯の〈虚棲ミ〉は見たことがなかった。いてもせいぜい、猫より一回り大きいくらいが関の山である。
《――ピエッピエッ!》
そうして、獣にとって身体の大きさはそのまま強さでもある。向こうも自分の強さを理解していて、ゆえに強気なのかもしれない。
『ピエッピエッ! ギャーギャー!』
その上での、この鳴き声だった。仲間を呼んでいる。もしこの声に呼び出されるのが大きくても小さくても、これより増えるのはやめてほしい。
彼女に備わる本能も、丸腰では戦えないとフィーに伝えてくる。
それでもフィーは幼少期に教え込まれた動きで、血よりも赤く鮮やかな目を見ながらゆっくり後退りを始めた。背筋と後頭部の毛並みがざわざわするが、ここで怖がって慌てたらダメだ。
――十分な距離を取ったらすぐ逃げる、十分な距離を取ったらすぐ逃げる……。
そんなことを念じ、走り出したら少しでも動き易いよう、子供をしっかりと前抱きに抱え直した。事態を飲み込んだらしい子供も流石に大人しくなり、されるがままにフィーの首にしっかり腕を回してくる。
……しかしその瞬間だった。
フィーの脚はガクンとよろける。
花畑のなかに埋もれていた倒木の枝に、踵を引っかけてしまったのだ。
あっ、と尻餅をついた瞬間にはもう遅い。
瞬間、十メートルほど開いていた距離を、規格外のデカさを誇る〈虚棲ミ〉が詰めにかかってくる。
『ギャッ! ギャー!』と響きだしたその声は、まるで嗤っているようだった。
ガバリと開くその口には、獲物の肉を半球形に抉る、カミソリのような幅広の門歯(※前歯のこと)が見える。
――普通の大きさなら、一度噛まれるくらいならまだ対処のしようはある。……でも、あれに噛まれたら??
フィーの脳内には、昨日食べた焼き菓子の形が浮かんだ。自分が齧って、三日月型にして並べていたらイチヘイに怒られた。そうしてそれが、あと数秒後の自分のような気がしてならなかった。
事態のヤバさに気づいたらしい子供も、その〈虚棲ミ〉に向かって怯えた様子を見せはじめた。
「……わーどうしよう、イチ――!」
呟きと共に一瞬浮かぶ、たった一人の『相棒』の面影。
でも彼はここにはいないのだ。気狂いのフィーは残ったまともな思考の中で、次に自分が取るべき選択を迫られた――……。