105.遠い日⑫ -終わりの始まりの日、魔女はこの子を『愛してはならない』と言った-
読了目安 5~8分
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あまり使わない魔法には短縮の方法がなく、時間がかかるらしい。
そんなことをフィーに説明してから、モニススが始めたその詠唱は全部終わるまでに実に四半時を有した。
光の帯。青と緑。フィーにはぜんぜん読めない、古い時代の文字列。きっと相当難しいことをしているに違いなく、さすがのモニススにも、後半からはわずかに疲れの色が見え始める。
やがてそれが全部終わると、途中、苦しそうに呻いたり叫んだりしていた少年はコトリと気を失っていた。ずっと気が気ではなかったフィーが駆け寄ると、モニススはそんな彼女を見下ろし、複雑な表情で目を細める。
「――幸か不幸か、ソレはまだ深度としてはギリギリ、円環の河に繋がれる程度の〈生成リ〉だったよ。封じ加減が難しくて大変だった。
けれどもこれならば、胞果熱にかかった後には角も引っ込むだろうさ。見目に関しては、まだ少し人に混ざって生きられる望みはあるねえ」
その言葉に、フィーは希望を抱いた。妖魔は、河とは繋がれないと、お師匠さまは言っていた。なら、
「……胞果熱、にかかれるの? ならそしたらこの子は、またちゃんと人間に戻れる? お師匠さま」
「いいや、生成リだよ?」
しかし、魔女の言葉は穏やかながらに辛辣だった。
「この魔法も、例えるならば一度坂を転がり出した珠の前に吾が板を差し込んで、それ以上落ちぬよう塞き止めただけ……そんな様なものだよ。だからこれは、今もこの先も永遠に〈生成り〉さ」
「そう、なの……」
柔らかい絶望に、しゅんと耳を下げるフィー。その間にモニススは『ふう』とあまり似合わぬため息をついて、彼を横たえていた腰のたかさ程の岩端に寄りかかった。
「嗚呼、さすがに気を張った……。ほとんど魔力も使いきってしまったね。……まあ、残りの処置はまた家に連れ帰ってからするとして……。さて、最後の仕事をしようか……」
そうしてモニススは、フィーを呼んだ。
「では、フィーゼィリタス――。吾の愛しき満月よ……」
急に仰々しく呼ばれた、その響き。
フィーは横に立つ彼女に向かい、警戒しながらもビクリと顔を上げる。
見ればモニススは、かなり真剣な表情をして彼女を見下ろしていた。
上りきった朝日が、彼女の灰の髪と整った顔立ちに光と影を落としている。落ちる二人の影の中で、気を失ってしまった少年が静かな呼吸を続けている。
「ぬしにはコレの現状を正しく理解して、その上で守って欲しい約束が二つある。
――どちらも大事な約束だよ。きいてくれるね」
側の坂をざわりと、風が抜けた。
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モニススはまず、一つ目の約束として
『彼が〈生成リ〉であることを、本人を含め誰にもに伝えてはならない』
と言った。
彼が何者であるかを知れば、本人も周囲もそれ以上を探りたくなる。或いは迫害のきっかけになる。
それは魂の奥に押し込めた〈縫い目〉をほつれされるきっかけになる、危険な行いだからだ。
次にモニススは少し話を飛ばし、少年にかけた二種類の魔法の話をし始めた。
内、一つはさっき話した彼の『魂を封じる魔法』のこと。そしてもう一つは、彼の『心を封じる魔法』のことだった。
「妖魔化をこれ以上進めないために必要なのは、転がり落ちる行き先を塞ぐだけでは足りない。これ以上は落ちぬようにその勢いを消して、その場に縛り付けなくてはいけなくてね……」
モニススは語る。
「そのためには、妖魔に堕ちていくきっかけに成りうる『こころ』の動きは全て削ぎ落として、歪み始めた魂と共に封じ込めておかなければならないのだ」
切れ長の瞳が傍らの少年へと伏せられる。
「つまり、憎しみも、妬みも、嫌悪も、軽蔑も、殺意も、執着も、悲しみも、他者への怒りも……それから愛もだよ」
「……愛も? どうして? ……なんで、誰かを大事におもう心がダメなの、お師匠さま……」
思わず聞き返してしまう。
するとモニススは、『少し難しい話になるよ』と言いながらフィーの内側を確認するかのような面差しで、真剣に彼女と目を合わせる。
「……まずね、いくら封印で心を欠け落ちさせても、吾らに懐いてもらわねば、「心を封じる魔法」をこれの内側に馴染ませる『矯正』も始められない。
ゆえに愛というくくりの中でも、『親情』だけは感じるように、欠片をのこした。これが一番難しかったねえ……」
どういうことだろう、とわからないでいると、
「まあ、いまはこれとは『家族や友人にはなれる』ということだけは覚えていればいいよ。
……とにかく、吾たち以外には被害が及ばぬよう、いまこの場に居合わせた吾とフィーゼィ以外に向く「情」は、削いだからね」
「え……?」
モニススは自嘲するように笑って、一瞬フィーから目をそらした。
「お師匠さま、それって……この子は私とお師匠さま以外はだれも好きになれないってこと……?」
「……可哀想だと、思っているのかい??」
かわいそう?
鋭角さのある問い返しに、耳を倒す。フィーにはわからなかった。今はそこまでは、心がうまく働かない。
しかしそれは、モニススの目にはどう映ったのだろう。
途端、朝の日差しの中なのに、美しい顔に立つ陰影が妙な冷たさを帯びて彼女に向く。
「……ならフィーゼィ、まずひとつ確認するよ。……以前ぬしは、吾に好きな人がいると話してくれたね」
唐突な質問に、フィーの心はざわりと揺らいだ。
すきな人。いた。でもこの場でそんな話題を出されるのは、逝ってしまった人たちを侮辱されるより、よほど心を抉られる気がした。
成就するとも思っていなかった恋だ。けれど、物陰からメーナィと共に彼を見てはしゃいだり、弟妹たちも混ざって彼と一緒に遊んでもらったりしたのだ。それは彼ひとりを悼むというよりも、そういう、過ぎてしまった幸せの塊そのものに押し潰されそうになる。
もうみんな、かえってこない。
それでも訊かれているのだからと、フィーはまた沈鬱な表情で頷く。気付いたら、フィーはすがるように傍らの子の手を握っていた。その温かさに、ここに有るかたちに、救われている。
「辛いことを訊いてすまないね」
その姿を見留めたモニススからも、そっと肩に手を添えられる。しかしそれ以上重ねられる言葉は、哀れみでも寄り添いでもなく、ただ重たい緊迫を孕む質問と、警告なのだった。
「……けれど、なら色恋ももうわかる年頃だろう?
なればこそ言うけれどね、フィーゼィ、絶対に、ぬしはこの子を愛してはならないよ。ましてやその想いをこれに伝えるなど、何があろうとももってのほかだ」
「……どう、して……?」
どうしてそんなことを、言うのだろうか。
「私……好きじゃないよ? この子のこと」
暖かい手をしたこの子には生きていて欲しいけれど、確かに大事だけど、良くわからない。
それに種族の違う相手との結婚も、珍しいがダメと言うわけではない。フィーも大きい町に連れて行かれた時、見たことはあった。
なのにそこまでして『色恋』を禁じる理由が、フィーには理解出来ない。
すると訝しそうに茶色の尾を揺らし始めたフィーを見咎めるように、モニススは語り出した。
「……いいかい、フィーゼィ。
これが二つ目の約束に繋がる。
これを大事に思うのは止めないが、この先も、ゆめゆめ間違うことがあってはいけないよ。絶対に、異性としては駄目だ」
フィーはますます首をかしげる。
「確かにね、愛とは良いものだよ。ぬしや吾――曲がりなりにも『人』として在ろうとするものは、愛するものを慈しみ、守ろうとする。
けれどもね、妖魔は違う。人と妖魔では、そもそも『愛』の形が決定的に違うのだ……」
「あいの、かたち?」
聞き返すと、モニススはひととき、指の甲を唇に押し当てて、言い渋るようにぐっと顔をしかめた。
「お師匠さま?」
「……すまない。こんなこと、ぬしのような童に語るべきか正直、吾も迷う。
……ただね、やはり教えておくよ。
まず、彼らにとって愛とは……――、特に弱者に向ける愛とは、『支配』であり、ときに『食欲』だ」
(支配。食べる。……好きな人を?)
フィーには具体的には理解できなかった。するとモニススはわざわざそれを噛み砕き、首を傾げだすフィーにそっと与え直す。
魔女が静かに指を振ると、フィーと彼女との間には、何かに襲い掛かられてぼろぼろになっていく、小さなフィーの幻影が現れ出した。その幻ごしに、浅い夜色の瞳はそれより深い闇を帯びて、じっとフィーを覗き込む。
「つまりね、愛しいからこそ、その手足を手折って自分のものにしたい。可愛いからこそ、泣き叫ぶ声を聞いて悦びたい。そして最後には、その魂を啜って一つになりたいと願う……それが彼らの『愛』なのだ。
……頼むから、正しく理解しておくれ」
「……」
さすがに絶句した。微かに震える耳を後ろに倒しながら、……フィーはそれでも、傍らの少年の熱を手放せなかった。
その様子にまたチラと目配せをして、モニススは続ける。
「……だから、これを女として愛してはいけない。もしそんなことをすれば、はじめは良くわからなくても吾が残した「情」で愛を返してくるだろう。なにせまだ半分は人間だからね。
……けれど、結局は『親情』も、引きずり出せば『恋慕』や『愛欲』と繋がっている。
刺激しすぎればそれを呼び水に、コレは他者への深い愛を甦らせる。嫉妬や軽蔑や執着も紐付くかもしれない。それはこれの封印を解き、妖魔の愛を呼び覚ます。
――そうなれば、破滅だよ?」
モニススの手の動きに合わせ、ちょん、と小さいフィーの首が落ちて、ヘドロのように溶け崩れながら幻は潰えた。
「……だからだめだよ。
これが情を向けられるのは今は吾とフィーゼィだけだが、友人・家族以上の関係は絶対に駄目だ。
これが『愛』を知ったその時、コレはおそらく愛を与えたぬしを最も無残に食い殺す怪物に成り果てるのだからね……」
愛してはいけない。
愛させてもならない。
消えた幻の向こうで、エナタルの魔女がじっと翡翠の瞳に指を突き付け、かたく戒めを授ける。
小さなフィーは今見せられ、消え、それでも瞼の裏に焼き付いた光景に、静かに胸の内を震わせていた。




