2. 私を守ってくれる場所
朝露に濡れた石畳を踏みしめ、エレノーラ・カーヴェルは荘厳な神殿の門前に立っていた。
傍らには、長い道のりを共に歩んできた庭師の孫・リュカが無言で寄り添っている。
「ごき……ごきげんよう」
神殿の扉を開けた女性――清楚な修道服を纏ったシスターが出迎えたその瞬間、エレノーラはぎこちないながらも貴族式の挨拶をした。
脚の動きも、手の角度も、どれも教本通りとはいかない。
それでも、彼女の中の“令嬢”としての誇りがそれを支えていた。
「わたくしは……カーヴェル伯爵家の長女、エレノーラと申します。お願いです、どうか……わたくしを、保護していただけませんか?」
その言葉に、シスターの顔に驚愕の色が浮かんだ。
リュカも思わずエレノーラを見たが、彼女は背筋を伸ばし、シスターから瞳を逸らさなかった。
シスター――名をアリアナは、エレノーラの薄汚れた身なりとやせ細った体つきに目を留め、やがて頷いて言った。
「……わかりました。こちらへどうぞ。神父様にお繋ぎします」
アリアナに導かれ、神殿の奥、静かな応接室へと足を踏み入れる。そこには白髪混じりの老神父が、椅子に腰掛けて待っていた。
「どうぞ、おかけなさい。話を、聞かせてくれますか?」
*
――始まりは、わたくしが十歳のときでした。
エレノーラは、静かに口を開いた。
カーヴェル家に従姉妹がやって来た日を、彼女は鮮明に覚えている。
名はマグリット。事故で両親を亡くし、行き場のなくなった彼女を、父が哀れみ引き取ったのだ。
「可哀想な子なのよ、エレノーラ。優しくしてあげてね」
母のその言葉に、エレノーラは頷いた。
家族を失う悲しみは、想像もできないほど重いはずだ。
自分にできる限り、寄り添ってあげようと誓った。
けれど、彼女の善意は裏切られた。
「エレノーラお姉様に叩かれました」
「わたくしのリボンを盗られました」
「……エレノーラお姉様が、いじめるの」
無垢を装った言葉が、次第に家中の信頼を蝕んでいく。
最初は母が疑い、次に使用人が、そして父がエレノーラを遠ざけた。
嘘だと訴えても、誰も耳を貸してくれなかった。
使用人の一人がエレノーラの物を盗んだ。
証拠を持って父に訴えると、その日から彼女の周囲には誰一人近づかなくなった。
部屋は掃除されず、洗濯も放置された。
母に助けを求めると、納屋に追いやられた。
食事に虫や異物が混入していたこともあった。
兄に助けを求めれば、「庭の草でも食ってろ」と土を投げられた。
「それでも……生きてこられたのは、リュカと、その祖父のおかげです。薪の焚き方も、水の運び方も、野菜の見分け方も。全部……教えてくれました」
*
エレノーラの話が終わり、応接室には沈黙が落ちていた。
「これは……明らかな虐待ですね。放っておくことはできません」
神父――ゴードンは低くため息を漏らした。
「このままあの家にいれば、次に訪れるのは命の終わりでしょう。……あなたを、神殿が保護いたします。すぐに騎士団に連絡を取りましょう」
ゴードンは聖具台の上にあった魔法石を手に取った。
真偽を判別する魔法石は、エレノーラの言葉の真か偽りかを測り続け、石は淡く静かに光ったまま。
エレノーラの言葉に嘘は一つもなかった、それを証明していた。
「ありがとうございます……」
静かに頭を下げるエレノーラの声は、震えてはいなかった。
――ようやく、ほんとうの意味で、自分を守る場所にたどり着けた気がしたのだった。