第一章 天才児と問題児と奮闘記(後編) その4
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拝啓、天国のじいちゃんへ。
じいちゃん、天国はいいとこ? やっぱり現世は住みにくいよ。夏目漱石の言うとおりだよ。天国に彼もいるだろうから、そう伝えといて。
さっきも言ったけど、現世は住みにくいよ。親には捨てられるわ、ヤクザは怖いわ、美少女からぼったくりパフェ奢らされるわ、真夏の教室に暖房は入ってるわ、もう諸葛孔明も未来を読めない時代だよ。天国に彼もいるだろうから、伝えといて。お前は既に死んでいる、ってね。失礼だね。
ところで、未来を読めないって言えば、今日すごいことになったんだよ。なんと、前述の美少女からの恩返しが、とにかくすげえんだ。彼女、お金持ちの家の娘でさ、そこに招待されちゃったんだよ。まぢで。人生って何が起こるかわからんね。
「……ていう手紙、書こうかな」
「かみや? そういうのを、えっと……現実逃避って言うんだよ」
「ぐさっ! ゆんにしては適材適所をついてきやがった!」
「ええ!? ひどい!」
守哉とゆんは今、巨大な豪邸の扉の前にいる。ついさっき初めてゆんの苗字を知ったのだが、なるほど。これがかの大手電器メーカー「ノイズ」の神掛社長の邸宅か。彼がラジオで言っていた一人娘、それが彼女、「神掛ゆん」だったのだ。
ギイイ、と威厳のある音を立てて扉が開く。その景色に少々目が虚ろになりながらも、ああ、この後左右に大勢の使用人が「おかえりなさいませ」とか言ってお出迎えするんだろうな、と予想する守哉。頭脳だけはゴージャスなので、彼は頭の中のみこの展開についていけている。心身は一周ぐらい遅れている。
『おかえりなさいませ。お嬢様』
「……あれ」
守哉の予想に反して、ゆんを迎えた使用人はたった三人だった。アイアムジェントルメン! という雰囲気の紳士服を身に纏ったおじいさんと、エプロンに三角巾と主婦みたいな格好をした十代後半ぐらいの女性、そして西洋の頑固おやじっぽい風貌のコック、それだけだった。いや、守哉には一人として彼の帰りを迎える人間はいないのだから、彼から言わせれば十分すごいのだが。
「ん? どうしたのかみや。期待はずれだ~! みたいな顔しちゃって」
「ええ!? なんかさっきからお前キレよくね!?」
守哉がびっくりしていると、一番近い場所にいたおじいさんが前に出てきた。この人がきっとゆんが言っていた「じいやん」だろう。
「じいやん、ただいま」
「お帰りなさいませ。お嬢様。クイズ大会はいかがでしたでしょうか」
「うん、楽勝だったよ。ゆんの頭脳があれば百発百中だね」
「最後の問題にすら頭脳使ったかは定かじゃねーけどな」
守哉が彼らに聞こえるように呟くと、じいやんさんは彼のほうを見た。
「おや、このお方は?」
「かみやだよ。クイズ大会でゆんと死闘を繰り広げたんだよ」
「ほっほっほ。それはそれは、なかなかの猛者でございますね」
「うん。もさもさだよ。じいやん、かみやをもてなして」
「わかりました。直ちに」
「いやいや、もてなすってそんな……げへへへ……」
じいやんさんはコックを連れて奥にさささ、と行ってしまった。
「ゆんちゃん、おかえり」
主婦っぽい女性は、母親のような口調でゆんを迎えた。すごく優しそうな人である。
「うん、ただいまあ! ヤギちゃん!」
ゆんは彼女の豊満な胸に飛び込んでいく。ばふう、という効果音が本当に聞こえてきそうだ。なるほど、この人がゆんの電波単語一号「ヤギちゃん」か。
「クイズ大会、ちゃんとテレビで見てたわよ」
「ほんとっ? ゆんが優勝したんだよっ!」
「うんうん。ゆんちゃんすごかったもんね。……いろんな意味で」
あ、最後トゲがあった。この人はまともそう。
「うんっ! ありがとっ!」
「ふふっ。……で、この方が昨日話していた真堂守哉さん?」
「うん! 今日ね、ゆんがバッグを盗まれた時、かみやが取り返してくれたんだよ!」
「ほんと!? ちゃんとお礼言えた?」
「う~ん……。いえ、た……よ」
「……。……そう」
ヤギちゃんさんは白い目でゆんを見た後、守哉のほうに向き直った。
真正面から見ると、とても綺麗な女性だった。特に惹かれる白い肌は、本当にニックネームのヤギの印象がある。
ヤギちゃんさんは頭の三角巾を外し、銀のポニーテールを露にすると、深く息を吸う。
「いろいろとお嬢様がお世話になりました。心から、お礼申し上げます」
「……、あー……っと」
すっごい棒読みだった。マニュアル通りだった。守哉だけでなくゆんまでも、頬に冷や汗が伝っている。
その視線に気づいたようで、ヤギちゃんさんは顔を赤くしてあわあわと手を振った。
「す、すいませんっ。爺やに叩き込まれた営業トークが、つい……」
いや、にしてももうちょい感情の篭ったトークをしようよ、と心の中で突っ込む守哉。それぐらいに感情のない口調だった。
「あの、俺、別にそんな偉い人じゃないですから、普通にタメ口でいいっすよ。年下だし」
守哉がそう言うと、ヤギちゃんさんは顔をぼっ、と赤らめた。意外と男性との会話は慣れていないようだ。
「そ、そうですか……っ。で、では……か、守哉君と……。わ、私の名前は八木原明歌です。き、気軽にヤギちゃ……明歌とお呼びください……」
「あっ、はい……。じゃ、じゃあ、明歌さんって呼んでいいで、しょうか?」
「こ、光栄です……、守哉君……っ」
もじもじと話すしぐさを見ていると、なんだか守哉まで気恥ずかしくなってくる。
「……で、あ、あの。ゆんちゃんを二度も助けていただいて、本当に、ありがとうございまし、た……」
「ああ、えっ、ええはい。こちらこそ、こんなすごいお屋敷に、招いていただいて……」
「いえいえ……」
「いや、こちらこそ……」
お見合いでもしているかのように、なかなかじれったい会話を繰り返す二人。そしてそれを何でかすごいオーラを放ちながら眺めるお子様一人。
「ああはいはーい! もう終わりだよ終わりだよ!」
守哉と明歌の間にずいっ、と入り込んだゆんは守哉の手を引いて歩き出した。
「ゆ、ゆん……?」
「あっ、守哉君……」
「ふんだっ。かみや、こっちが厨房だよ」
なぜかむっすー、と頬を膨らませたゆんは、守哉の手を引いて、爺やとコックが向かっていた場所へ彼を連れて行く。
「おおお! すげえなここ!」
「でしょでしょ!? ここの穴からぷしゅーって煙が出てくるのとかすごいよね!」
守哉が顔を出した厨房は、驚くほど広く、また驚くほど設備が整っていた。
レストランなどにある基本的なキッチンに、ピザ用のオーブン、巨大な肉や魚をまるごと保存する冷蔵庫、さらには日本国伝統かまどもある。とにかく、ここにいれば、どんな種類の料理でも作れそうだ。携帯用ガスコンロと小さな冷蔵庫しかなかった守哉の部屋(もはや台所でもない)とはまさに雲泥の差である。
そこで料理を作っているのはたった一人、さっきのコックだけなのだが、彼の働きぶりはすごかった。和、洋、中華を始め、様々な料理を、それこそこの厨房の機能をフル活用して、一度に十品以上作っている。しかもその一品一品が、見るだけで口内を唾液でいっぱいにさせるほどの完成度だ。
守哉は純粋にすごいとしか思えなかった。知能指数が人間の域を超えている彼でも、これはさすがにできない。頭ではできても、体でそれを再現できないからだ。それに、この広い厨房を、一人だけで余すことなく支配している。彼のような存在が、真の料理長と呼べるのではないか、と守哉は熱く思っていた。
コックもとい料理長は巨大なまな板に数十種類の野菜を置いた。そして彼は目を閉じると、しばらくしてカッと見開いた。それからは一瞬である。彼はまな板に乗った野菜達を手で叩くだけで宙に浮かせ、もう片方の手で握った大きな包丁で目にも留まらぬ速さで切り刻んだのだ。そしてそれらが宙を舞っている間に、下に皿を用意し、あとは野菜がその上に落ちてくるだけ。全て落ちれば、肉食獣でも噛り付く一流サラダの完成である。
これが、守哉の一番驚いたことだ。
「え、ナニ? コレ空中で切れたよね? 空中で輪切りされたよね? この空間、物理法則捻じ曲がってるよねえ!?」
「理屈なんてのは、気合でどうにもできるもんだ」
中華鍋に業火を纏わせて、額の汗を拭いながら料理長は答えた。
こうして、守哉の脳内での物理法則が大きく捻じ曲げられることになる。脳木などが知ったら卒倒ものである。
料理長がズババと作り上げていく料理は、爺やに別の場所へ運ばれていく。彼についていくように、ゆんも守哉の手を引っ張った。
辿り着いたのは広い部屋だった。よく王様とか食事してそうなすごく長いテーブルが真ん中に置いてある。どうやらここがダイニングらしい。
テーブルの上には先ほど爺やが運んでいった料理の数々が置かれていて、その配置具合がまた絶妙に、そして絶頂に食欲をそそる。
「ゆんは偉い人の席い―っ! へっへー!」
ゆんは走り出し、一番奥の、よく王様とか座ってそうな位置の椅子に座った。「守哉はここだよ」とゆんが指差した彼女に一番近い席に守哉は座った。
しばらくして明歌もやってきた。彼女は、ゆんに近く、守哉と向かい合う席に座る。
「あうー」
うだるようなゆんの声に、守哉は彼女の方を見た。見ると、ゆんは出された料理を眺めながらヨダレをだらだら溢していた。なるほど。いつもこんなに豪華なわけじゃないのか。彼女の手には既にフォークとスプーンが握られている。
「も、もう我慢できない……。いただきま」
そろ~り、とフォークを大皿に盛られたマッシュポテトに伸ばすゆん。だが、その切っ先が料理を捉える前に、彼女の手は明歌によって止められた。ばしぃっ、とゆんの手首を掴む明歌。その行動の早さに、「おおっ」と守哉は少し感心してしまう。
「あわっ! や、ヤギちゃん……」
「ゆんちゃん? まだ皆、揃っていないわよね。揃う前に食べるとしても、これは守哉君のための食事なのだから、彼が料理に手を出すまで食べちゃダメでしょう?」
「あ、あう……。か、かみやあ」
ゆんが助けを請うように守哉を見つめる。早く食べて、その桃色の瞳が訴えかけてくる。
軽く忘れていたが、彼女の可愛さはそこらのアイドルと張り合うどころか別格である。だから彼女にお願いされたら、どんな男でも身を捧げることだろう。だがしかし、そう、しかしだ。守哉はすでにゆんへの耐性は出来上がっているし、そもそも常識的に招いてもらっている側の人間が、その家の人より早く食べ始める、というのは図々しいことなのではなかろうか。しかもさっきの明歌の行動から見ても、礼儀を重んじる家宅のようだし。
ゆん……、ごめん。守哉は無言でそれをゆんに伝えた。彼女の顔は絶望に染まっている。いや、実際そんなヤバい事態じゃないんすけど。
「かみやが……寝返ったあ!」
「えええ!? 元々お前の味方じゃ……つうか敵いたっけ!? どこに寝返ってんだ俺!」
食事を作り終えた料理長と、それを運び終えた爺やがそれぞれの席につき、食事は始まった。その頃ゆんは三途の川でバタフライを楽しんでいたという。電波だ。
ゆんの食べ具合はすごいものだったが、それ以上にすごいのは守哉だった。驚くほど神掛家使用人たちと打ち解けたあと、普段の彼の貧乏根性が目を覚ましたという。つまりは食える時には胃に流し込ませてでも食いだめしておこう、というかわいそうな思想である。
目標は一万六千キロカロリー、二十代の男性における一日のカロリー摂取量の十倍。つまり、十日分のエネルギーである。
しかも重点的に食べるのはシーフード。消化が遅い食べ物こそ、長く小腸に溜めて置くことができる。おなかさえ壊さなければ、人類一同の夢「食いだめ」がここに誕生するのだ。さらに守哉は野菜を挟んで食べることで体調を管理、肉を食べることで代謝を良好に、こうすることで「食いだめ」の天敵「腹痛(主に右わき腹)」の発生を防ぐのだ。
「……とか頭良さそうなことを言っておきながら、ただおいしいから食いまくってしまう、というだけの守哉君なのだった。むしゃむしゃ」
「かみや、誰に言ってるの?」
「いや、なんでもない。言い訳がましいのが嫌になっただけだぜ」
ふうん、と相槌を打って、ゆんはパスタをフォークだけで器用にくるくる巻いて食べる。
「かみやー」
「むぐ?」
「かみやって一人暮らしなんだよね?」
「おう。……つってもほとんどホームレスだけどな」
「そうなんだ……」
そう言ってゆんはまたパスタをフォークでつつく。不思議に思って、守哉は手を止める。
「どうした?」
ゆんは何も答えない。いろいろと疑問を抱きながらも、守哉は「食いだめ」を再開する。
のどが渇いた守哉の口に、コップのリンゴジュースが触れる直前で、ゆんが口を開いた。
「かみや……行くとこないんだよね?」
むー、と守哉は考える。あの家には未練はないし、そもそも自分のものでもない。親とは生き別れたが、三千里歩かなくてよくても探すつもりはない。学校にもたいして用はない。就職するのが面倒だから、大学に進んでそこの教授にでもなろうかな、と思って通っているだけだ。行くべき場所とか目指すものは……はっきり言って、ない。
「そうだな。……だから、こうやってエネルギー蓄えてんだぜ、いえい! 今、二千キロカロリー前後……」
「ここに住んでくれない……かな?」
リンゴジュースは吹き出した。
「ぶぼっ! げほっ! は、はあ!?」
むせまくる守哉に、明歌が背中をさすってくれた。
「だ、だから……! 行くとこがないなら、こっ、ここに住めばいひっと、~ッ! 住めばよしけりなの!」
「何気に命令文!? しかも古語!」
「ううっ! と、とにかく! どうなの!?」
むう、守哉はまた考え込んだ。
先ほども述べたように、守哉は今の生活に何の未練もない。メリットも、それに伴うデメリットも上手いことバランスは取れていると思う。異常であり、社会のゴミに似合う生活。自分みたいなのには、それが一番合っているから、嘆くこともせず、新たに何かを望むことはしなかった。
それと比べるに、ここはなんだ。広いし、使用人はいい人だし、メシは三ツ星以上(ここ超大事)だし、お金持ちだしで、え? アレですか? 逆玉の輿? ひゃっほう?
とは言っても、守哉は実はそんなメリットはどうでもいいのだ。せめてメシは捨てがたいが。守哉は別に夢の生活を手にしたい普通庶民ではない。
だが、そんな守哉でも、いいな、と思うぐらいの望みはある。
「かみや、ど、どうかなぁ……?」
ゆんがテーブルに身を乗り出して、守哉の顔を覗き込んできた。その頬は、微かな赤みを帯びているように見える。
そこに、彼にとっては新鮮な「楽しさ」を教えてくれた少女がいる。彼女に訊かれた時点で、もう守哉の中で答えは決まっていた。
「いや、でも……。俺なんかがさ、迷惑じゃん」
守哉は周りを見渡す。爺やと料理長は何も聞いていないようにもくもくと食事を続けていた。後ろで、守哉の背中をさすっていた明歌が、守哉の肩を優しく掴んだ。
「私は全然迷惑じゃないですよ。守哉君は面白いですし、ゆんちゃん一緒にいて楽しそうですし、なにより……」
明歌はそこで言葉を詰まらせた。守哉が振り向くと、明歌は「な、何もないですよ……!」と彼の肩から離した手を、ふるふる振った。
「と、とにかく! 守哉君を迷惑に思う人なんていないですよ? ねえ爺や、料理長」
爺やはハンカチで口を拭くと、微笑みながら守哉を見た。
「異議はありませんよ。守哉殿が住むというのなら、主人に報告を入れねばなりませんね」
料理長も、笑顔ではないものの爺やの「異議はない」の部分に頷いていた。
皆から見つめられて、ちょっと照れた守哉は頭をぽりぽりと掻いた。こういう類の好意を大勢から向けられるのは初めてだった。
「まあ、その……。えと、迷惑じゃないのなら……あの」
なんだろう、この気恥ずかしさは。
ゆんがじっ、と守哉を見つめている。その顔があまりに真剣だったものだから、守哉は余計にそれを笑顔に変えたくなった。
「お願い……しますぁっ!」
力みすぎて、例の通り、声が裏返ってしまった。テーブルの上に優しい笑い声が響く。
赤面して俯く守哉に、唯一彼を笑わなかったゆんが、なんと彼に飛び乗ってきた。
「かみやあー! ありがとう! これからよろしくね!」
「うわっ! おまっ、おまっ! ちょ、~っ!」
慌てて守哉からゆんを引き剥がした明歌がいなかったら、彼は失神していたであろう。
ともあれ、今日から守哉は神掛家に住むこととなった。守哉がそのことをしっかり自覚するまで十分ほどの時間を要したのは意外と当たり前のことかもしれない。
ゴミ箱のボロ人形のようなものだった彼の生活は、今日を境にその身を天使に拾われた。
「なあ、今さらだけど、なんで俺をここに連れてきたんだ?」
爺やたちが食事の片付けをしている間、ゆんと二人っきりになった守哉はふと疑問を口にしてみる。対するゆんはとても軽い雰囲気で答えた。
「ん。しっくすせんしゅ」
ゆん的にはシックスセンスと言いたかったらしい。つまり勘だったようだ。電波だ。




