episode.86 その腕の話
トリスタンは白銀の剣を下ろし、ゼーレの喉元から剣先を離す。
そして、怪訝な顔で尋ねる。
「どうしても護れない状況だったってこと?」
ゼーレはわざとらしく、片手で、喉元をパッパッと払う。まるで、不潔な者に触られたかのように。
「そういうことです。私にでも、できることとできないことがありますからねぇ」
あの時ゼーレがクロと交戦できなかったのは、ボスにやられた傷があったせいだ。だから仕方なかったのである。
「さすがにこの状態では……他人を護る余裕はありませんでした」
だがトリスタンは納得しない。
「護れないと判断したなら、せめて、その場から逃がすくらいすべきだったんじゃないのかな」
「当然逃がそうとはしました。しかし、カトレアが拒否したのです」
ゼーレを乗せている蜘蛛型化け物は、脚をさりげなく動かし、軽く足踏みしている。地味な動きが微妙に愛らしい。
「そうでしょう? カトレア」
なっ……!
私に話を振ってくるとは。
しかし私は、心を落ち着けて、冷静に返す。
「そういえば、そうだったわね。あの時は勝手言っちゃって、ごめんなさい」
「いえ。謝ることはありません」
ゼーレは視線を再びトリスタンへと戻した。
「そういうことです。納得していただけましたかねぇ」
トリスタンは眉間にしわを寄せたまま言葉を返す。
「……分かった」
ようやく、トリスタンの攻撃的な態度が緩んだ。刃のように鋭かった目つきは、ほんの少しだけ軟化している。
「まぁ、過ぎたことを責めても仕方ないからね。今回だけは許してあげることにするよ」
ゼーレに対してだけは妙に上から目線なトリスタンである。
「その代わりと言っては何だけど、気になっていたことを聞かせてもらってもいいかな」
気になっていたことってなんだろう? 私はそんなことを思いながら、トリスタンとゼーレの話の行く末を見守り続けた。
今ばかりはフランシスカも、私と同じように、黙って二人を見守っている。
「……何です?」
軽く首を傾げるゼーレ。
それに対してトリスタンは、真剣な顔つきで、ゆっくりと唇を動かす。
「その腕のことなんだけど」
「腕?」
「君の腕、明らかに人間のものじゃないよね。それは何?」
意外なところを突っ込んだトリスタンに、私は衝撃を受けた。
てっきり、また、恋愛感情だとか違うだとかについて質問するのだろうと、想像していたからである。
腕の話が来るとは、夢にも思わなかった。
「それは何、とは……どういう意味です?」
ゼーレは困惑の色を浮かべている。トリスタンが言った質問の意味が、いまいちよく分からなかったようだ。
「どうしてそんな腕なのか、少し気になってね。教えてくれるかな」
トリスタンは躊躇いなく切り込んでいく。
日頃は優しい彼が、意外にも複雑なところについて尋ねたものだから、聞いていて不思議な気分になった。私に接する時の柔和な雰囲気とは真逆で、興味深い。
ただ、ゼーレが不快感を抱いていないか、若干心配だったりはする。
それから少しして、ゼーレは答える。
「……分かりました」
ゼーレにしては珍しく、すんなりと言った。
彼のことだから、色々と嫌み混じりの言葉を吐くものと思っていたのだが、そんなことはなかった。私の脳は、少し、ゼーレと嫌みを関連づけすぎているのかもしれない。
ちなみに、今のところゼーレは、不快の色を浮かべてはいない。
「初めてボスに会ったのは……確か、二、三十年ほど前でしたかねぇ」
二、三十年も前——それは、私が生まれる前。
レヴィアス帝国に化け物が現れるようになったのよりも、ずっと昔である。
話し出したゼーレの言葉を、トリスタンは真面目な顔つきで、黙って聞いている。余計なことを言わない方がいいな、と判断し、私も静かに聞いておくことにした。
「ある夜、私がいた島は襲撃に遭い、あっという間に陥落した……そんな感じだったはずです。もちろん、今やその頃の記憶は、あまりありませんがねぇ」
——同じだ。
私の村が一夜にして壊滅したのと。
「島を護ろうと抵抗した大人たちはボスの手にかかり死に、戦いに参加しなかった幼い子どもはその身柄を拘束されたのです」
話を聞くトリスタンの顔がほんの少し険しくなる。
「私もその中にいました。子どもたちを拘束したことをボスは、『来るべき日のための準備』と言っていた……もっとも、その意味など知る由もありませんでしたがねぇ」
それはそうだろう。
突然現れた謎の敵に身柄を拘束されて、『来るべき日のための準備』なんて言われても、誰だって困惑する外ない。もし仮に、その子どもの中に私がいたとしても、「何の話?そんなのいいから、早く解放してよ」程度のことしか思わなかったはずだ。
純粋な子どもには、大人の考えはそこまで分からないものだ。
特に、穢れた大人の思惑などは、読み取れるはずがない。
「それから十年ほどは、『来るべき日のため』とだけしか聞かされないまま、訓練を受けていましたねぇ。その中でぽんぽん死んでいったのは……懐かしい思い出です」
ぽんぽんって……。
表現はユニークで面白いが、内容は微塵も笑えない。
いくら子どもだとはいえ、そんな簡単に死ぬような訓練、もはや訓練の域ではないではないか。内容の詳細までは知らないが、子どもに対してそんなに厳しい訓練を受けさせるなど、あまりに残酷だ。
「訓練で脱落する者もいれば、化け物研究のために実験体となり果てる者もいましたが……私は運が良かったので最後まで生き残ることができました。かくして、私はボス直属の部下となる権限を得たわけです」
「それで、腕は?」
「腕がこんなことになったのは、その後です。偶然ボスの意図を聞いてしまった私は、逃亡を試み、しかし結局捕まりました。そして、逃亡しようとした罪とのことで、気づけば両腕をちょっきりいかれてしまっていたのです」
ちょっきり、とは、これまた独特な言葉選びだ。言葉自体は軽い響きだが、意味を考えると何とも言えない心境になる。
「意識が戻った時には、既にこの腕になっていましたねぇ」
ゼーレはそこまで話すと、自嘲気味に笑うのだった。




