休戦協定
3年生になるときのクラス替えで、葉月は麻里絵と同じクラスになった。体育倉庫の一件があって以来、葉月は麻里絵と菫とはできるだけ顔を合わせないようにしていたのだけれど、さすがに同じクラスにいてはお互いの存在をないものとするのは、難しい。救いなのは菫が同じクラスではないことで、葉月たちは1組、菫は12組で、教室も1階分離れていた。綾瀬くんも葉月と同じ1組だったけれど、春休みが明けてから、ますます学校に来なくなった。時々、ふらりと姿を見せることがあっても教室には上がらず、体育倉庫の周りで仲間たちとふざけあって、いつの間にかいなくなってしまうようだった。
葉月はできるだけ、麻里絵を意識しすぎないように気を付けていた。歩み寄ることはないけれど、露骨に避けることもしない。それは、他のクラスメートたちへの距離の取り方と同じだった。ひとりが苦にならない葉月は、トイレにいくにもひとりだし、昼休みの弁当もひとりで食べる。休み時間は本を読む時間と決めていたから、ひとりのほうが好都合だった。
麻里絵は、クラスが替わった当初こそ、どこかのグループに入り込もうとしたようだけれど、あまり上手くはいかなかったらしい。体育の準備体操や、美術の肖像画を描く際、2人組を作ると決まって葉月と麻里絵が余った。
『ごめんね、いつもわたしとのペアで』
1学期も終わりを迎える頃、葉月は独り言のように呟いた。ペアを組んでの柔軟体操。麻里絵は申し訳程度に指先を葉月の背中に当てている。葉月の目の前には地面が迫っていて、小さすぎる葉月の声は砂利に吸い込まれて消えてゆく。きっと麻里絵の耳には届かないだろう。ごめんね、と葉月はもう一度口にした。
『菫だったら良かったね』
触れるか触れないかだった麻里絵の指先がぴっと固くなる。次の瞬間、葉月の背中に強い力がかかり、地面がぐんと近くなった。
『痛いっ。痛いよ麻里絵』
『ばか。葉月のばか』
葉月の背に体重をかけた麻里絵が耳元で繰り返す。ばか、葉月のばか。ばかばか。もがく葉月を押さえ込みながら、麻里絵は久しぶりに葉月の名前を呼び続けた。
休戦協定とでも呼んだら良いだろうか。葉月も麻里絵も、互いに相手が不在だと不便な思いをすることを知っていたから、クラスの中では仲良く振る舞うようになった。遠足の班決めも、学活のグループ分けも、ひとりぼっちとふたり組では訳が違う。ひとりぼっち同士の葉月と麻里絵は敬遠されても、葉月と麻里絵の2人がペアになると意外とあっさり迎え入れられた。そのような場面が来るたび2人は共犯者のように苦笑いを交わして親友を演じ、けれど放課後になると麻里絵は菫と肩を並べて校門を出てゆくのだった。図書室から見送る2人の後ろ姿はとても親しげで、葉月の胸を曇らせた。所詮、麻里絵にとって、わたしなんて麻里絵には菫の代わりでしかないんだ。
……なんで、わたしには友達ができないんだろう。
ひとりで過ごすことは苦にならない葉月だったけれど、誰の1番にもなれない虚しさが少しずつ芽生え始めていた。母親には日菜と凌がいる。麻里絵には菫がいる。じゃあ、わたしには……?
わたしには、かず子。
葉月は読みかけの小説に目を落とす。住み慣れたら屋敷を追われ、堕ちてゆく主人公に、葉月は深く感情を重ね合わせた。