いじめ
それは、ほんとうに些細なことから始まった。
『てめーの鼻を啜る音が気持ち悪りぃんだよ』
隣の席に座る吉岡くんが、吐き捨てるように言った。夏の始め、期末テストの時期で、数学の答案用紙を回収している最中のことだった。
『ズルズルいいやがってよぉ』
アレルギー体質の葉月は、季節の変わり目になると決まって鼻炎を起こす。試験で下を向いていると、際限なく鼻水が出てきた。持ち歩いているポケットティッシュを使い果たし、ハンドタオルで押さえながら鼻を啜り上げたのが耳障りだったらしい。
『ごめんなさい』
休み時間になるのを待ってトイレに向かうと、葉月はトイレットペーパーで何度も鼻をかみ、ついでに多目に巻き取った紙をポケットに突っ込んだ。席に戻ると、『この鼻水野郎』と吉岡くんに睨まれる。
『ごめんなさい』
葉月がもう一度謝ると、彼はちっと舌打ちしてから机に突っ伏した。その日は、それだけだった。
翌日、いつものように登校して席に着こうとした葉月に、吉岡くんが呟いた。
『出たよ、ズルズル』
言いながら、前の席の生徒の背中を突っつく。振り向いた男子の耳に何かを囁くと、彼はにやりと笑ったあとで不快な表情を浮かべた。
『ウェッまじ、吐きそう』
何かを吹き込まれた男子も、一緒になってニヤニヤと葉月を窺う。
『根暗な鼻水女。キモいんだよ』
『なに、言ってんの!?』
葉月の前の水上さんが教科書から顔を上げて、2人を睨む。隣のちっと舌を鳴らすと、吉岡くんは怠そうに机に臥せた。
吉岡くんというのは、どちらかというと目立たない生徒だった。ずば抜けた運動神経の持ち主というのでもなく、かといって目を引くほど成績が悪いということもない。校則をギリギリのところで守っているあたりも至極一般的で、大声を出して騒いだりするようなタイプでもない。葉月も、それまでクラスメートのひとりとして以上の認識をしたことはなかった。
だから、突然彼に罵られたことには面食らったし、まさか日をまたいでまでそれが持続するとは思いもしなかった。余程、不快な思いをさせたらしい。葉月は反省し、翌日から大量のポケットティッシュを鞄に詰めこんだ。
それほどの影響力を持つわけてはない吉岡くんの言うことに、最初から反応する生徒は少なくて、葉月はしばらく、彼とその周囲2,3人からの暴言だけを我慢していれば良かった。小学校の頃、美樹ちゃんたちにもそうしてきたように。
けれど、吉岡くんのほうは、それでは物足りなくなったようだった。そこで彼は、その遊戯に他の生徒たちを巻き混み始めた。
『てめーの体操着、黄ばんでんだよ。ばい菌』
『机、つけんじゃねぇよ。感染るだろっ』
葉月に向かって声を荒げる吉岡くんを初めは遠巻きに見ていた生徒が、1人、2人と仲間に加わる。
『制服買い直す金もねぇのかよ、てめーんちには』
『声、小っちゃくてなに言ってっかわかんねんだよっ』
半数の男子が葉月を罵ることに慣れると、残りの半分が追従するのはあっという間だった。夏休みが始まる間際には、葉月はクラス中の男子から『ばい菌』のあだ名で呼ばれるようになっていた。葉月をかばう女子もいないわけではなかったけれど、葉月が怒りも泣き出しもしないので、大半の女子はそれほど気にも止めていないようだった。
『そこ、ちゃんと並べよっ』
終業式で、葉月の隣だけポッカリ開けて整列する男子を、担任が叱りつける。渋々と間を詰めて並んだ男子は、葉月を横目に見ると『くっせぇ』と吐き捨て、鼻を摘まんだ。前後の男子がクスクスと笑う。
『やめなよ』
見かねた水上さんが、葉月の後ろから男子をたしなめた。
『植村さん、気にすることないからね』
体操座りのまま、葉月は小さく頷く。ほんとうのところ、葉月はそれほど気にしていたわけではなかった。彼らの言うことをいちいち間に受けはしない。ただ、ひたすら面倒くさかった。そして、この面倒の種が、夏休みの間に消えてくれることだけを願っていた。




