確執
日菜の入院中、母親は週末以外にも何度か面会に足を運んでいるようだったが、以前と比べると格段に家にいる時間が増えた。そのぶん葉月は家事の心配から開放されたわけだが、家の中の暗雲は濃度を増したように感じられた。葉月が家に帰ると母親は当たり前のようにしかめ面で、自室にこもった祖母が足音を立てるたびにチッと舌を鳴らし天井を睨み付ける。
『大きな足音たてて。品がないったらないわ』
ねえ?と同意を求められて、葉月は頷く。
『ほんとうだね』
葉月が口にすると、母親はようやく笑顔を浮かべて言うのだった。
『やっぱり、葉月ちゃんはお母さんの味方ね』
ときには、2人が面と向かって言い争いをしている最中に帰宅することもあった。その理由はといえば、母親宛の葉書を祖母が見ただの、使ったあとの洗面所が汚いだの、洗濯機の使い方が気にくわないだの、家の隅々から拾い集めてきたように無秩序で、つまり理由などあってないようなものだったのだろう。ウマが合わないという点においては、1㎜のぶれもない2人だった。
とくに、母親の嫌いかたは徹底していて、祖母の洗濯物には絶対に手を触れなかったし、食器も祖母のものだけは家族のものとは別のところにしまっていた。 祖母の入った風呂には入れないという言葉を聞きつけた父親が、会社から帰るなり顔を真っ赤にして母親を怒鳴り付ける一幕もあって、もはや誰が不機嫌でも葉月は驚きもしなくなった。自分にさえ被害が及ばなければ良い。母親の怒りの矛先が葉月に向いてさえいなければ構わないのだった。そして、そうであるために、葉月は完璧なまでに母親の言動を真似た。母親と同じように祖母を嘲り、母親と同じように祖母をなじり、母親と同じように祖母を無視した。
『ほんとうに小憎らしい子だよ』
吐き捨てるような祖母の言葉も、嘲笑いで聞き流した。
父親の存在が薄い家の中で、孤立無援の祖母は、けれど怯むようすもなかった。それどころか、母親が嫌がるのをどこか面白がってさえいるように見えた。
『はい、洗濯機使わせてもらいますよ』
食卓に100円硬貨をパチリと置く。いつの頃からか祖母は、風呂に入るにも、掃除機を使うにもは母親に100円を支払うことにしたようだった。そのたびに母親は、忌々しげに硬貨をつまみ上げ、小物入れの引き出しに放り込んだ。
『お袋から金を取るってどういうことだっ!?』
もちろんそれは父親の逆鱗に触れ、真夜中に父親の怒鳴り声が響いた。
『お義母さんが勝手にやってることじゃないのっ!!』
2階の自室で頭から布団を被っても、両親の争う声は葉月の耳に届いた。おばあちゃんがいるから、お父さんとお母さんが喧嘩する。なんで、おばあちゃんはうちにいるんだろう。葉月は隣の部屋から漏る祖母の寝息に小さく舌打ちした。
祖母が葉月たちの家に来たいきさつを、葉月は母親に聞いたことがある。それは小学校最後の夏休み直前の土曜日で、葉月は母親の運転する車で日菜の病院に向かう最中のことだった。
クラスメートたちが口にする、『田舎のおばあちゃんち』が葉月にはなくて、代わりに相入れない祖母が自宅にいる。なぜ山梨や鹿児島じゃなくて、『我が家』に祖母が住んでいるのだろう。みんなは、夏休みに遊びに行く田舎があるのに。
葉月の疑問を、母親は冷ややかに切り捨てた。
『知らないわよ』
母親が日菜の出産で入院している間に、祖母は葉月の家に移り住んでいたらしい。
『わたしが退院してきたら、もうこの家に住んでた』
そのときを思い出したのか、さも憎々しげに母親は言う。
『鏡台も箪笥も勝手に移動されていて』
それはおそらく、祖母の悪意ではない。父親が、独断で祖母を呼び寄せたのだろう。もしかしたら、日菜の誕生で手一杯となる母親を慮ってのことかもしれないし、祖母に少しでも楽をさせたいという一心だったかもしれない。祖母は早くに夫を亡くし、女手ひとつで父親とその妹を育て上げていた。
だが、いずれにしても母親に一言の相談もなかったのは父親の最大の失策だった。蔑ろにされたと感じた母親の怒りは凄まじく、何十年とあとを引く確執へと姿を変えていったのだった。
そしてもうひとつ、母親を頑なにさせているもの、それが日菜だった。障がいを持つ子供を生んだことを、母親はどこか負い目に感じていたのだろう。祖母への攻撃は、いわば母親の過剰防衛ともいえるものだった。