前編
王城の大広間は、今宵も華やかな光に満ちていた。 シャンデリアの煌めきが磨き上げられた床に反射し、貴族たちの衣装を一層鮮やかに彩る。音楽隊の奏でる優雅な旋律に合わせ、幾組もの男女が踊っていた。
私、エレノア・フォン・アルヴェルトはその中心に立っている。第一王子殿下の婚約者として。
もっとも、それも“かつて”の話ではあるのだけれど。
「エレノア」
名を呼ばれ、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、この国の第一王子クラウス殿下だった。
金の髪に自信に満ちた笑み。だがその瞳に宿るのは、かつて私が知っていた理知的な光ではない。軽薄で、どこか幼い輝きだった。そして彼の隣には、見慣れぬ令嬢が腕を絡めている。
・・・なるほど。
状況は、だいたい理解した。
「殿下、本日はどのようなご用件で?」
穏やかに問いかけると、クラウス殿下はわざとらしく周囲を見渡し、声を張り上げた。
「よく聞け! ここにいる者すべてに告げる!」
音楽が止み、ざわめきが広がる。 視線が一斉にこちらへと集まった。
「私は今、この場でエレノア・フォン・アルヴェルトとの婚約を破棄する!」
やはり、そう来ましたか。
思った通りの展開に、内心で小さく息をつく。 けれど表情は崩さない。崩す理由もない。
周囲は一瞬の静寂の後、大きくざわめいた。
「・・・婚約破棄だと?」
「こんな公の場で?」
その声の中で、クラウス殿下は満足げに顎を上げる。
「理由は明白だ。エレノアは公爵令嬢でありながら華がなく、私の隣に立つに相応しくない!」
殿下の発言を聞き、隣の令嬢がくすりと笑い口を開く。
「殿下にふさわしいのは、もっと可愛らしくて素直な方ですものね」
なるほど、この方が“新しい婚約者候補”というわけね。私は軽くドレスの裾をつまみ、ゆるやかに一礼した。
「・・・婚約破棄、でございますか」
静かに言葉を返す。その声音に、何人かの貴族が息を呑む気配があった。
「いかにも! 異論はあるまい!」
勝ち誇ったように言い放つクラウス殿下。
・・・異論。
ええ、あるにはあるけれど。それを今ここでぶつけるのは、少々無粋というもの。
「殿下」
私は顔を上げ、まっすぐに彼を見据えた。
「ひとつ、確認してもよろしいでしょうか」
「確認だと?」
「はい。殿下は、今この場で“婚約を破棄した”と仰いましたわね」
「そうだ。聞こえなかったのか?」
「いいえ、はっきりと」
私はにこりと微笑む。
「・・・ですが、その必要はございませんわ」
「・・・は?」
クラウス殿下の顔がわずかに歪む。周囲もまた、ざわつきを強めた。
「何を言っている?」
「そのままの意味でございます。殿下」
一歩、前へ出る。
「私と殿下の婚約は――すでに、半年前に正式に解消されておりますもの」
空気が凍りついた。
「なん、だと・・・?」
低く漏れた声。それが理解の追いつかない困惑であることは、誰の目にも明らかだった。
「そのような話、聞いた覚えはないぞ!」
「そうでございましょうね」
私は穏やかに頷く。
「殿下はその場にいらっしゃいませんでしたもの」
「どういうことだ!」
「簡単なことですわ」
私は背後に控えていた従者へと視線を送る。すぐに一通の書類が差し出された。
それを受け取り、ゆっくりと掲げる。
「こちらは、国王陛下の御署名と公印を賜りました正式な文書。私と第一王子クラウス殿下との婚約を解消する旨、そして――」
そこで一拍置く。
視線が、再び集まる。
「新たな婚約を結ぶ許可が記されたものですわ」
「新たな・・・婚約、だと・・・?」
クラウス殿下の声がかすれる。
「紹介が遅れましたわね」
私は静かに振り返った。
大広間の入口。そこに立っていたのは、もう一人の王子。
落ち着いた銀髪に、深い青の瞳を持つ青年――第二王子、レオンハルト殿下。
その姿を認めた瞬間、貴族たちのざわめきが一段と大きくなる。
「・・・まさか」
「第二王子殿下が?」
レオンハルト殿下はゆっくりと歩み寄り、私の隣に立った。
「遅くなってすまない、エレノア」
「いいえ、ちょうどよろしい頃合いですわ、殿下」
私達は軽く会釈を交わす。そして私は、はっきりと宣言した。
「私、エレノア・フォン・アルヴェルトは――現在、第二王子レオンハルト殿下の婚約者でございます」
広間には静寂が流れる。
そして次の瞬間、爆発するようなざわめき。
「なっ!?」
クラウス殿下は言葉を失い、顔色を変えた。
「ば、馬鹿な、そんな話、認められるはずが!!」
「認めるも何も、すでに陛下の御裁可をいただいております」
レオンハルト殿下が静かに言う。
その声音には、揺るぎない確信があった。
「正式な手続きを経ている。異議があるなら、陛下へ直接申し出るといい」
反論の言葉を失う第一王子。隣の令嬢も、青ざめた顔で立ち尽くしている。
私はゆっくりと息を整え、最後に一歩だけ近づいた。
「殿下」
クラウス殿下の耳に届くよう、静かに告げる。
「婚約破棄のご宣言、誠にご苦労様でございました」
そして、にこりと微笑む。
「ですがその件、すでに終わっておりますわ」
彼の瞳が、大きく揺れた。
誇りも、余裕も、すべてが崩れていく音が聞こえるようだった。
「どうぞご安心くださいませ。殿下のお手を煩わせるまでもなく、手続きは完了しておりますので」
くすり、と小さく笑う。
その瞬間、場の空気が完全に変わった。
誰の目にも明らかだった。
勝者と敗者が、どちらであるのか。
音楽は再び流れ始める。
だがその旋律は、もはや先ほどまでとは違う意味を持っていた。
新たな序章を告げる音色。
私はレオンハルト殿下の腕にそっと手を添える。
「参りましょう、殿下」
「ああ」
静かに頷く彼と共に、歩き出す。背後で崩れ落ちる何かを振り返ることは、もうなかった。
――なぜなら
終わった話に、興味はございませんもの。
これから始まる未来の方が、よほど価値があるのだから。




