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キスの味

高1の時の作品です。

僕に物心がつくころには、父はいなかった。でも、家に仏壇はないし、今まで父の墓参りにいったこともないから、生きてはいるのだろうと思っていた。だから、僕は勝手に、総人口数十人程度の小さな村に、妻子を置いて出て行った、無責任で自分勝手な男が僕の父で、ママは、そんな逆境を乗り越えながら、僕を育てる強く美しいヒロインなのだと、十六年間、そう信じてきた。しかし、


「あ、お父さん」


おとといの夕食後、ママがニュースを見ながらつぶやいた。テレビ画面には、『人気芸術家 紫藤彰人 初の展覧会』と見出しが付けられ、インタビューを受ける男の画家が映っていた。


「お父さんは、東京で絵を描いているのよ」


父の話は、今まで、ママから聞いたことがなかったし、話したくないのだろうと察して、僕も聞くような真似はしなかった。だから、初めて見たのだ。父のことを話すママの、僕の見たことのない、恋焦がれるような表情を。ああ、ママは父のことを愛しているのだ。そう直感的に感じ取ると、胸の奥に潜んでいた黒い靄があふれ出そうになった。





「痛っ」


考え事をしながら、包丁を握っていたものだから、つい指を切りそうになった。もう父のことを思い出すのはやめよう。


今日はママの誕生日だ。僕は台所に立って、夕食を作っている。


「えっと、次はもも肉を焼いて」


ママはカレーが好きだ。だからといって、誕生日にカレーは地味だろうか。そういえば、隣の佐々木さんからもらったりんごがあったはずだ。うちは果物をなかなか買わないし、カレーにりんご混ぜたら特別感があって誕生日っぽいかな。ママは喜んでくれるだろうか。そうだ。花でも買ってきてプレゼントしよう。そんなことを考えながら、りんごをすりおろしていく。すると、ポコン、と弾んだ通知音が鳴った。ママからだ。


『仕事終わったよー今から帰ります!』


花屋に行って帰ってくるより、ママが帰ってくる方が早そうだな。『お疲れ様。用事あるから先食べてて。すぐ帰る』


送信するとすぐ既読がついて、グッドサインをする熊のスタンプが返ってきた。





通学で使い慣れた自転車をキイキイと鳴かせながら、片道二キロの街まで漕いで行く。なんとか目的の花屋につき、店の中に入ると、花屋特有の冷えた空気と、潤った花の匂いが、僕の汗ばんだ身体を包んだ。色とりどりの花の中で、一番初めに目に留まったのは、白いチューリップだった。ママの肌のように白くすべすべしていて、丸みを帯びた花がかわいらしかった。五本手に取って、店員さんにリボンをつけてもらい会計を済ませた。花束を荷台にくくって、あとは帰るだけ。ママはカレーを食べ始めたころだろうか。早く帰って感想を聞きたい。その一心でペダルを踏み込んだ。




街から家まで二十分弱で着くことができた。これが愛の力なのだと思い、口角が緩む。カレー、美味しかったかな、褒めてくれるかな、そんな期待を抱きながら、僕は玄関の扉を開けた。


「ただいま」


玄関にも届く香ばしいカレーの匂い。に混ざった鉄の匂い。


ママは、玄関前の階段のそばで、胸を押さえて、頭から血を流して倒れていた。


ドラマのように悲鳴は出ない。ただ、呆然と立ち尽くして、目の前の状況を整理することで頭がいっぱいだった。僕は靴を脱ぎ捨て、ママを抱きかかえた。


「ママっ、返事してよ…ママぁ、」


ママは目をつむったまま動かない。望みをかけて、手首を抑えてみるが、脈は確認できなかった。足が階段に掛かっていたことから、階段から落ちたことが容易に考えられた。階段を踏み外したのか。いや、そんなドジをする人じゃない。なぜ。どうして、ママは死んだ。ふと、傍に転がっていたママのスマホが目に入った。画面にひびが入っているが、電源はついた。解きなれたパスワードを解除すると、表示されたのは電話アプリだった。通話履歴の先頭には{彰人さん}と書かれていた。紛れもない父の名前だった。ああ。やっぱりお前だったか。僕というものがありながら、ママはあんなに愛していたのに。お前は二度も裏切るのか。僕の中で明確な答えと方針が浮かんだ。


ママを殺したのは父だ。僕が、父を殺さなきゃ。


「ママ。天国で見ていて。ちゃんと敵は討つから」


返事は勿論ない。しかし、ママは、生気のなくなった顔も美しく、可憐でいて、どこか艶めかしかった。僕は、ぬくもりが抜けたママの唇に自分の唇を重ねた。カレールウに隠れて、ほんのりとりんごの味がした。




 善は急げと聞く。父親殺しが善なのかは置いといて、僕は東京行の列車に乗っていた。ママは、布団まで運んで寝かせておいた。警察には、僕が自首するときに話せばいいだろう。僕は、スマホのロックを解除し、検索アプリを開くと、「紫藤彰人 出演番組」と入力した。現在時刻二十一時四分。父は二十二時から始まるラジオ番組に出演する。目的の駅まであと三十分。駅から放送局まで十分ほどでつく。時間は充分にある。あとはその時を待つのみ。僕は、父を背後から襲うシーンを脳内で何度も繰り返した。




 二十一時四十四分。電車は殺人を犯そうとする者も平等に、時間通りで目的の駅で停まり、僕は無事に放送局の地下駐車場に来ることができた。父の姿はあの日見たニュースでしか見ていないが、細見な身体に、白い肌、無造作な髪からは、現場に徒歩で来るような性格は見て取れなかった。それと同時に、どんな業界でもビジュアルが求められる現代社会で、なぜこの人に人気があるのか、そして、美人なママは、なぜこのだらしない男と結婚したのか、不思議に思った。いくら考えても答えの見つからない問いに首をかしげていると、一台のタクシーが前を通り過ぎた。一瞬だったが、間違いない。父が乗っていた。僕はリュックからナイフを取り出し、自分のパーカーのポケットに、ナイフを握る右手ごと入れて隠した。タクシーは建物の入り口の前で止まった。シミュレーション通りにすればいい。そう自分に言い聞かせ、身体中から噴き出る汗を抑えようとする。タクシーのドアが開く。息が荒くなる。そして、父が姿を現した。


「うああああああああああああ」


父は僕の声に気付き、振り返った。父の目が僕をとらえた時、


「伊吹」


父は僕の名前を呼んだ。僕は驚いてしまった。小さい頃置いて行ったはずの息子の名前を憶えていたことに。そのせいで僕は父を刺す寸前で止まってしまった。


「大きくなったな」


父は心底嬉しそうに、目を細めて笑った。今だ、腹を刺せ。僕の中の僕が急かすが、身体は動かず、そのかわりに目の前がぼやけ始めた。


「お父さんっ僕、」


何事だと、建物の中から大人たちが出てくる。お父さんは、僕がナイフを持っている手に自分の手を重ねると、


「すみません。今日のラジオ、パスで」


と言って、先ほどのタクシーまで僕の手を引いて歩き始めた。




 タクシーの中で、会話はなかった。僕は今からどんな罰を受けるのか想像し、怯えることしかできなかった。タクシーが止まった先は、首がつってしまいそうなほど高いビルだった。お父さんに手を引かれ、エレベーターに乗り、部屋につく。お父さんが部屋を開けると、油絵具の匂いがした。部屋は広いものの、画材が散乱しており、お世辞にもきれいとは言えなかった。これが、お父さんの部屋。お父さんは、僕にところどころに絵具が付いているソファを勧めて、自分はキャンバスの前の使い古された丸椅子に座った。


「ごめんな」


お父さんは、僕の目を真っ直ぐ見つめながら、話し始めた。ママとは都内の美大で出会ったこと、お父さんの実家があるあの村でママと暮らしていたこと、絵が評価され始めた時、ママが僕を妊娠したこと、上京後は、逐一連絡を取りあってっていたこと。今日も僕がカレーを作ったことを、ママはお父さんに電話で伝えていたそうだ。どれも初めて聞く話だった。当然だ。僕がお父さんの話をずっと避けてきたから。


「俺は、家族より自分を優先した。父親失格だ。史恵と伊吹には今まで辛い思いをさせた。本当にすまなかった」


お父さんは立ち上がって、床に膝をつき、頭を下げた。簡単に許すなんてことはできない。だけど、


「・・・ママがお父さんを好きになったわけがわかった気がする」


お父さんは頭を下げたままだ。


「放っておけなかったんだろうね。見た感じも聞いた感じも、父さんはダメ人間みたいだから」


人を殺そうとした僕が言えた事じゃないが。


「そして何より、応援していたんだと思う」


この汚い部屋の中で一つだけ、額縁に入れて丁寧に保存された絵があった。その絵には、ママが白いチューリップ畑を歩いている絵だった。


「僕たちはやっぱり親子だね」


お父さんは、床に頭をつけたまま、声を震わせて泣いていた。




「この絵のモデルってママ?」


お父さんは顔をあげて涙をぬぐった。


「ああ、そうだ。東京に来て最初に描いた作品だ」


「タイトルは?」


「ない。世に出してないんだ。自分だけで楽しみたかったから」


「なんでチューリップなの?」


「白いチューリップの花言葉を知ってるか」


僕は首を横に振った。


「失われた愛だ」


あの花束をプレゼントするべきじゃなかったかもしれない。


「ママは今でもお父さんを愛していたよ」


お父さんは俯いた。


「史恵の好きな食べ物が何かわかるか」


「カレーでしょ」


「その通り」


お父さんは、部屋の隅の本棚から分厚いアルバムを取り出し僕に渡した。ページをめくると、そこには若かりし頃のママが写っていた。レストランでおいしそうにカレーを食べるママ。水族館でイルカを撫でるママ。絵を描くママ。どれも僕の知らないママだった。お父さんは、僕の知らないママを知っている。たくさん話をしたい。でも、その前に伝えなくてはいけないことがある。ママはもういないこと。


「じゃあ、食べられないものも知ってるか?」


食べられないもの。今まで考えたこともなかった。何せ、ママは賞味期限が切れたヨーグルトでも構わず食べていた。どんな時でもママは強くて優しい。


「史恵はりんごアレルギーなんだよ」


突如としてあの時がフラッシュバックする。


ママは階段から落ちていた。


足を滑らせるとは思えない。


それ以外の理由。


ママは胸を押さえていた。




キスの味は、ほんのりと甘酸っぱかった。

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