表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/20

第20話 葬列の外で

 朝が来た。正確な朝が、迷いなく落ちてきた。

 時計塔の針は、刻むべき場所を外さない。秒針はきちんと走り、長針は背筋を伸ばして進み、短針は町の眠りを置いていく。鳩は固まらず、飛ぶ。止まり木の鳥は、もう戻ってこない。空は鳴らない鐘の余韻で満ちて、目に見えない波が屋根の上をなぞっていく。


 通りには列があった。今日の列は、一本ではなかった。

 黒布の台車が分かれていた。分かれた車列のあいだに、人の選ぶ幅が生まれている。制服の色褪せはそのままなのに、肩と肩のあいだが少し広い。誰かが、誰かの隣を選べる。手を伸ばして、袖を掴み、歩幅を合わせられる。順番は一本の線ではなく、網の目みたいに広がっている。


 凪人は、通りに出た。

 列には入らない。列の外を歩く。舗道の白線と影の境目を踏む。影は今日も薄く、けれど踏んでも壊れない。壊れないかわりに、少しだけ音を返す。靴底から伝わる、小さな音。今の音。

 背中には、遼の掌の熱が残っている。薄くなっても、消えない種類の熱。風が背中を抜けるたび、その熱は内側へ潜り直し、骨のくぼみに落ち着く。


 未来の自分はいなかった。

 灰色のコートも、静かな会釈も、今日の輪郭からは外れている。代わりに、街角のガラスに映る自分が、少しだけ背伸びをしていた。どこへ向かうのかは決まっていないのに、背だけが先に伸びる。伸びると、見えるものが増える。増えたぶんだけ、怖さも増える。それでも、前がある。


 凪人は足を止め、通り過ぎる顔を一人ずつ見つめた。

 肩幅の広い老人が、台車の脇で帽子を脱ぐ。歯並びの悪い少年が、片手で位牌を支えながら、反対の手で幼い妹の手首を包む。妊婦の腹は大きく、猫背の青年の背は薄く、誰もがどこかを庇いながら歩く。

 誰もが誰かの昨日であり、誰かの明日だ。

 昨日の手を放さずに、明日の肩に触ろうとする、その姿勢の不器用さが、痛いほど分かる。


 写真を胸にしまう。二つ折りの角はやわらかい。折り目の塩は薄く、指でなぞればすぐ粉になる。表の手触りは残っている。裏はもう読めない。それでいい。手触りの残るほうを頼ればいい。

 凪人は、腹の底から声を出した。


 「行ってくる」


 列は振り返らない。

 誰も振り向かず、歩幅も乱れない。鳩が一羽、電線から斜めに降り、斜めのまま遠ざかる。止まり木の影は木の根元で丸くなり、根の白い傷は朝の湿りを吸って少し濃く見えた。

 振り返らないから、凪人は何度でも振り返る。

 遼の名を、母の名を、自分の名を、間違えずに呼べるだけ呼ぶ。それが、葬列の外へ出るたびの、最低限の礼儀だと知っている。


 「遼」

 呼ぶと、背中の熱が小さく跳ねた。跳ねて、沈んだ。沈んで、落ち着いた。

 「母さん」

 胸の奥で湯気が立つ。立って、揺れ、すぐ戻る。

 「凪人」

 自分の名前は、喉の一番手前に引っかかり、少し痛む。けれど、痛みは生きている証拠みたいに、くっきりしていた。


 通りの端で、学校の友だちが手を振った。

 名前を思い出しかけて、凪人は首を横に振る。思い出すのは、順番にする。順番にすると、誰かが後になる。今日は、順番にしない。その代わりに、視線を合わせて、口の形だけで、おはよう、と言う。

 友だちは笑った。今度は、声に出しておはようと言った。その声が、町の壁にきちんとぶつかり、跳ね返ってきた。跳ね返る音は、気持ちのいい重さがある。


 商店街では、シャッターの落書きが新しくなっていた。

 泣き笑いの顔は、涙の線を短くして、口角を少しだけ上げている。誰が描き直したのかは分からない。ただ、缶の匂いがまだ残っていて、絵の前を通るときだけ、空気が冷えた。

 パン屋の前で、空の籠が二つ重ねられている。焼かれる前の匂いが薄く漂い、凪人の腹が思わず鳴った。鳴るだけで食べられない。それでも、鳴ること自体が嬉しかった。腹は、未来の準備が得意だ。


 橋へ向かう。

 川は、今日は静かだ。遼の白い輪が溶けていった水面が、やわらかい光を集めている。柵に手を置くと、金属の冷たさが掌の文字を落ち着かせる。遼、さおり、かあさん。書いた名は消えない。消えないけれど、輪郭はときどき薄くなる。薄くなったぶんは、呼べば戻る。

 凪人は橋の真ん中で立ち止まり、もう一度背を伸ばした。頭のてっぺんが、空に少し近づく。

 空は鳴らない鐘の余韻で満ちている。音はない。でも、鳴ったあとの形だけが、空気に残る。残った形は、人の動きをまっすぐにする。背筋は、音のない音に合わせて整う。


 通りの反対側では、列が分岐していた。

 三つ、四つ、五つ。分かれ道には、看板も印もない。人が選ぶことで、道が濃くなる。濃くなった道は、あとから見れば最初からそこにあったみたいに見える。順番は、選んだ跡の濃度で形になる。

 凪人は、列の外をそのまま歩いた。分岐の間を縫う。誰かの袖が頬に触れ、誰かの影が足の甲を跨ぐ。跨がれても、壊れない。壊れないから、速度は上がる。速度が上がると、怖さが少し遅れて追いかけてくる。それでも、足は止まらなかった。


 時計塔の下に来ると、鐘楼の綱が軽く揺れていた。

 誰も引いていないのに、揺れる。不意の風が吹いたわけでもない。鳩の羽ばたきが綱に触れたわけでもない。揺れるだけで、鳴らない。鳴らないのに、余韻は来る。

 凪人は綱に手を伸ばしかけて、やめた。今日の鐘は、鳴らさない。鳴らさなくても、朝は来ている。鳴らさなくても、時計は進む。

 塔の影が足に重なった。影は固くなかった。柔らかい影は、踏んでも形を変える。変えた形がすぐ戻る。戻るたびに、足の裏が自分の重さを思い出す。


 母のいる家へ寄る前に、凪人は止まり木の根元へ回った。

 幹の白い皮に、逆順の傷の間を縫うように刻まれた“なぎと”の正面の字。昨日刻んだ“りょう”。浅い刻みは、朝の湿りでやわらかく光っている。

 指でなぞる。木は何も言わない。言わないけれど、温度は返す。返された温度が指先を通って腕へ、肩へ、胸へ入ってくる。胸の内側で、熱の輪が一度だけ広がって、落ち着いた。


 家の前で、凪人は一度深呼吸した。

 玄関の引き戸は、軽い音で開く。

 母は椅子に座り、窓の外の鳩を見ていた。

 「ただいま」

 凪人は言う。声は、ちゃんと今の形だ。

 母は振り返る。微笑む。

 「おかえり」

 湯のみを用意すると、湯気はまっすぐ立った。今日も、立って、揺れて、すぐ戻る。戻るたびに、部屋の空気が新しくなる。

 「行くのね」

 母は言う。

「行ってくる」

 「どこへ」

 「決めてない」

 母は、それでいい、と笑った。決まっていないという事実が、今日だけは生の証明になることを、母は知っている顔だった。


 家を出て、校門をくぐる。

 教室の窓は半開きのまま。黒板には薄い文字が残り、誰かの筆圧の強さだけが白く浮いている。教卓に写真を置こうとして、凪人はやめた。写真は胸に置くものだ。置いていくのは、言葉のほうがふさわしい。

 黒板の隅に、チョークで小さく書く。

 なぎと。

 りょう。

 かあさん。

 消しやすい位置に。誰かが消してもいい。消しても、書いた事実は、書いた人間の姿勢を整える。


 運動場を横切り、門を出ると、列の分岐はさらに増えていた。

 台車どうしが、盤面の駒みたいに互いの間合いを読み、譲り、進む。小さな喧嘩がひとつ生まれ、すぐ収まる。笑いがひとつ生まれ、すぐ流れる。泣き声がひとつ生まれ、すぐ沈む。

 凪人は、泣いていた。

 笑わずに、泣く。

 笑わないことで、遼の笑顔の形を正確に覚えておける。遼の片方の口角が先に上がる癖、目尻の皺が三本になること、笑うときだけ肩がわずかに上がること。涙が頬を伝い、そのすべての輪郭をなぞった。


 橋を渡る前の角で、知らないお婆さんが凪人の手を握った。

 「声、よう出てるね」

 凪人は頷く。

 「行ってくるんじゃろ」

 「行ってきます」

 お婆さんは笑い、手を放した。

 「うちは、ここに居るけえ。帰ってくるところは、いつでも在る」

 言われて、凪人は胸の写真に触れた。折り目が、心臓と一拍だけ重なる。


 通りの終わりに、町の外へ続く坂道が見えた。

 坂の先は、霞んでいる。霞んでいるが、地面はある。白線も、影も、まだ続いている。

 凪人は足をかけた。

 後ろから、列の気配がゆっくり押し寄せる。押されても、振り返らない。振り返らないのは、列が振り返らないからじゃない。振り返らないほうが、今日は礼儀だからだ。

 礼儀は、日によって違う。

 昨日は、呼び合うことが礼儀だった。

 今日は、前を見ることが礼儀だ。


 それでも、名前は呼ぶ。

 「遼」

 「母さん」

 「凪人」

 呼ぶたびに、背中の熱が形を変える。丸くなり、細くなり、輪のように広がる。輪は白くない。熱の輪だ。

 熱の輪の真ん中で、足音が前へ出る。

 裏向きの時間は、まだ世界のそこかしこに潜んでいる。曲がり角の陰、横断歩道の白線の隙間、校舎の階段の踊り場。そこに足を入れれば、昨日が前に出てくる日もきっとある。

 けれど、順番はもう、ひとつではない。

 一本のレールに戻らない。戻せない。戻さない。選ぶことで、道は増える。増えた道のぶんだけ、誰かの昨日が救われ、誰かの明日が遠くへ行ける。


 坂の途中で、凪人は立ち止まった。

 息を整える。肺は重くない。重くないけれど、仕事をしている。

 ふと、空が明るんだ。雲の切れ間が大きくなり、町の屋根が一斉に光る。

 止まり木のほうから小さな羽音。鳥は戻らない。戻らないと分かっているのに、耳は探す。探して、見つからなくて、冗談みたいに安堵する。戻らないほうが、今日は正しい。


 坂を上り切る。

 見晴らしが開ける。町の全体が、掌の上に乗るほど小さく見えた。

 列は相変わらず美しい。悲しまない。悲しまないぶん、形が整い、整った形が遠目にも頼もしい。台車の黒は薄い光を吸い、制服の色褪せは朝の色とよく馴染む。

 凪人は、胸の中で最後にもう一度だけ名前を確認した。

 なぎと。

 りょう。

 かあさん。

 そして、空白。空白は今日も席を空けて、静かにそこに座っている。


 「行ってくる」


 誰に向けたわけでもない。

 空へ。地面へ。自分へ。

 声は、坂の向こうへ飛び、戻らなかった。戻らないなら、前だけが残る。

 凪人は歩き出す。

 泣きながら、笑わずに。

 笑わないことで、遼の笑顔の形を、正確に覚えておくために。あの片方だけ先に上がる口角を、目尻の皺を、肩の小さな浮きを、忘れずに持っていくために。

 足音は前へ。

 背中の熱は、輪のまま。

 写真は胸で軽く呼吸し、折り目はほどけない。

 空は鳴らない鐘の余韻で満ちたまま、町をやさしく押す。

 押された町は、背伸びをし、列は振り返らない。

 振り返らないから、凪人は、心の中でだけ何度でも振り返る。

 遼、母さん、凪人。

 呼びながら、葬列の外で、歩く。

 終わらない葬列を、背に置いて。

 道は、一本ではない。

 決まっていないという事実が、今日だけは確かに生きていることの証明で、胸の奥の針はそれを知っている。

 針は、ゆっくりと、しかし確かに、次の目盛りへ進んだ。

 朝は正確で、世界は静かで、凪人の歩幅は、今にぴったり合っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ