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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第十九話 写真の裏

 朝の光が薄かった。

 うすいのに、いつもより芯がある。冷たい水を薄く張ったグラスに指をあてたときの、かすかな抵抗に似ていた。窓枠の影は畳の上で斜めにのび、秒針は相変わらず動かない。けれど、胸の中のどこかで、目に見えない針が音もなく一回、二回と動いた気がした。


 机の引き出しから、二つ折りの写真を取り出す。

 ずっと胸ポケットに入れていたせいで、角がやわらかく丸くなり、折り目には汗の塩が細い白い線を描いている。深呼吸を一度してから、折り目に爪を滑らせて、写真を開く。

 表には、いつも見慣れた景色。葬列の最後尾に立つ自分。灰色の空、黒い布の台車、色の抜けた制服、同じ歩幅で続く靴音。最後尾の“凪人”は、まっすぐ前を見ているようで、実際はほんの少しだけ横を見ている。探している顔だ。誰かを。


 裏返す。

 そこにあるはずの逆さ文字は、もう読めなかった。

 黒いインクは汗で滲み、文字の骨組みを失くして、ただの黒い染みへ変わっていた。以前確かに読めた「お前が見られている」の矢印は、黒い霧みたいな形に崩れ、指し示していた先を失っている。

 見えないことが、こんなに静かなことだと、初めて知った。

 凪人は息をはき、写真をまた表へ返す。すると、隣に影が落ちた。青年が、そこに立っていた。


 「それでも、表は残る」


 青年は言い、凪人の手の甲に自分の指をそっと重ね、写真の表をなぞった。

 紙の上をすべる指の温度が、折り目の塩を溶かし、微かなざらつきが消える。

 「裏が読めなくなっても、表のほうは、まだ手触りがある」

 「……裏の言葉を頼りにしてた」

 凪人がつぶやくと、青年はうなずきも否定もしないで、もういちど折り目をなぞった。

 指先が止まる位置。そこに写っているのは、最後尾の“凪人”の目だ。わずかに、横へ。

 誰かを探す目。

 誰か——遼だ。


 「ああ」


 声が喉から勝手に出た。

 「俺が追いつきたくなかったのは、死にじゃなかった。遼のいない順番に、だ」

 口に出して、やっと形が見えた。

 追いつきたくない、と何度も願ってきた相手は、未来の自分の背中じゃなかった。あの灰色のコートでも、止まった鐘の音でもない。遼のいない朝、遼のいない列、遼のいない最後尾——その順番だ。

 青年は目を伏せて、すぐに上げた。

 うなずいた。

 それだけで、胸の奥の針がまた一回、動いた。


 「役目は、ここまでだ」


 青年はまっすぐ言った。

 「俺の役目、というより、ここで“未来の自分”に与えられた役目は」

 「解放される?」

 「解放されるか、もっと深く組み込まれるか。見た目は違っても、結果は同じだ」

 「同じ」

 「お前の歩幅に、俺の歩幅が混ざる。それだけ」

 青年は、微かに笑った。

 「それは、お前が心配していた“追いつく”とは違う。追いつくんじゃなく、混ざる。混ざると、どっちの線か、外側からは見分けがつかなくなる」

 「内側からは?」

「内側からは、ちゃんと分かる」


 凪人は写真を胸に当て、呼吸のリズムを整えた。

 遼のいない順番にしたくない。

 その願いは、祈りというより、やり方だ。

 朝の影を踏まない歩き方、名前を呼ぶ順番、手のひらの熱の置き方、止まり木への刻み方。遼のいない順番にしないためのやり方は、すでにいくつも手の内にある。遼が残した“いい昨日”の形を借りれば、今日を少しだけ遠くへ運べる。


 「行ってこい」


 青年は言った。

 声は低く、掠れているのに、よく届く。

 「お前の家へ。戻れ、じゃない。行け」

 凪人はうなずき、写真を慎重に折りたたんだ。二つ折りの角が指に当たる。角が丸くなっているせいで、痛くない。痛くないけれど、存在ははっきり分かる。

 見えなくなった裏の代わりに、今は表の指先が道案内だ。胸ポケットへ滑らせ、制服の上からそっと押さえる。押さえた場所が、心臓の鼓動と一回だけ重なった。


 廊下に出る。

 家の空気は、昨日より少しだけあたたかかった。火をつけていない台所のコンロから、熱ではない“温度の予感”が薄く漂い、やかんの取っ手は冷たいのに、触ると手の中が落ち着く。

 母の部屋の前で立ち止まる。

 ドアは閉じている。ドアノブの金属の表面に、朝の光が細い輪を作っていた。白い輪とは違う、熱の輪。遼が残していったあの輪に似ているけれど、これは冷えない。

 指先で、二回、軽くノックする。

 音は小さいのに、家全体が耳を傾けるように、静かになる。


 「母さん」


 声に出すと、喉が震えた。

 昨日の形でも、未来形でもない。今の形だ。

 ドアを開ける。

 母は椅子に座り、目を閉じている。頬の影は深くない。睫毛は静かで、でも、すぐに分かる。そこに温度があること。

 胸の中で、写真の角を軽く押す。

 「ただいま」

 言えた。

 ちゃんと、今の言い方で。


 母の睫毛が、ごく短く震えた。

 やがて、ゆっくり開く。

 目が合う。

 世界が少しだけ、きちんとした。

 母は、笑った。静かな笑い。何かを確かめる必要のない人の笑いだ。

 「おかえり」

 凪人はうなずき、椅子の背に手を添える。

 台所へ行く。

 やかんに水を入れ、コンロのつまみを回す。これまでは固着して動かなかったつまみが、今日はカチリと回った。火がつく音はしない。それでも、底へ伝わる熱の気配だけはある。

 湯のみを二つ、テーブルに置く。

 湯気が立つ。

 細く、まっすぐ。

 止まっていた湯気ではない。

 かすかに揺れ、すぐ戻る。戻るたびに、今日の形を作る。


 母は湯のみには触れず、凪人の頬に手を伸ばした。

 手の温度は、昨日と今日の間にある。指の腹が肌に触れる瞬間、胸の写真がほんの少しだけ弾む。

 「列は、どう」

 母が問う。

 「相変わらず、悲しまない」

 凪人は答える。

 「だから、俺が泣く。泣くぶん、列は形を守る」

 母はうなずき、笑った。

 「泣けるうちは、まだ若い」

 「若いのかな」

 「若い」

 それ以上、母は何も言わない。言わない沈黙は、叱る沈黙と違う。何かを託すための沈黙だ。


 写真を取り出し、テーブルの上でまた開いた。

 表の“最後尾の凪人”を母に見せる。

 母は目を細め、写真の中の影の向きと、窓の外の影の向きを見比べた。

「探してる顔」

 母が言う。

 「誰を」

 「遼を」

 凪人が答えると、母は口元だけで「そう」と言い、湯気に視線を戻した。

 「写真って、不思議ね」

 「どうして」

 「写ってるのは過去なのに、今を整える。裏が読めなくなっても、手触りは残る」

 母の言葉は、青年の言葉とよく似ていた。

 誰かの背中に重ねた掌の熱は似るのだろう。似た熱は、似た言葉を選ぶ。


 そこへ、玄関の方から靴音がした。

 止まった世界で、靴音は珍しい。遼のものではない。青年のものでもない。

 ゆっくり、廊下を通ってくる。

 現れたのは、青年だった。灰色のコートの裾を揺らすことなく、部屋の前で立ち止まる。

 「母上」

 青年は、ごく自然に頭を下げた。母は立ち上がりもせず、軽く会釈を返す。

 「あなたの役目は?」

 母の問いに、青年は一拍置いた。

 「この家の玄関を、外から閉めること」

 母はそれを聞いて、やっと大きくうなずいた。

 「お願いするわね」

 「はい」


 青年は、凪人に視線を移す。

 「写真を持って行け」

 「どこへ」

 「学校へ」

 「学校」

 凪人は反射的に繰り返した。

 「教室の窓は、ずっと半開きだ。止まり木から見える角度のままだ。そこに、この写真を置いてこい。表を上にして。裏は、もう読めないから」

 「置いたら、どうなる」

 「何も」

 青年は笑った。

 「たぶん、何も起きない。何も起きないけれど、置かれた“今”は、明日の地図に印を付ける。印があれば、遼のいない順番に迷いにくい」


 母は湯のみを持ち上げ、凪人のほうへ差し出した。

 「行っといで」

 短い言葉に、長い意味があった。

 凪人はうなずき、写真を胸へ戻し、靴を履いた。

 玄関の引き戸を開ける。

 いつもより、音が小さい。

 外の光は薄いが、空気はやわらかい。朝のままの町の、やわらかさだ。


 通りに出ると、列が見えた。

 黒い布の台車、色の抜けた制服、位牌。

 遼の立っていた場所は、空白のままだ。空白なのに、まるで誰かが濃い影を落としているみたいに見えた。その影は冷たくない。冷たくない影を見て、凪人は胸の中で遼の名を一度だけ呼んだ。

 返事は来ない。

 来ないけれど、輪郭はそこにある。

 足は迷わない。


 学校の門は、半分だけ開いていた。

 校舎の階段を上り、廊下の端を曲がる。掲示板の日付は止まったまま。けれど、紙の端はすこし剥がれかけ、画鋲の頭にほこりが集まって、白い小さな島を作っている。

 教室の前で立ち止まり、ドアを開ける。

 誰もいない。

 椅子は半分だけ引かれたまま。黒板の文字は薄く、チョークの粉が光りの中で凍っている。

 窓へ歩く。

 半開きの窓から、止まり木が見える。

 根元の刻みに“なぎと”の正面の字。昨日刻んだ“りょう”の浅い線。

 窓枠に写真を置いた。

 表を上にして、折り目が戻らないように平らに伸ばす。

 “最後尾の凪人”が、教室の空気の中で、こちらを見た。

 探している顔が、いまははっきり分かる。遼だ。

 その視線の先に、自分の立っている場所が重なる。

 遼のいない順番を、遼の名前で埋める。

 それが、今日のやり方だ。


 ふと、背後で音がした。

 振り返ると、青年が教室の入口に立っていた。

 「置いたな」

 「置いた」

 「それでいい」

 青年は教卓の脇へ寄り、黒板消しを手にとってから、また戻した。

 「何もしないことを、決めるのも練習だ」

 「分かってきた」

 凪人は窓の外を見た。止まり木の上で、鳩が一羽、首を動かし、止まらなかった。

 「行こう」

 「どこへ」

 「時計塔だ」


 二人で廊下を歩き、階段を降りる。

 外へ出ると、通りの影はさっきより濃く、しかし踏まれにくい。影と影の間にある白い線は、まだ滑りやすいが、靴底はもう、滑り方を知っている。

 時計塔の下へ着く。

 凪人は首を上げ、止まった長針と短針を見つめた。

 最後の朝の時刻。

 ずっとそこに留められていた数字。

 「越えていい」

 青年が言った。

 「越えるのは、お前だ」

 「どうやって」

 「名前で」

 青年は、凪人の右手を取り、掌へ指で“なぎと”と書いた。

 汗でにじむより速く、熱が沈む。

 「もう一度」

 今度は、凪人が自分で書いた。

 なぎと。

 それから、左の掌に“りょう”。

 そして、胸の中で“かあさん”。

 最後に、まだ声にできない名前のための小さな空白。

 空白の縁取りを、指でなぞる。


 「なぎと」


 青年が呼ぶ。

 「言ってみろ」

 凪人は時計を見たまま、小さくうなずいた。

 「越える」

 言葉は軽く、でも折れない。

 その瞬間、遠くで鐘が鳴った。

 三秒ではない。

 連続の、短い間隔の鐘。

 カチ、カチ、カチ——ではなく、音のない世界に、音の形だけが刻まれる。

 時計塔の針が、動いた。

 止まっていた“最後の朝”の印を、ひと目盛り、越えた。

 越えただけで止まらない。二目盛り、三目盛り。遅れていた分を取り戻すのではなく、新しく始めるための動き方だ。

 町がわずかに震え、止まり木の葉が表と裏を一度だけ返し、空の鳩は止まらなかった。


 「やったな」


 青年が言い、少し笑った。

 「俺の役目は、ここまで」

 「この先は?」

 「混ざる」

 青年は胸に手を当て、もう一方の手で凪人の肩を軽く叩いた。

 「背伸びろ。歩くときは、影を踏むな。踏ませるな。踏まれるな。泣くときは、いま泣け。名前は、惜しまず使え」

 「分かった」

 「最後に、ひとつ」

 青年は、小さくいたずらっぽい顔をした。

 「明日を言え」

 「……明日」

 凪人は、ゆっくり口に乗せた。

 喉が、もう裂けなかった。

 「言えた」

 「ああ」


 青年はうなずき、時計塔に背を向けた。

 灰色のコートの裾が、風もないのにふわりと浮く。

 影は刃のように地面へ貼りついたまま、やがて薄く、薄く、地面の線の一本へ溶けていった。

 混ざる、というのは、こういうことだと分かった。

 消えない。

 消えないけれど、もう“見張り役”ではない。

 見張りの影が、歩く影に変わる。

 歩く影の先で、歩幅が決まる。


 帰り道、凪人は商店街の角で立ち止まった。

 シャッターの落書きの顔が、今日は笑って見えた。泣き笑いではなく、本当に笑っている。遼が見たら、きっと「バカだな」と笑い返す顔だ。

 胸のポケットから写真を取り出す。

 窓枠に置いてきたはずの写真が、なぜか手の中にある。

 表は、さっきのまま。

 裏を返す。

 黒い染み。

 でも、その中央に、ほんの細い線が立っていた。

 矢印の尾のような、線。

 どこを指しているのかは、分からない。

 分からないままで、いいと思った。

 矢印の先が誰かの名前であれば、それで十分だ。

 凪人は、裏の黒い染みに、自分の指で小さく“なぎと”と書いた。

 汗が早く滲み、線はすぐにぼやけたが、書いたという事実は残る。

 次に、“りょう”。

 その下に、“かあさん”。

 そして、空白。

 空白の周りを人差し指で一周なぞる。

 見えない縁取りができる。

 縁取りは、風に流されにくい。


 家に戻ると、母は湯のみを手に、窓の外を眺めていた。

 「ただいま」

 「おかえり」

 短いやりとりが、今日の柱になった。

 テーブルに写真を置く。

 表を上にして。

 母はそれを見て、穏やかに笑い、何も言わない。言わないことが、正しい。

 湯気はまっすぐ立ち、窓のガラスに薄い曇りがつく。

 母は指で曇りに丸を描き、すぐに消した。

 その仕草を見届けてから、凪人は胸のノートを開く。

 “なぎと”“りょう”“かあさん”。

 ページの下の空白に、今日の日付を書いた。

 止まっていた日付ではない。

 越えた時刻の先にある日付だ。

 指が少し震えた。震えた線は、まっすぐではない。

 でも、読める。

 読めるなら、十分だ。


 夕方の手前で、止まり木の上の鳩が一斉に羽を打ち、止まらなかった。

 空は軋まない。

 町は背伸びをし、列は悲しまない。

 だから、凪人は笑う。

 泣いた分と同じくらい、笑う。

 笑う顔を、写真の表の“最後尾の凪人”が、少しだけ真似する。

 真似でいい。

 真似しているあいだは、生きている。


 夜、写真の雨は降らなかった。

 代わりに、窓の外に薄い星が出た。

 凪人は布団に入り、胸の写真を開き、また閉じた。

 裏は読めない。

 読めない裏は、もう怖くない。

 表の手触りを確かめ、折り目を指でなぞる。

 折り目は、今日と昨日の継ぎ目だ。

 継ぎ目があることで、ページはめくれる。

 めくれることで、次が来る。


 明日。

 口に出してみる。

 言えた。

 言えた音が、部屋の隅で小さく跳ね、消えずに残った。

 眠りに落ちる直前、凪人はもう一度、名前を確認する。

 なぎと。

 りょう。

 かあさん。

 そして、空白。

 空白は今日も、静かにそこに座っている。

 その空白が、明日の席になる。

 席があるなら、迷わない。

 迷わないなら、歩ける。

 歩けるなら、越えられる。

 越えられるなら、遼のいない順番にしないためのやり方を、またひとつ増やせる。


 胸の中の時計が、見えない針で一回、二回、ゆっくり刻んだ。

 外の時計は、さっき越えた時刻の先で、静かに止まっている。

 止まっているのに、怖くない。

 止まっているぶんだけ、胸の針が仕事をする。

 三歩で一秒。

 五歩で二秒。

 七歩で、知らない長さ。

 知らない長さに、名前をつける練習を続ける。

 その練習のために、写真の裏は読めなくなったのだと、今は少しだけ分かる。


 目を閉じる。

 眠りの手前で、遠くの川のほうから、薄い風が入ってきた。

 風は窓の曇りをそっと撫で、机の上のノートを一枚だけめくりかけ、やめた。

 やめるという優しさに、ありがとう、と心の中で言う。

 昨日の言葉で。

 でも、明日のために。

 写真は胸の上で軽く呼吸し、折り目はほどけず、表の手触りは残った。

 そのまま、凪人は静かに眠りに落ちた。

 遼のいない順番にしないためのやり方を、夢の中でもう一度練習するために。

 夢の中の列は悲しまない。

 だから、凪人はそこでだけ、思い切り泣いた。

 泣いて、笑って、目を開けたとき。

 時計は、もう“最後の朝”の時刻を越えた先で、静かに、次の目盛りを待っていた。

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