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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第十八話 別離

 代償の日は、朝の匂いから違っていた。

 水気が濃いのに、雨の気配はない。川が町の中まで歩いてくるみたいに、路地の端や石段の段差に、見えないさざ波がかかっている。止まり木の上では鳥がじっとこちらを見下ろし、鳩の群れは高い空でゆるい円を描いたまま、止まりもせず、でも速くもならず、ためらいの速度で回り続けていた。


 凪人は、遼の家の前に立っていた。

 玄関の引き戸は半分だけ開いていて、内側の薄闇に線香の煙が横向きに凪いでいる。昨日から動いていない廊下の空気のはずなのに、煙だけが、誰かの呼吸に合わせるみたいに腰を折った。

 遼が出てきた。

 シャツの襟もとに白い輪の痕が見える。前は肩のあたりで渦を巻いていたそれが、今は胸骨の上でゆっくりと集まり、薄い光の円になって、皮膚の内側へ沈もうとしていた。


 「なぎと」


 遼はいつもの声音で呼んだ。

 笑っている。笑っているのに、笑いの輪郭が水で縁取りされている。濡れて乾きかけの紙のように、強く触れれば破けてしまいそうな、危うい強度。

 凪人は一歩近づいて、言葉より先に腕を回した。

 抱きしめる。

 体温は、まだ人の温度だった。けれど、内側から冷たいものが少しずつ浮いてきて、肌のすぐ下で鈍い光の粒になり、それが呼吸に合わせて胸の右から左へ、左から右へと移動していた。


 「遼」


 名前を呼ぶ。

 呼んで、もう一度呼ぶ。

 名前は輪郭を守る呪文だ。呼ぶたびに、遼の肩の線がはっきりする。白い輪が胸へ達していても、名の音は彼をこちら側に引き留める。

 「遼、遼、遼」

 呪文のように、何度も。

 遼はおかしくなって、肩を揺らした。

 「やめろ、くすぐったい」

 「やめない」

 「じゃあ、せめて間を空けろ。三回に一回は俺が“なぎと”って返す」

 「分かった。……遼」

 「なぎと」

 「遼」

 「なぎと」

 二往復の間に、玄関の奥からおばさん——遼の母が、そっと廊下へ出てきた。目は凪人をとらえているけれど、言葉は持ってこない。ただ、手を合わせ、小さく頭を下げる。それだけで、許しと預けるの両方を渡してくる。凪人は深く礼を返した。


 通りへ出ると、町はもう列の準備をすっかり終えていた。

 黒い布で覆われた台車。色あせた制服。誰のものでもない位牌。止まった時計塔の針は、昨夜から一度も動いていないのに、影だけが角度を変え、舗道の割れ目を伸びたり縮めたりしている。

 青年が、少し離れた場所にいた。

 灰色のコートの裾は風がないのにふわりと浮き、影は刃のように地面へ貼りつく。遼と凪人が肩を寄せた姿を見て、青年は短く頭を下げた。言葉はない。会釈だけが、今日の朝に置いてよい音の代わりだった。


 列が動き出す——ように見えて、動かない。動かないまま、空気だけが前へ押される。押された空気が前列の背中を撫で、撫でられた背中の筋肉が記憶の位置に収まる。順番が整った合図だ。

 遼はいつもの位置へ向かいかけて、ふと立ち止まった。

 「今日は、ちょっとだけ真ん中へ寄る」

 「最後尾じゃないのか」

 「最後尾は好きだ。でも、今日は、なぎとの歩幅の横に立つ」


 凪人はうなずく。

 二人で列の中央へ入る。青年は一番後ろ、継ぎ目に立ち、わずかに顎を引いた。

 歩き出す瞬間、遼は凪人の手を取った。掌の中央に、指で“遼”と書く。汗で滑らないように一画ずつ丁寧に。重ねて“沙織”と書いた。

 手のひらが熱い。

 字の熱はすぐに皮膚の下へ降りて、血よりもゆっくりした速度で脈を打つ。二つの名が重なると、熱は倍ではなく、別の種類に変わる。焼ける熱ではなく、灯りの熱。消さないように手を少し丸めると、指の影が自分の骨の形を映した。


 「順番を変えたなら、俺の昨日は、いい昨日になる」


 遼がゆっくり言った。

 「俺のままで終わるんじゃなくて、誰かの昨日に混ざって、ちょっとだけ役に立つ昨日。——お前の明日は、俺の昨日より、少しだけ遠くへ行け」

 凪人は喉の奥に硬いものがつかえるのを感じた。昨日の言葉でしか言えないはずなのに、今だけは、現在の形で出てきそうな音が混ざる。

 「ありが——」

 言いかけて、言葉は昨日へ倒れた。

 「ありがとう、って言っていた」

 遼は笑って、首を振った。

「それでいい。昨日の言葉で“今”を言うの、俺は好きだ」


 白い輪は、胸の真ん中で小さく渦巻きはじめていた。

 渦の中心には温度がなかった。熱でも冷たさでもない“間”が、ゆっくりと広がる。皮膚の上からは触れない空白。そこに風が留まり、留まった風が薄い音を立てる。その音は、川辺で耳を塞いだときに骨を伝って聞こえてくる音とよく似ていた。


 列は、悲しまない。

 それが今日いちばん明確だった。

 誰も顔を歪めない。誰も目を赤くしない。誰も手を伸ばさない。列はいつだって、誰かの悲しみを前提に整列している。だから、悲しまない。悲しまないことで、形を守る。

 守られた形の中で、凪人が泣いた。

 ぽたり、と胸の内側へ落ちる涙は、“未来形でも過去形でもなく、ただの現在”だった。落ちるたびに、胸の写真が小さく呼吸し、ポケット布の内側に塩の形の花が咲く。咲いて、消える。


 「なぎと」


 遼が名を呼ぶ。

 「やめて泣けって言わない。泣くのをやめろとも言わない。俺はただ、今のお前が好きだって言うだけだ」

 凪人は嗚咽の合間に顔を上げる。

 「遼」

 「聞いてる」

 「……怖い」

 「怖いよ」

 遼は即答した。

 「でも、怖いの分、名前を呼べる。呼んでるあいだは、輪郭がある。輪郭があるあいだは、俺はここにいる」


 青年が、列の最後尾で軽く頭を下げる。

 その仕草に、ささやかな礼と、ここからはお前たちの時間だ、という譲りが混ざっていた。

 凪人はその譲りを受け取り、遼の肩に額を寄せた。

 「遼……」

 「なぎと」

 呼び合いは、やがて呼吸になった。

 呼吸は、やがてリズムになった。

 リズムは、やがて歩幅になった。

 歩幅は、やがて時刻になった。

 止まっていた時計塔の針が、誰にも見られない一瞬だけ、わずかに揺れた気がした。揺れただけで動かない。けれど、揺れがあると、町の骨がそれに合わせてゆるむ。


 河岸へ出た。

 沙織が消えた場所。昼でも影が濃い曲がり角の下で、遼は靴を脱いだ。裸足になって、水際の砂利へ足を入れる。白い輪の痕が、水面から来る冷たさとゆっくり重なり、胸の中心で“温度のない温度”へ変わる。

 凪人はその腕をつかんだ。

 「行くな」

 「行かない」

 遼は静かに首を振った。

 「でも、一部は行く。行って、戻らない。そういう日がある。今日は、そういう日だ」

 「なら、俺も一部を置いてく」

 「置くな」

 遼は笑って、凪人の手首を軽く叩いた。

 「お前のは、連れてけ。俺の昨日のぶんまで、重くして、落ちにくくして、持ってけ」


 凪人は、胸のノートを取り出した。

 “なぎと”“りょう”“かあさん”——いつもの順に並ぶ名前。

 その下に、ゆっくりと“さおり”と書いた。

 遼の肩が小さく震える。

 「ありがとう」

 「言っていた」

 凪人は昨日の形で返す。

 「ありがとうって、昨日からずっと思っていた」

 「知ってた」

 遼は、笑うときに片方の口角が先に上がる癖のまま、凪人の掌を取った。自分の指で“遼”を書き、重ねて“沙織”を書いた。二つの文字は、さっきよりさらに熱く、掌の中心で重なった。


 川風が吹く。

 風は、遼の輪郭の中でいちど止まり、止まった場所が音のない音で満たされる。

 光でも影でもない“間”が、そこに生まれた。

 遼の体を通り抜けるのではなく、遼の体がその“間”に変わっていく。

 輪郭はあるのに、重さがない。

 声は届くのに、反響しない。

 手を伸ばせば触れられるのに、触れた指が押し返されもしなければ、沈みもしない。


 「なぎと」


 遼の声は、遠くも近くもない位置から来た。

 「順番を変えられるって知った朝から、俺はずっとさ、これでいいのかって思ってた。でも、今日の俺は、ちゃんと“いい昨日”へ行ける。お前がいるから」

 「俺がいるから?」

 「そう。お前が俺の名前を呼ぶから。名前は輪郭だ。輪郭は、ここにいていいって証拠だ。だから、俺は“間”になっても、しばらくはここにいる。消えるんじゃない。外れるだけだ」

 「列から」

 「そう。列から外れる。列は悲しまない。俺も、列に悲しまれたくない」


 凪人の胸の奥で、何かが割れた。

 涙は止められない。

 零れたそばから、今になり、今になったそばから胸の写真を濡らす。濡れた紙は丸くなり、ポケットの内側に柔らかな皺を増やす。

 「遼」

 呼ぶ。

 「なぎと」

 返ってくる。

 「遼」

 「なぎと」

 最後の往復は、声にならなかった。

 口の形だけが“りょう”を描き、遼の口の形だけが“なぎと”を描いた。

 その形のまま、遼の輪郭が薄れた。

 砂の表面で、風が一度だけ反転する。

 青年が遠くから、短く頭を下げた。

 “間”になった遼は、その礼にうなずいたように見えた。


 葬列は、悲しまない。

 台車が軋む音も、位牌が触れ合う小さな木の声も、いつものままだ。

 列は、遼が外れた場所を正確に埋める。埋めながら、誰の歩幅も乱さない。乱さないことで、遼の輪郭の余韻は、しばらく川風に混ざって漂い、町の端まで届く。

 凪人は、その漂いを胸で受け止め、鼻で受け止め、掌で受け止めた。

 熱はまだ皮膚の下にあり、掌を閉じると灯りが灯る。開くと、灯りは薄く残る。


 「……遼」


 名前は、呪文だ。

 呪文を、凪人はやめない。

 やめないでいるあいだ、遼は“間”の形で、ここにいる。

 青年が列の継ぎ目から出てきて、凪人の肩にそっと手を置いた。

 「戻るか」

 「戻らない」

 喉がもう、以前ほどはひっかからない。

 「俺は、行く。遼の“いい昨日”の先へ。……少しだけ、遠くへ」

 青年は、わずかに目を細めて笑った。

 「それでいい」


 そのとき、止まり木のほうから、羽音がした。

 鳥が一羽、ゆっくり枝を離れ、空へ溶けていく。

 今日は、止まらない。

 止まらないでいてくれることが、凪人の涙をようやく落ち着かせた。

 川面が薄く光り、風は町の通りを一本ずつ撫で、学校のグラウンドの白線をかすかにずらす。ズレはすぐ戻る。戻るけれど、戻った白線は、さっきよりわずかに強い色をしていた。


 家に戻る前に、凪人は止まり木へ寄った。

 幹の白い肌には、逆順の刻み傷の間に“なぎと”の正面の字が残っている。

 その下に、凪人は小さく“りょう”と刻んだ。深くは掘らない。浅い刻みで十分だ。浅い傷は、木が成長するときに皮膚といっしょに広がり、形を変えて定着する。

 刃を引くと、木屑が風に乗らず、まっすぐ落ちた。落ちた破片を指で集めて掌にのせる。掌はもう熱くない。けれど、冷たくもない。


 家へ帰ると、母は椅子で目を閉じていた。

 いつかの三度目のまばたきのあとから、長いまばたきを続けている顔。凪人は台所へ行き、湯のみを二つ用意した。お湯は沸かない。沸かないけれど、湯気の前ぶれの匂いだけが、鼻の奥に薄く広がる。

 「ただいま」

 凪人は言った。

 昨日の形で。

 「ただいま、と言っていた」

 母の睫毛が、わずかに震える。

 わずかな震えが、今日の証拠だった。

 凪人は椅子の向かいに座り、胸のノートを開いた。

 “なぎと”“りょう”“かあさん”“さおり”。

 名前は輪郭だ。輪郭は守るためにある。守ることは開くためにある。開くことは進むためにある。

 今日、凪人は、進んだ。

 たった半歩でも。

 半歩のぶん、時計は胸の中で確かに進み、外の時計が揺れただけの日よりも、ずっと静かに、はっきりと、今を刻んだ。


 夜、写真の雨は降らなかった。

 代わりに、空が低くなり、星が近づいた気がした。

 凪人は布団に横になり、胸の写真を取り出す。裏の逆さ文字は、汗の塩で少し滲んでいる。

 お前が見られている。

 矢印の先に、凪人は自分の名をまた書いた。

 なぎと。

 指で撫で、矢印の線を薄くし、名のほうを濃くする。

 「見られているから、落ちない」

 遼が言った言葉を、今度は凪人が声に出す。

 その声の終わりに、遠くの川から薄い風が入ってきた。

 風は窓枠を撫で、机の上のノートをめくりかけ、やめた。

 やめるという選択が、今日の終わりだった。

 やめることで守れるものがある。

 守ったぶんだけ、明日の余白は薄く広がる。

 凪人は目を閉じた。

 涙はもう、未来形でも過去形でもない。

 ただの現在の温度で、枕に小さな円を描いた。

 円はひとつ。

 白い輪ではない。

 熱の輪。

 その輪の真ん中に、遼の笑いが静かに座っていた。


 翌朝のため息が、もう部屋の隅に待っている。けれど、それに気づくのは明日でいい。

 今日の終わりに必要なのは、名前の確認と、掌の熱の痕と、薄い川風の記憶だけだ。

 列は明日も整列するだろう。悲しまないだろう。

 だから、凪人は泣く。

 今、泣く。

 泣いてから眠り、眠ってから、明日を呼ぶ。

 呼ぶ声は、きっともう昨日の形ではなく、現在の形の近くにある。

 それは遼が残した“いい昨日”の続きであり、凪人が選ぶ“少し遠くの明日”への橋でもある。

 橋は細い。

 でも、落ちにくい。

 落ちにくいものを、増やし続ける。

 それが、別離の次に来る朝のための練習だ。

 練習は、朝のあいだ続く。

 朝は、遼の分まで、少しだけ長く伸びる。

 伸びたぶん、呼吸がしやすい。

 呼吸がしやすいぶん、名前が呼びやすい。

 凪人は、もう一度、小さく呼んだ。

 「遼」

 返事はしばらく来ない。

 来ないのに、輪郭はそこにある。

 そのことが、眠りに落ちるための一番やさしい重さになった。

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