第十七話 離陸
その瞬間を境に、世界の音が裏返った。
止まり木の一番高い枝にいた鳥が、ためらいも見せず翼を広げ、空へ切り込む。動かなかった時間の皮膜が、尖った羽先に裂かれ、薄い悲鳴のような軋みが天に走った。列の足音は消え、代わりに、誰の胸にも入らなかった息が一斉に押し出される。深呼吸の逆。吸う前に吐いてしまった空気の重さが、町の表面にのしかかり、看板も電柱も、ほんのすこしだけ背を縮める。
凪人は、鳥を目で追った。
筋肉の束が空を掴むたび、羽の裏に薄い影が生まれ、すぐに消える。消える速さが、今までのどの現象とも違う。止まっていた世界に、速いものが戻ってきている。速さは、順番の敵だ。列が守っていたのは、つまり、速さからの避難所だったのかもしれない。
青年は、目を閉じた。
まぶたの裏で、たぶん別の空を見ている。見たものを口に出せば、すぐに終わりになるような、脆い空。
遼は笑っていた。
肩の白い輪の痕が、川の気配を抱いたまま細く輝く。
「行け」
それが誰の声だったのか、もう分からない。青年の声にも、遼の声にも、凪人自身の内側にも、同じ言葉が同時に灯っていた。
凪人は、一歩、列から外へ踏み出した。
世界は、抵抗しなかった。
代わりに、足の裏から昨日が静かに流れ出した。砂浜に立ったとき、波の引きに足をさらわれる感覚に似ている。引かれていくのは砂ではなく、自分の重さの記憶だった。昨日の笑い、昨日の躊躇、昨日の「また明日」。どれも少しずつ軽くなって、骨の中を通り抜け、空へ薄く散っていく。
軽くなるのは気持ちいい。気持ちいいのに、その快さが怖い。軽いものは落ちにくい。落ちにくいものは、ここでは大切なのに。落ちにくさを捨てる行為は、ここでは裏切りに近い。
凪人は、もう一度、列へ戻ろうとした。
戻るべき場所は、さっき自分が空けた空白の形に変わっていた。空白は待っていてくれるのではなく、自分の抜けた輪郭を正確になぞって、別の席に名前を変える。青年が、その空白に静かに収まっていた。灰色のコートの裾が、そこにあったはずの凪人の気配を包むように揺れる。
目が合う。
青年の目は、すっかり凪人だった。違いは、目の奥にある浅い諦め。その諦めに手を伸ばしたら、指先が凍えて落ちそうになる。
「戻るか」
青年の唇が、音のない問いの形を作る。
凪人は首を振った。喉の奥で、昨日の言葉が短く割れ、欠片が未来形に跳ねる。
「戻らない」
自分の声が、自分で思うより落ち着いていた。
時計が、動いた。
止まるのではなく、連続して針が進む。秒針が、追い立てられるように六度、七度、八度。途切れずに進むたび、町が震える。地面の下で、古い配管の水がわずかに跳ね、シャッターの油がなくなった部分が、金属同士の擦れで悲鳴を上げる。止まり木の葉が、表と裏を忙しく返し、空は泣き出す寸前の子どもの目みたいに、潤んで見えた。
世界は、決まった終わりから解放される代わりに、決まっていなかった別の終わりを手に入れた。選択の結果ではなく、選択したという事実そのものが、終わりの種類を増やす。増えたぶん、どこかが近づいてくる。
「なぎと」
遼が呼んだ。最後尾から、一歩出てきて、列と凪人の間の空気を両手で押し分けるみたいにして、割って入る。
「戻る場所が違うなら、戻り方も変えればいい。列に戻るんじゃなくて、俺らのほうに戻ってこい」
凪人は足を止めた。
「俺らのほう」
「そう。最後尾と中央と継ぎ目。場所の名前じゃない。やることの名前だ」
遼は笑って、掌を見せた。汗に滲んだ“遼”の字。薄い線は皮膚の下に吸い込まれ、もう消えない痕になりかけている。
「お前が外へ踏み出すなら、俺は後ろから押す。青年は横で支える。押し過ぎたら怒れ。支えが強すぎたら叱れ。真似でも本物でも、声は本番だ」
凪人は息を吸った。
空気が少し重い。重い空気は、肺の内側を拡げる時、肋骨を丁寧に撫でていく。撫でられた骨は、自分の長さを思い出す。思い出した長さの分だけ、立ち方が整う。
「行く」
言うと同時に、足が動いた。列の外を、止まり木の方へ斜めに。舗道の白線と影の境目を選んで進む。影を踏めば昨日が壊れる。白線を踏めば今日が滑る。境目は、怖いのに、歩きやすい。
町の風景が、少し違って見えた。
商店街のシャッターの落書きは、誰が描いたのか分からない顔。これまで凪人は、その顔が笑っているのか泣いているのか判断できなかった。今は分かる。泣き笑いだ。泣き笑いの輪郭を描いた手の震えが、スプレーの霧のむこうでまだ残っている。
学校の窓には、止まったままのカーテンが、風の代わりに時間の沈黙を受けて、布の折り目を濃くする。教室の中では、椅子が半分だけ引かれたまま、誰かを待っている。待っているという行為自体が、椅子の脚の形を少し変えてしまっている。
止まり木の根元の刻み傷は、さっきのまま、浅く光っていた。鏡文字ではない、正面の“なぎと”。そこにあるだけで、町の地図の中心に印がついたみたいに、視界の重心が安定する。
「なぎと」
青年が呼んだ。今度は音が出ていた。
「覚えておけ。飛ぶのは、順番の否定だ。列は、終わらせるための列だ。否定するなら、終わりの代わりを背負うことになる」
「代わり」
「決まっていなかった別の終わり。誰かが見たがっていない終わりのほうだ」
青年は、止まり木の幹に触れた。木の皮膚が、触れられた圧でかすかに鳴る。
「けれど、お前はもう、願った。追いつきたくないと。願った者は、背負い方を選べる」
「選べるのか」
「選べる。選んだと信じることを含めて、選ぶ」
凪人は、空を見た。
飛び立った鳥は、弧を描いて町の上を回り、止まらなかった。止まらないでいてくれ、と思う。止まらないものに、今は救われる。止まることが優しさだった朝もあったけれど、今は違う。
「遼」
振り向く。
最後尾に戻った遼が、親指を立てた。白い輪が背中で渦をつくり、渦は中心に集まって翳りに変わる。
「お前が一歩外へ出たぶん、時計が動いた。まとめてじゃなく、連続で。連続で進む時間は、痛いけど、優しい」
「どうして」
「準備ができるからだよ。まとめての三秒は、不意打ちだ。連続の三秒は、間に呼吸が入る」
遼は冗談みたいに肩をすくめる。
「俺ら、中高生だろ。呼吸の入らないテストは無理だ」
凪人は笑ってしまった。
笑いながら、胸のポケットの写真に指を添える。裏の逆さ文字。お前が見られている。汗で薄く光る矢印を、指で一度なでる。なでると、矢印の先が自分の名を探して、静かにそこへ座る。矢印が座ると、姿勢が整う。
「見られてるから、飛ぶんじゃない」
凪人は小さくつぶやいた。
「見られてるから、落ちない」
列の端で、小さな異変が起きた。
名のない老人が、位牌を持つ手を下ろし、腰を深く折る。疲れではない。礼の深さだ。道の先に、見えない門があるのだろう。そこを通る者への挨拶。老人の挨拶を合図に、列全体が、ごく浅く礼をする。凪人も、遼も、青年も。礼の角度は、鏡のように揃う。
礼を終えると、世界がほんの少し軽くなった。
礼には、重さを公平に分ける力がある。公平は、痛みの場所を移す。移された痛みは、別のところで治りはじめる。
「なぎと」
青年が、もう一度呼ぶ。
「戻れと言わない。進めとも、言わない。伸びろ」
「伸びろ」
「立っている場所のまま、背だけ伸ばすんだ。背が伸びると、見えるものが変わる。見えるものが変わると、歩かずに前へ行ける」
青年の言い方は、どこか教師めいていて、懐かしい。
凪人は、踵で地面を押し、頭の天辺を空に近づけるようにして、ゆっくり背伸びをした。
止まり木の葉が、近くなった。
飛んだ鳥の影が、地面から少し離れて見えた。
列の先頭の人の肩の疲れが、わずかに薄く見えた。
歩かないまま、確かに、前へ行った。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
単発ではない。連続の鐘。三秒、三秒、三秒。間に短い息継ぎ。
世界が、その息継ぎのリズムを覚え、町の時計がそれに合わせて正確に六回進んだ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
鳩は、止まらなかった。
空の軋みは、もう悲鳴ではなく、誰かの深呼吸に近い音に変わっていた。
「次は、俺が行く」
遼が言った。
「どこへ」
「最後尾の、もっと後ろ」
そんな場所があるのか、と凪人は思ったが、口には出さない。遼には、見えている場所がある。見えているなら、ある。
「お前は中央で、空白を抱えたまま伸びろ。青年は継ぎ目で、折り目をなぞれ。俺は、うしろで風を作る。風が強すぎたら、顔をそむけろ。弱すぎたら、呼べ。名前で呼べ。俺の名前で」
「遼」
凪人は呼んだ。
呼ぶだけで、風の向きがふっと変わった。
遼は笑った。
「それだ」
列の外に立ちながら、凪人は胸のノートを開く。
鏡文字ではなく、正面の“なぎと”。隣に“りょう”。そして“かあさん”。
最後に、空白。
空白は、今日も席を空けたまま、静かにそこへ座っている。座っている、という矛盾した言い方が似合う席。何もいないのに、ちゃんと誰かのための重みがある。
凪人は、空白の文字の周りを人差し指でなぞり、見えない縁取りを厚くした。厚くすると、風に流されにくい。流されにくい空白は、ちゃんと待てる。
「離陸って、飛ぶって意味だけじゃないんだって」
不意に、遼が言った。
「何かを地面から切り離すこと。列から、少しだけ切り離すことも、たぶん離陸だ。離陸の反対は着陸じゃなくて、貼りつくこと。貼りついてると、剥がれるときに皮が痛い。だから、離れる練習をしとく」
「練習は、いつまで」
「朝のあいだ」
遼は肩越しに笑って、最後尾のさらに後ろへ下がった。白い輪の痕が、肩から背中へ、一度ふっと弱くなり、次の瞬間に芯だけ濃く戻る。
「行ってこい、なぎと」
「お前こそ」
凪人は笑い返した。
足元の舗道が、わずかに沈む。
沈んだぶんだけ、体が軽くなる。
凪人は、列の外の幅をもう一歩ぶん広げた。
遠くの屋根の上で、飛んだ鳥が弧を描き、今度は止まらずに雲の裏へ消えていく。
消える前に、羽が一度だけきらりと光った。
列の端で、老人がまた礼をする。
青年が折り目をなぞる指を止め、凪人の背へ視線だけをそっと置く。
遼の笑いが、風の形を選んで吹いてくる。
町が、ほんの少しだけ背伸びをする。
その背伸びに合わせて、凪人も、もう一度、背を伸ばした。
伸びた先に、見えなかった通りの端が一ミリだけ顔を出し、そこに細い光が立った。
終わりの形は、まだ決まらない。
決めないまま、今はただ、離れる。
列から半歩、昨日から半歩。
半歩のぶんだけ、時計が進み、心臓が遅れずについてくる。
止まり木の影が、凪人の足首を離し、空の鳩は、止まらない。
離陸は、やっぱり音がしない。
音のないまま、足は地面から、ほんのわずかに、離れた。
それで十分だと、世界が頷いた。




