第十六話 告白
止まり木の根元は、町の真ん中にあるのに、少しだけ外れみたいな顔をしている。
土は乾き、根は地表へうねって顔を出し、そこに腰を下ろすと背骨がほどよく噛み合う。凪人と遼は、その窪みに並んで座った。列の気配は遠い。けれど、遠いのに、いつでもすぐ肩を叩いてくる距離だった。
風はない。光だけがわずかに角度を変え続ける。朝が盗まれたまま戻りきらないせいで、影の伸び方に規則がない。止まり木の枝先では鳥が二羽、動こうとして動けない姿勢で固まっている。鳩は、空のもう少し高い場所で大きな弧を描いて進み、弧の、ちょうど一番きれいな丸みに差しかかったところで止まっていた。
「さっきから、何回も言おうとして、うまく言えないけど」
凪人は膝の上で手を組んだ。手のひらには、鏡向きに書いた自分の名前と、遼が重ねた“遼”の字が汗に滲んでいる。文字は薄くなると皮膚の下に沈む。沈むと、消えない。
「俺、ずっと君の勇気を盗んで、歩いてた」
言えた。
喉の奥で小さく裂ける音がしたのに、言えた。
「列に混ざるのも、順番に抗うふりをするのも、最後尾に近づいて見るのも。全部、君の真似だった。俺の勇気じゃない」
遼は頬を掻いて、苦笑した。
「真似でいいよ」
「いいのか」
「真似してる間は、生きてる。真似ってさ、止まってる世界で唯一“動く形を選ぶ”ってことだろ。止まった写真の中で、同じポーズを取る。変わってないようで、実は体の中は動きっぱなしなんだ」
「それ、ずるい理屈だな」
「俺ら、ずるさも使わないと勝てないだろ」
遼は空を見上げた。背中の白い輪の痕が、肩甲骨のあたりでひとつに集まろうとしている。そこから川の温度が静かにしみ出して、空気の一部を薄くする。薄くなった空気は、逆に音を通しやすくするらしい。遠くの鐘の胴に指が触れたみたいな、金属の眠たい共鳴が、ごく浅く耳に届いた。
「羨ましかったんだ」
凪人は続けた。
「君の真っ直ぐさ。最後尾に立つって、怖いはずなのに、怖い顔の仕方が分かっててさ。俺には、怖い顔の仕方も分からないままだったから」
「怖いよ」
遼は即答した。
「毎朝吐きそうだし、手も震える。俺が震えてると、最後尾の位置がぶれる。ぶれると、みんなの歩幅が乱れる。乱れると、余計に震える。そういう朝の繰り返し」
「それでも立ってる」
「見られてるからな」
遼は肩をすくめた。
「最後尾ってさ、誰かが振り返ったとき、必ず目に入る。見られてると、人は姿勢が整う。整った姿勢は、嘘をつきにくい。俺、嘘が苦手だから、見られてる場所に立つと楽なんだ」
「楽、か」
「たぶん、俺の“楽”は、人から見たらつらいに入るやつだ。けど、俺はこっちのほうが落ち着く。沙織のことも、ここにいるときが一番ちゃんと考えられる」
沙織の名を出すと、止まり木の根が一段深く沈んだように思えた。
去年の川辺。水は静かに見えて、底では速かった。遼が語る夜の順番はいつも少し入れ替わる。助けられたはず、助けられないはず——どちらも真実で、どちらも嘘だった。凪人は黙って頷いた。遼の言葉は、誰かに裁かれるための順番ではなく、自分の中で位置を確かめるための順番だ。
「母さん、三回目のまばたきのあと、湯気が少し戻った」
凪人は言った。
「でも、咳払いの音がひとつ抜けた。俺が自分の影を踏んだから。今日、ようやく別の音で埋めた。位牌がこすれる小さな音と、紙が息を吸う音と、靴で砂を踏む音。完全には埋まらないけど、それでいいのかもしれない」
「いいよ」
遼は即座に答えた。
「完全ってのはさ、編集でしか作れない。編集の完全は、現実には向かない」
「編集といえば」
凪人は胸ポケットから写真を出した。
二つ折りの紙。裏には逆さ文字。
お前が見られている。
矢印は、こちらに向かっている。
「これ、返ってきた」
「見てるぞって合図だな」
「見られてる、なんだ」
「合図の送り主による。俺かもしれないし、青年かもしれないし、あの鳩かもしれない」
青年は、少し離れた場所で立っていた。
灰色のコートの裾は静かに垂れ、目元は影に溶けて表情が読み取りにくい。けれど、近づけば分かる。彼の表情は、もう凪人そのものだった。違いは、目の奥にある薄い諦めの色だけ。その諦めは、火傷の跡に似ている。時間が過ぎても色だけ残り、触れると痛むかどうかは、その日によって違う。
「なぎと」
遼が小さく笑った。
「未来の自分って、あんなに“今の自分”に似るんだな。そりゃそうか。未来って、今の積み重ねだし」
「積み重ねないと、未来が用意されない」
凪人は青年を見ながら言った。
「俺さ、初めて、ちゃんと願ったんだ。追いつきたくない、って」
風がないのに、木の葉の裏が少し白く返った。
口に出す前は、喉が硬くて、言葉の形が乗らない感じがしていた。言ったら壊れる、みたいな怖さ。でも、言ってみたら、壊れたのは“言えない自分”のほうで、世界は壊れなかった。
「追いつきたくない」
今度ははっきり言った。
「君にじゃない。あの青年に——未来の自分に。追いついたら、終わる気がする。そこがゴールなら、そこへ行くまでの全部が、ただの移動になってしまう」
青年の眉が、わずかに揺れた。
遼が肩を揺らし、笑う。
「いいじゃん。ちゃんと未来形で言えた」
「昨日の言葉を踏み台にした」
「踏み台にして、飛べ」
遼は立ち上がり、止まり木の幹に手をついた。
「飛ぶときさ、重さが要る。軽いと、風に攫われる。お前の“追いつきたくない”は、ちょうどいい重さだ」
「君は飛ばないの」
「俺はここで見てる」
遼は笑ったまま、背中を幹に預けた。白い輪の痕が、樹皮のざらつきに触れて、薄い輪郭の光を散らす。
「最後尾は飛ぶ場所じゃない。跳ぶやつの背中を、目で押す場所だ。押し過ぎたら転ぶし、押さなかったら躊躇う。ちょうどいい力加減を、毎朝練習してる」
「練習」
凪人は同じ言葉を反芻した。
「葬列の朝も、写真の夜も、影の編集も。全部、俺たちの練習だったのかもしれない」
「だったのかもしれない、じゃなくて、そうだよ」
遼が言った。
「練習しないと、本番が来ない。世界は、誰かの“本番にしてやる”で回ってる。俺らの本番は、きっと今日のどこかに置いてある。置かれてるだけで、まだ手に取ってない」
「どこに置いてある」
「そこ」
遼は指さした。
止まり木の根が大きく曲がった、その裏側。うねりの陰の土に、無数の刻み傷が逆順で彫られている。最後の傷は、凪人の名の未完成の線だ。
「あの線を、完成させるか、消すか、戻すか。どれでも本番になる」
「消したら」
「ここに座る理由が減る」
「戻したら」
「痛みが出る」
「完成させたら」
「進む」
進む。
母の声が重なる。進みなさい。
青年の無音が重なる。戻れ。
その中間で、遼の笑い声が、ほどよくほぐす。
「俺、刻む」
凪人は言った。
「未完成の線を、今の字で」
青年が目を上げた。
遼は「いいね」とだけ言って、ポケットから小刀を取り出した。止まり木に傷を“戻す”ために使っていた、刃の小さなやつだ。
「貸して」
凪人は柄を受け取り、根の白い肌にそっと刃を当てる。逆順の刻みの隙間を探し、鏡文字ではなく、今の向きで一画目を引いた。木屑が、空へではなく下へ落ちる。落ちた木屑は、土に触れた瞬間だけ柔らかく光って、すぐに色を失う。
“な”
“ぎ”
“と”
書き終えると、指先が細かく震えた。震えが収まる前に、青年が近づき、凪人の手首を軽く握って止めた。
「十分だ」
初めて、青年の声が空気を震わせた。
掠れた低い音。
「それ以上は、線が泣く」
「線が泣く?」
「刻みすぎると、名前が痛む」
青年は言った。
「名前は輪郭だ。輪郭は、守るためにある。守ることは、開くためにある。開くことは、進むためにある。けれど、開きっぱなしは、血が止まらない」
「分かった」
凪人は刃を引いた。
遼が受け取り、刃を布で拭った。その布は、沙織がつけていたハンカチに似た柄だった。遼は拭き終えると、その布で自分の掌の“遼”の字を一度だけ軽く押さえた。文字は消えない。消えないけれど、滲み方が変わる。
「なぎと」
遼は少しだけ真顔になった。
「怖いって言ったろ。俺も。だから、お前にひとつ頼む」
「何でも」
「俺が消えたら——って前置きはやめよう。俺が“見えなくなった時間”があったらでいい。そういう時間が来たら、お前は俺の分まで見ろ。列の端っこまで。俺が怖がって目を逸らしたぶんも、見てくれ」
「分かった」
凪人は即答した。
「俺も頼む。俺が、未来の自分に追いつきそうになったら、止めてくれ」
「どうやって」
「名前を呼べ。俺の手を掴め。影を踏むなって叱れ。なんでもいい、俺を“今”に引き戻してくれ」
遼は笑い、親指を立てた。
「任せろ」
遠くで、列がわずかにうねった。
誰かの歩幅が乱れ、すぐに整う。波は小さく、でも確かにそこにある。
青年が止まり木から半歩離れ、風もないのにコートの裾がふわりと浮いた。
「時刻が、動く」
青年の声が落ちる。
「どのくらい」
遼が問う。
「一分」
鐘は鳴っていない。
それでも、世界は一分ぶん息を吸いこみ、押し返す。
止まっていた湯気が、太くなり、薄くなる。
窓ガラスに映る空の色が、ほんの少しだけ夕方の手前へ寄る。
鳩の弧が、凪人の頭の上を回りきって、ゆっくり止まった位置から、また動いた。動いた先で、また止まる。止まりながら進む。進みながら止まる。その中で、秒針はまとめて六十回分、胸の中で鳴った。
「夕方が、近づく」
凪人は立ち上がった。
膝についた土を払う。土が指腹に吸いつくようにまとわり、払っても完全には落ちない。落ちないぶんが、今の印になる。
「帰るか」
遼が言った。
「帰る」
「行く」
青年も、同時に口を開いた。
三つの方向が重なって、同じ場所へ向かう。
止まり木の根元に、彫ったばかりの“なぎと”が残る。刻みは浅い。浅いけれど、確かに“今”の字だ。鏡向きではない、正面の字。誰が見ても読める向きで、ここにいる。
通りへ出ると、列が凪人たちを迎えた。
黒い布の台車、色あせた制服、誰のものでもない位牌。
最後尾に遼が立ち、中央に凪人が入り、継ぎ目に青年が位置を取る。
歩き出す——はずなのに、動かない。動かないことで、足の裏が揃う。
凪人は胸のポケットの写真を指で押さえた。裏の逆さ文字は汗に濡れ、矢印はもう怖くない。見られているなら、見返す。見返すと、姿勢が整う。整った姿勢で、正面の空白を守る。
「なぎと」
遼が呼ぶ。
「言ってみろ。もう一回」
凪人はうなずき、止まり木のほうへ視線だけ戻して、言った。
「追いつきたくない」
世界が、微かに頷いた。
足元の影がほんの少し濃くなり、踏まれにくくなる。
名のない誰かの背筋が伸び、列の端で子どもの泣きそうな顔が泣かない顔に戻る。
青年は胸ポケットの写真を、今度は取り出さない。
遼は背中で笑う。笑いの輪郭が波立つ。
夕方の色がじわりと町に落ち、鳩が大きな弧を描いて、また止まった。
止まったまま進む列の真ん中で、凪人は掌の文字を確かめる。
なぎと。
りょう。
かあさん。
そして、空白。
空白は今日の席。
いつか、その席に、まだ呼べない名前が座る。
そのとき、また一分ぶん、世界が進む。
それまで、歩く。
列の中で。
自分の足で。
誰かの勇気を真似してでも。
真似しているあいだは、生きてる。
その言葉を心の真ん中へ置き直し、凪人は、夕方が近づく町の呼吸に、静かに歩幅を合わせた。




