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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第十五話 盗まれた朝

 朝は来た。けれど、誰かが朝の一部を盗んでいったらしい。

 日付は動かないのに、光の角度だけが薄く変わる。窓枠の影が畳の上でじりじりと斜めに伸び、秒針は止まったまま針の重さだけが増す。息を吸うと、昨日より少し冷たい空気が胸の中に入ってくる。吐くときの白さはない。白さの代わりに、部屋の埃がきめ細かく舞い、光の筋の中で固まる。

 玄関を出ると、通りの端で葬列が組まれていた。黒い布で覆われた台車、色あせた制服、誰のものでもない位牌。人々は影だけを落とし、その影を踏まないように歩く。影を踏むと、踏まれた人の昨日が壊れるからだと、誰かが言った。誰かが言っただけで、もう町の規則になっている。規則に名前はない。けれど、みんなが恐れている。

 凪人は、自分の影を見た。

 薄い。

 細く、頼りない。足首のあたりでいったん途切れて、歩幅のたびに、少し後ろから追いかけてくる。遅れてついてくる影は、自分のくせに、他人の歩き方に見えた。

 青年の影は濃かった。

 灰色のコートの裾から落ちる暗さが、舗道の割れ目にぴたりと貼りついている。風がなくても、揺れない。揺れないかわりに、重たく沈む。影の輪郭は、刃物で切り抜いたみたいに鋭く、誰かがそこへ足を踏み入れたら、切れ味で足の裏を裂かれそうだった。

 遼の影は水面だった。

 白い輪の痕が肩から背中へかけて広がり、その冷たさが影の中にまで滲んでいく。歩けば影がさざ波を立て、止まれば波紋がゆっくり消える。消えるたび、影の中心に薄い光が沈む。光が沈むのは変だ。けれど、ここでは変じゃない。変じゃないことのほうが、時々怖い。

 三つの影が交差する地点を、凪人は無意識に避けようとした。

 遼が横から凪人の腕を取る。

 「止まれ」

 「なんで」

 「聞こえないか」

 凪人は耳を澄ます。

 遠くで油が弾ける音がした。屋台の鉄板の上ではない。止まり木のほうから、乾いた小さな破裂音。

 タイミングは、影と影の交わるところと一致していた。

 鳥が二羽、飛び上がり、そのまま空の中で固まった。翅は開いた形で、風に乗る前の姿勢のまま、紙の切り抜きを糸で吊ったように、動かない。他の鳩は不思議がらない。不思議がらないことが、もう不思議ではないのだ。

 「誰かが朝を編集してる」

 凪人は言った。

 言いながら、口の中が乾く。編集、という言葉は学校のパソコン室の匂いを連れてきた。撮った映像のいらない部分を切り取り、必要なところだけ繋いで、音を重ねる作業。やり直しはできる。戻ることもできる。けれど、一度書き出してしまえば、戻れない映像になる。

 「編集者は誰だ」

 遼が問う。

 「きっと、俺たちだ」

 凪人は自分で答えた。

 選ぶ。奪う。差し出す。そのたび、朝は書き換えられる。昨日の位置をずらし、今日の影を濃くし、明日の余白を削る。あの鐘で三秒進めてしまったみたいに。

 「なら、気をつけろよ」

 遼が囁く。

 「踏むな。踏ませるな。踏まれるな」

 列は動かない。動かないことで動いている。

 影だけが歩く。影が先に場所を決め、体は影の通った道をなぞる。人々は互いの影に目を走らせ、誰の昨日も壊さないように、歩幅を微調整する。ここでは、謝る声がよく響く。ぶつからない。ぶつからないことで、ぶつかったみたいに疲れる。

 青年が凪人の前へ出た。

 胸ポケットから、二つ折りの写真を取り出す。

 最後の朝の写真。葬列の最後尾に立つ自分が、誰かを探している一枚。

 青年はそれを、凪人の胸ポケットへ差し戻した。指先が一瞬、凪人の制服を掠める。冷たさと温もりが重なって、そこだけ時間が厚くなる。

 凪人は写真の裏を見る。

 逆さ文字が、変わっていた。

 お前が見られている。

 前に書かれていたのは、お前が見ている、だった。矢印が反転し、視線の行き先がこちらへ戻ってくる。

 背筋が、じわりと冷たくなった。誰に見られているのだろう。青年か。遼か。母か。列か。町か。止まり木の鳥か。それとも、写真の中の自分が、今の自分を見ているのか。

 「どういう意味だ」

 凪人が問うと、青年は首を振った。

 「意味は、今は要らない」

 「要る」

 「要らない」

 短い応酬の間にも、影は伸び、交差し、またほどける。止まり木のほうで、また破裂音がした。今度は三つ続けて。鳩が三羽、飛び、空で止まる。空はだんだん密になる。動けない翼の数が増えるたび、光の通り道が変わっていく。

 凪人は試したくなった。

 ダメだと分かっていたが、試したくなった。

 自分の影のほんの端に、わざと足をかける。

 自分の昨日が壊れると、どうなるのか。

 靴底が、薄い水膜の上に乗ったように滑った。足元が一瞬だけ空回りし、喉の奥で空気が指に触れるみたいな感触がした。

 その瞬間、凪人の頭の中から、ひとつの音が抜けた。

 母の咳払いの音。

 昨日、三度目に震えた睫毛の後、台所で軽く咳払いした、あの音が、まるごと消えた。思い出そうとしても、思い出せない。音の形だけ抜け落ちて、残った場面に音声の穴が開く。影を踏むと、昨日の音が壊れる。

 凪人は後ずさる。

 遼が腕を掴んだ。

 「何やってる」

 「試した」

「試すな」

 遼の口調は荒くない。荒くないのに、叱られている実感が、骨まで届く。

 「自分の影ならいいと思った」

 「いいわけない」

 遼は凪人の掌を取り、指先でまた自分の名を書いた。

 遼。

 重なるたび、熱が強くなる。熱は記憶を繋ぐ糊だ。糊が足りないと、昨日のページが風でめくれ、戻れなくなる。

 「俺の影は踏むな。お前の影も踏むな。他人の影はもっと踏むな。誰の昨日も、壊すな」

 「分かった」

 凪人は小さく答えた。

 「次からは、踏まない」

 列の端で、幼い子が泣きそうな顔をしていた。

 影が薄く、足元でちぎれそうに揺れる。泣きそうなのに、泣かない。泣いたら、誰かの影を踏むから。泣き声は新しい影を生み、重なりを増やし、誰かの昨日に触れてしまう。

 凪人はしゃがみ、掌に鏡向きに“あなた”と書いた。子はそれを見て、泣きそうな顔のまま、唇を噛むのをやめた。影の揺れが少し収まり、足首を通って膝へ、膝から腰へ、輪郭が厚くなっていく。

 「名前は輪郭だ」

 凪人が言うと、子は小さくうなずいた。名前は分からない。それでも、輪郭があるという事実は、誰にでも届く。

 青年は、空を見ていた。

 止まった鳩の列。その隙間を縫うように、薄い雲が遅れて移動していく。光の角度だけが変わるたび、舗道の白線が薄く濃くをくり返す。編集された映像のように、カットの継ぎ目がぎこちなく見える瞬間がある。

 「編集は、毎朝やり直されている」

 青年が言った。

 「昨日の朝に書いた指示は、今日には古くなる。同じやり直しはできない。やり直せるのは、別の傷をつけることだけだ」

 「鐘のときと同じ?」

 「同じだ。違うのは、鐘が音で削るのに対して、今朝の編集は影で削っている」

 「影で、何を」

「昨日を、今日の形に合わせて、削る」

 遼が最後尾に立ち直り、振り返った。

 白い輪の痕は背中の真ん中まで降りてきて、そこに小さな円ができている。円は冷たく、そこだけ風が通り抜ける感じがあった。

 「なぎと。お前、さっきの叫びのせいで、時計が五秒進んだろ」

 「進んだ」

 「朝の編集係が、帳尻を合わせに来てる。五秒分の『昨日』を削りに来る」

 「誰が」

 「俺らだよ」

 遼は笑った。

 「お前も。俺も。青年も。列に並ぶ全員が、歩いた分だけ、誰かの昨日を削ってる」

 「嫌だ」

 「嫌でも、歩く。歩かなかったら、今度は『今日』が腐る。腐った今日の匂いは、昨日よりきつい」

 遼の言う匂いが、鼻の奥にたまる。雨上がりに濡れた段ボールの甘い匂いに似ていた。嗅いだことのある不快さ。捨てるときに一番迷う種類の匂いだ。

 凪人は、胸のノートを軽く叩いた。表紙の布が汗で湿っている。鏡文字で書いた自分の名、遼の名、母の名、空白の席。名前は輪郭。輪郭は、守るためにある。守ることは、開くためにある。開くことは、進むためにある。

 空白の席に、今日の編集が入り込もうとしていた。空白は、編集者の大好物だ。何もないところには、何でも置ける。置いてしまえば、それは置いた人のものになる。

 凪人は掌で、空白の席を押さえた。指の腹に、見えない重さがかかる。押さえるだけで、少しだけ遅くなる。遅くなるぶん、呼吸が整う。

 「なぎと」

 遼が手を伸ばした。

 「もう一回、書く」

 「何を」

 「俺の名前」

 凪人は掌を差し出す。遼の指が、汗で滑りながら三画を描く。遼。

 同時に、青年が反対の掌へ字のない文字を書く。君は君でいてくれ。

 二つの熱が腕から肩へ、胸の内側へ広がっていく。熱の重なりが、世界の編集点に薄い膜を張ってくれる。膜は薄いが、ないよりはいい。ないと、矢印が直に刺さる。

 写真の裏の逆さ文字が、視界の端で明滅した。

 お前が見られている。

 誰に。

 考えるより先に、凪人は上を見た。止まった鳩の中に、一羽だけ、首を動かす個体がいる。影の編集を免れたのか、編集のくぐり抜け方を知っているのか。目が合った気がした。合ったまま、鳩は首をさらに傾け、こちらの手のひらを見るように視線を落とした。

 見られている。

 認めた瞬間、体の内側にある何かが位置を直される感覚がした。恥ずかしさに似ていて、けれど、恥ではない。起立の姿勢に背を当て直される感じ。編集者に見られると、姿勢が勝手に整う。整った姿勢は、嘘をつきにくい。

 「なぎと」

 遼が笑う。

 「お前、今、立ち方が変わった」

「そうか」

 「見られてると、人は真っ直ぐになる。俺もだ」

 遼は最後尾で、少し顎を上げた。川の温度が背骨を伝い、白い輪の中心で静かに渦を巻く。

 青年は、凪人の肩に手を置いた。

 「気にしすぎるな。見られていることを忘れるのも、必要だ」

 「忘れたら、嘘をつく」

 「嘘が要るときもある」

 青年は短く言ったきり、黙った。

 嘘が要るとき、という言い方は、優しいと思った。嘘を悪く言わない。悪く言わないことで、嘘に流されないでいられることもある。

 通りの角で、影が複雑に交差した。

 信号機の柱、止まった自転車、ベビーカーの車輪、犬の伸びきったリード。光の角度が再び変わり、影の重なりが濃くなる。

 「渡るな」

 青年が低く言った。

 凪人は立ち止まり、列の流れに従って歩幅を変えた。影の海に踏み込みたくてうずうずした足を抑える。踏みたい衝動は、破壊と同じくらいに創造に近い。踏めば、新しい線が生まれる。生まれた線が、誰かの昨日を切る。

 影の縁を伝って歩くうち、列の中から小さな声がした。

 「昨日が、ない」

 振り向くと、若い女の人が立ち尽くしていた。肩に乗せた鞄の影が、どこにも落ちていない。影はあるのに、鞄のほうが薄い。

 「名前、ある?」

 凪人が問うと、彼女は頷いた。

 「あった」

 過去形だ。

 凪人は掌に鏡向きに“あなた”と書き、彼女の掌にも同じ動作を促した。見よう見まねで、彼女は自分の手に“わたし”を書いた。二つの手が近づいたとき、鞄の影がやっと舗道に落ちた。薄いが、輪郭はある。

 「助かる」

 彼女は息を吐いた。

 助かったのは、彼女ではなく、彼女の昨日のひとつかもしれない。それでもいい。ひとつ助かれば、好きなものを入れ替える余裕ができる。

 止まり木のほうで、もう一度、破裂音。

 今度は大きい。

 鳩の群れが一斉に羽を打ち、五羽ぶんの動きが空で固まった。止まっているのに、羽ばたいた直後の筋肉の張りだけが伝わってくる。痛いほどの静止。

 世界は、張りつめた弦みたいだ。誰かが弓を引いて、まだ放たない。放たない時間の長さが、一秒ごとに太っていく。太った一秒は、三秒になり、五秒になり、七秒になり、名前のない長さになる。

 「なぎと」

 遼の声は、相変わらず真っ直ぐだ。

 「お前がさっき踏んだ影の分、何か抜けたか」

 「母さんの咳の音」

 言った途端、喉が痛くなる。抜けた音は戻らない。戻らないことを認めると、喉は痛がる。

 「代わりを入れろ」

 遼はすぐに言う。

 「何を」

 「別の音。今の音」

 今の音は、見つけにくい。今はすぐに昨日になるし、昨日は今日の形に削られていく。

 凪人は耳を澄ませた。

 周りの音の中から、選ぶ。

 靴底が砂を踏む音。

 位牌の縁が互いに触れる小さな木の声。

 青年が写真の折り目をなぞる、紙の乾いた息。

 その三つを、自分の中の空白へ差し入れた。

 空白は納得しない顔をしたが、受け取った。受け取って、少し重くなった。

 喉の痛みが薄くなる。完全には消えないが、それでいい。痛みが全くないほうが、今は怖い。

 青年が、不意に凪人の肩を引いた。

 「下がれ」

 「え」

 すぐ目の前で、影が重なり合った。誰かが誰かの影を踏むところだった。

 青年の影が、間に差し込まれる。刃物の切り抜きのように確かな線が、二つの影を割った。

 世界の継ぎ目で、縫い目がほどける音がした。

 ほどけた場所から、昨日が少し漏れる。漏れた昨日は、まだ温かい。拾いたくなる。拾ってしまえば、今日が薄くなる。

 青年はそこに指を滑らせ、漏れた昨日を押し戻した。指先の温度で押す。押す姿勢があまりにも自然だったので、凪人はそれが別れの手順にも、始まりの作法にも見えた。

 「編集者がいるとして」

 凪人は言う。

 「俺たちが編集者だとして。いつまで、編集し続けるんだ」

 「朝のあいだ」

 青年が簡単に答える。

 「朝が盗まれているあいだ」

 「取り返せないのか」

 「取り返すたび、別の朝が盗まれる」

 「意味がない」

 「意味はある。意味は、ここに残る」

 青年は凪人の胸に軽く拳を当てた。

 「残るぶん、誰かが前へ出る。出たぶん、誰かが後ろへ下がる。それが列だ」

 列という言葉に、凪人の足が重くなる。重くなった足は、落ちにくい。落ちにくい足は、影を踏みにくい。踏みにくいことは、今日の礼儀だ。

 遼が小さく笑った。

 「こんな朝、笑うところじゃないかもしれないけどさ」

 「何」

 「俺、最後尾が好きだ」

 「知ってる」

 「好きな理由、分かった」

 遼は肩をすくめる。

 「最後尾は、いちばん見られてる場所だ。誰かが振り返れば、必ず俺が目に入る。背中を見せ続けると、自分の輪郭が濃くなる。笑ってるか、泣いてるかも、丸見えだ。丸見えだと、変に強くなる」

 「強くなると、消えるのが早い」

 「そうかも」

 遼は頷く。

 「でも、見られてるなら、しっかり立っていたい。お前に見られてるなら、なおさら」

 写真の裏の文字が、掌の中で汗に滲んだ。

 お前が見られている。

 凪人は写真を胸ポケットに戻し、制服の上からその位置を押さえる。押さえると、場所が決まる。場所が決まると、呼吸が戻る。呼吸が戻ると、影が薄くなる。薄くなった影は、踏まれにくくなる。

 通りの端に、小さな屋根のあるベンチがある。

 母と二人でよく座った場所。幼いころ、学校帰りにジュースを分け合った。吸い込みの音が、いつも二人でずれて、母に笑われた。

 そこに、母の影が落ちていた。

 母の体は家にいる。椅子に座って息をしている。なのに、影だけが、ここへ来ていた。

 凪人は足を止める。

 影は、凪人に気づいたように、少しだけ濃くなった。

 「母さん」

 声に出す。

 影は、揺れない。

 揺れないのに、長さが変わった。

 朝の光の角度が、またわずかに動いたのだ。編集は続く。

 凪人はしゃがみ、影の端に手をそっと重ねた。

 踏まない。触れるだけ。

 触れると、掌にほんのり温かさが宿る。昨日の咳の音の代わりに、母が湯のみを置くときの細い音が胸に流れこんだ。補修は完全ではない。けれど、穴を塞ぐには足りる。

 「なぎと」

 青年が肩に触れる。

 「行くぞ」

 凪人は立ち上がり、影から足を外した。

 足裏に、薄い名残が残る。名残があると、足は軽くなる。軽くなると、前に出やすい。前に出ることは、今日で一番難しい動作だ。

 列は、静かに呼吸する。

 止まり木の方向から、最後の破裂音がした。

 空の鳩が一羽、止まらずに飛んだ。

 紙の切り抜きではない。生きた鳥の羽ばたき。

 空の密がわずかにゆるみ、光の通り道がひとつ増える。

 編集の手が、指を緩めたのだ。

 朝の一部が返ってきた。

 「取り返せた」

 凪人が言うと、青年は首を横に振った。

 「違う。返された」

 「誰に」

 「お前に見られた誰かに」

 見られた、という言葉が胸に刺さる。

 お前が見られている。

 見られているなら、見返す。見返すと、姿勢が整う。整った姿勢で、空を見上げる。

 鳩はもう、止まらなかった。

 止まらないことに安心するのは久しぶりだった。

 遼が最後尾で、掌をこちらに向けた。

 そこに書いた“遼”の文字が、汗でさらに滲んでいる。滲むと、皮膚の下へ染み、消えない痕になる。

 凪人は自分の掌を重ねた。熱が混ざる。混ざった熱は、誰のものでもない。列の呼吸を支えるだけの小さな火になる。小さな火は、編集の刃物に強い。刃物は熱に弱い。

 「なぎと」

 遼は笑った。

 「朝を盗むやつがいても、俺らの分の朝は、勝手に決めさせない」

 「決めさせない」

 凪人も笑った。歯が少し震える。震えの音が、心地よく胸の奥を撫でる。新しい音だ。今の音だ。

 「順番は要る」

 遼は言葉を継いだ。

 「終わらせるために。認めるために。だが、影で壊す順番はいらない。俺らは、影を踏まないで進む練習を続ける」

 「できるかな」

 「できるまで、やる」

 列の先頭に、薄い門のような影が現れた。

 光の角度がつくる、ほんの短い通路。

 抜ければ、朝の次の段差へ行けるのだと、町の誰もが知っている。誰もが知っているが、口に出さない。口に出すと、門が閉じるから。

 今日は、閉じない気がした。

 閉じないように、凪人は口を閉じて、足を一歩出した。

 影を踏まないように。

 踏まれないように。

 踏ませないように。

 通路をくぐる直前、胸のポケットの写真が、小さく弾んだ。

 中で、紙が呼吸したように思えた。

 取り出すと、裏の逆さ文字が汗に濡れて光っていた。

 お前が見られている。

 今度は、矢印の先に自分の名を鏡向きに書いた。

 なぎと。

 書いてから、指でひと撫でした。

 撫でると、矢印の線が薄くなり、名のほうが濃くなる。

 見られていることを怖がるより、名を濃くするほうを選ぶ。

 選ぶたび、朝の編集は、少しだけ遅れる。

 門をくぐった。

 光が変わる。

 世界が一秒ぶん伸び、もう一秒ぶん縮み、また伸びる。

 伸びたり縮んだりするたび、呼吸が痛くなり、次の瞬間には楽になる。

 背後で、青年が写真の折り目をなぞる音がした。

 前方で、遼が短く笑った。

 それだけで、十分だった。

 朝は盗まれたままかもしれない。

 それでも、今日の朝のための歩幅は、今、胸の中に確かにある。

 影は薄いが、踏まれない。

 影は濃いが、切れない。

 影は揺れるが、沈まない。

 そして、空の鳩は、止まらない。

 凪人は、胸のノートを叩いた。

 名前は輪郭だ。

 輪郭は、守るためにある。

 守ることは、開くためにある。

 開くことは、進むためにある。

 進むことは、朝を取り戻すためにある。

 誰が編集していようと、誰に見られていようと、歩幅は自分で決める。

 そう決めるたび、止まっていた秒針が、心臓の中でひと目盛り進んだ。

 外の時計は動かない。

 けれど、胸の中の時計は、確かに刻む。

 三歩で一秒。

 五歩で二秒。

 七歩で、知らない長さ。

 知らない長さの朝を、今日、と呼ぶ練習を続ける。

 列は静かに呼吸し、町はわずかに頷き、盗まれた朝は、足音の数だけこちらへ戻ってきた。

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