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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第14話 最後尾

 朝は、止まっていた。

 止まっているのに、空の薄さだけが違う。昨日より一段、色が剥がれて、紙の裏が透けて見えるみたいだ。大通りの向こうから、葬列が現れる。黒い布で覆われた台車、色の抜けた制服、誰のものでもない位牌。足音はしない。代わりに、胸の内側の鼓動が揃っていく。列は、世界の心臓の真似事をしているのかもしれない。


 最後尾に、遼が立った。

 白い輪の痕は手首を越え、二の腕を這い、肩口まで広がっている。皮膚の下に薄い光が走り、体温が川の水温に引き下げられていく。触れたら、冷たいだろう。けれど、冷たいことが、そのまま命の証拠に思えた。熱がある者ばかりが生きているのではない。冷たさを引き受けて立つことだって、今の世界では生きるの作法だ。


 青年が、その前に立った。

 灰色のコートの裾が、風のない空気に微かに揺れる。互いに一歩だけ近づき、会釈をする。礼の深さは同じ。背筋の角度が、鏡のように一致する。挨拶のあと、二人が視線を合わせる時間は短い。長く見れば、どちらかがどちらかに追いついてしまう。追いつくことは、終わることと似ている。


 凪人は列の中央で立ちすくんだ。

 誰の背中にも追いつけない。前へ足を出せば、前の人の輪郭が薄くなり、下がれば、後ろから空白が押し寄せる。歩けば崩れ、止まれば動く。列は、ゆっくり動き出す——はずなのに、動かない。動かないことで、動いている。世界のレールが裏返り、足音の響きが遠くなる。耳ではなく、足の裏でしか感じ取れない距離感。自分の歩幅だけが頼りで、しかし歩幅さえ、今は借り物のようだ。


 遼が肩越しに振り返り、笑った。

 笑顔の輪郭が、川の気配で揺れる。水鏡に映した顔のように、表情の端が波立つ。

 「なぎと。見てろよ。変わるぞ」

 声は届いた。遼の声だけは、世界の止まり方に負けない。彼の声の中に、沙織の笑い声が薄く混じっているような気がした。川のほとりで写った写真の光が、声に反射している。


 凪人の喉が熱くなる。

 叫びが、そこまで来ている。叫べば、何かが動くかもしれない。けれど、叫ばずにいられなくなるのは、たいてい、最後の一手を間違える時だ。躊躇の時間が、世界の三秒ぶんより長く伸びる。


 「順番なんて、いらない!」


 凪人は叫んだ。

 声は、空へは広がらず、代わりに“昨日”の地層を震わせた。町の壁の塗装がわずかに剥がれ、止まり木の鳥が一羽、羽を打つ。町の時計が、五秒進む。

 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。

 五つの音のあとで、鳩が五羽、いっせいに飛んだ。翼が一度だけ空気を掴み、すぐに空で止まる。止まる前に生まれた風が、列の端を撫でた。


 世界が、揺れた。

 列の前方で、黒い布が上下し、台車の車輪がきしむ。動いていない車輪が、きしむという矛盾が、今の世界には普通にある。矛盾の音は、進む音に似ている。誰も顔を上げない。顔を上げるのは、順番を変える者の役目だ。


 青年が、目だけで合図した。

 ——見るな。

 凪人は、合図を無視した。

 ——見ろ。

 遼は、逆の合図をする。

 ——俺の分も。

 彼は凪人のほうへ手を差し出し、最後尾から列の中央へ歩いてくる。歩くたび、白い輪が肩から鎖骨へ広がる。皮膚が川の薄氷みたいに透け、骨の線が、名前のない地図の等高線のように浮かび上がる。


 「もし俺が消えたら、お前は俺の分も見ろ」


 遼は、凪人の掌を掴んだ。

 人差し指で、また“遼”と書く。字画が重なるたび、掌が熱を帯びる。青年の“字のない文字”、凪人自身の鏡文字、そして遼の名。三つが絡み、血の流れの方向が少しだけ変わる。

 痛みはない。だが、痛みよりも強い“そこにしかいられない感じ”が、はっきりと残る。


 「泣くなよ」

 遼が笑う。

 「泣けない」

 凪人は首を振る。

 涙はまだ“未来形”のことだ。今ここで落ちるための準備が、世界の側にできていない。涙は落ちる前に止まり、止まる前に熱に変わり、熱は手の中の文字へ吸いこまれる。


 列が、凪人たちの位置を受け入れる。

 中央に立つ凪人の左右で、位牌の影がわずかに揺れ、制服の端が触れる。誰も押さないし、誰も譲らない。押さずに譲る方法を、みんなが覚えてしまった。

 世界のレールが、もう一度、裏返る。

 見慣れた大通りが、裏側の骨組みを覗かせ、建物の奥が表になり、表が奥へ沈む。町が、ひっくり返った本の束みたいに、ページの白と背表紙の黒を交互に見せる。


 「順番がいらないなら、歩幅も要らないのか?」


 青年が、近くで小さく言った。

 「歩幅を捨てたら、足が宙に浮く。浮いた足は、前にも後ろにも行けない」

 「でも、順番は——」

 「順番は、終わらせるための列だ」

 青年の声は、相変わらず、空気に触れない。意味だけが骨に触る。

 「終わらせないまま進むと、どこかでまとめて“終わり”が請求される。あの鐘の三秒みたいにな」


 凪人は口を閉ざした。

 遼の指の圧が、手の中で強くなる。

 「俺は、終わらせるために最後尾にいるんじゃない」

 遼が言う。

 「見届けるためだ。最後尾は、後ろを全部引き受ける場所だ」

 「引き受けて、消えるのか」

 「消えるかもしれない。でも、“消えるかもしれない”から見えるものがある」

 遼は前を見た。

 「なぎと。お前は中央で見ろ。俺は最後尾で見る。青年は、間の継ぎ目で見てろ」

 青年は目を伏せ、わずかにうなずいた。安堵と絶望の中間の顔。いつか見慣れるのかと思ったが、見慣れる気配はない。


 列は、進まない。

 進まないことで、誰かの時間だけが進む。

 止まっていた屋台の暖簾が、三秒ぶん揺れ、また止まる。半分まで掲げられたシャッターが、ギイと鳴って一段上がり、また止まる。止まり木の枝先が、ひと節だけ伸び、また止まる。

 世界は、方向を見失ったまま、前と後ろを同時に試している。


 「なぎと」


 遼が、今度は呼び捨てに近い呼び方で言った。

 「お前、昨日、叫んだろ。“順番なんていらない”って。あれ、効いたぞ」

 「効いた?」

 「時計が、五秒進んだ」

 「それで?」

 「それだけで十分な日もある」

 遼は肩を竦める。肩の白い輪が、鎖骨の内側で静かに脈打った。

 「五秒って、たいしたことないって思うか? でもな、五秒って、息を吸って吐くのに足りる。『ただいま』って言って、『おかえり』って返すのに足りる。鐘の三秒より、少しだけ長い」


 凪人は笑いそうになり、笑いそこねて顔が歪んだ。

 「なぎと」

 遼はもう一度、名を呼ぶ。

 「もし俺が消えたら——」

 「消えない」

 「もし、の話だ」

 遼は言葉を切り、掌に書いた“遼”を親指でなぞった。

 「お前は俺の分も見ろ。俺の分まで、名前を呼べ。写真の裏の逆さ文字みたいに、誰かの背中から読むコツを、忘れるな」


 写真、という語で、凪人の胸がざわつく。

 最後の朝の写真は、青年の胸ポケットにある。預けた写真は、戻らない。戻らない代わりに、見るべきものが目の前に増える。

 凪人は胸のノートを軽く叩いた。鏡文字で書いた自分の名、遼の名、母の名、そして空白の席。叩く音は出ない。音が出ないのに、叩いたという事実だけが足の裏へ降りてきて、歩幅の長さを一ミリだけ伸ばす。


 列の左手、止まり木の下で、誰かが立ち尽くしている。

 名のない子どもだ。

 子どもの靴底に、砂が一粒挟まっている。小さな痛み。小さな今。

 凪人はその子の横を通りながら、掌を開き、鏡向きに“なぎと”と書いた。子どもがこちらを見上げる。名前の読み方が分からない目。だが、名前が“ある”という事実だけは、伝わる。子どもの輪郭が、それだけで少し濃くなる。


 「順番がいらないなら、名前は?」

 青年が、また問う。

 「名前は輪郭だ。輪郭は、守るためにある。守ることは、開くためにある。開くことは、進むためにある」

 凪人は、いつか書いた通りに、答えた。

 「だったら、順番は?」

 「終わらせるための列」

 「終わらせる役を、誰が持つ」

 「持てるやつが持つ」

 言ってから、喉が乾いた。持てるやつは、たいてい、持ちたくて持つわけじゃない。


 遼が手を挙げた。

 「最後尾は、終わらせる番じゃない。『もう終わっていた』と認める番だ」

 「違いは」

 「大きい」

 遼の声が、硬い。

 「終わらせるってのは、斬ることだ。認めるってのは、手放すことだ。似てるけど、違う」

 遼は青年を見た。

 「あんたは、斬るほうだ。俺は、手放すほうでいたい」


 青年は、しばし黙った。

 やがて、胸ポケットに指を入れ、写真の折り目をひと撫でして、また戻した。

 「……任せた」

 唇が、初めて、その形を作る。

 凪人は、息を飲んだ。

 遼は目を細め、最後尾の位置へ戻る。白い輪の光が、肩から背中へ流れる。背中の中心に、小さな“点”のような冷たさが生まれる。そこは、川が通っていく場所。人の背骨と川の流れが、ひとつの線で繋がる地点。


 列は、やっぱり動かない。

 動かないことで、凪人の中の何かが、はっきり動く。

 母の「進みなさい」と、青年の「任せた」と、遼の「見ろ」が、胸の内側で重なり、歩幅に変わる。三歩で一秒。五歩で、たぶん、二秒に足りない。足りないぶんは、名前で埋める。


 「なぎと」

 「遼」

 「母さん」

 凪人は小さく口の中で呼んだ。

 呼ぶたび、掌の熱が返事をする。返事は音ではなく、脈だ。脈は、生だ。生が、列の中で、音の代わりに揃っていく。


 前方で、誰かが倒れた。

 台車の脇にいた、名のない老人だ。

 誰も騒がない。騒ぐと、世界が止まり直す。止まる前に、凪人は一歩踏み出した。老人の手を取る。指は軽い。軽いものは、落ちにくい。

 「名前、ありますか」

 凪人が問うと、老人の口が、ゆっくり動いた。

 「……あった」

 過去形で出た。

 凪人はうなずく。

「じゃあ、今は俺が呼びます」

 老人は、薄く笑った。

 凪人は掌に、鏡向きに“あなた”と書いた。書けない名前の代わりに、“あなた”で輪郭を確保する。老人の手が、ほんの少しだけ重くなる。重さは、ここにいる証拠だ。


 遼が最後尾で、静かに目を閉じた。

 背中の中心にある冷たい点が、広がり始める。白い輪が、その点に吸い寄せられ、彼の輪郭の内側で、川の音が鳴る。

 「変わるぞ」

 遼の声が、もう一度、届く。

 「なぎと、見てろ。俺がいなくなっても、見ろ」

 「いなくならない」

 「もし、の話だ」

 遼は、微かに笑う。

 「最後尾は、見送る場所だ。誰かの終わりを認める場所だ。俺の終わりを認めるやつがいないなら、俺はここで見送られたふりをしておく。お前が来るまでの間」


 その言葉が終わるのと、町の時計が一秒進むのと、ほとんど同時だった。

 カチ。

 影が、ほんの少し伸びる。

 止まり木の鳥が、首を二度傾げる。鳩が一羽、遅れて飛ぶ。

 凪人は、胸のノートを握り直した。布の表紙が汗で湿り、骨に当たる角の痛みが、今日の現在地を教える。


 列の右手、交差点の端に、小さな屋台がある。

 綿菓子の機械が、止まったまま光を反射している。

 凪人は、ふと思い出す。

 ——中学の夏祭り。

 遼と二人で、最後尾に並んだ。綿菓子の列。並べば並ぶほど、ふわふわの雲が目の前で増えていった。最後尾にいるのに、目の前で出来上がる。最後尾は、いつだって“これから”を見せつけてくる位置だった。

 「遼」

 凪人が呼ぶ。

 「覚えてるか。綿菓子の——」

 「忘れてねえよ」

 遼は笑った。

「俺が先に吸って、お前に怒られたやつな」

 「怒って、いた」

 「今は?」

「……笑ってる」

 遼の肩の白い輪が、すこしだけ明るくなった。川の温度の中で、笑いが湧く。笑いは熱だ。熱は、白い輪の内側で溶けて、輪郭の強さに変わる。


 青年が、一歩だけ下がった。

 最後尾と中央の間に、薄い空白が生まれる。空白は席だ。誰かのための、まだ呼べない名前の席。

 「埋めるな」

 青年が言う。

 「空白は、守る席だ。埋めたら、誰かの終わりが行き場を失う」

 「空白を守るって、進まないことか」

 「違う。空白を抱えたまま進むことだ。抱えた分だけ、足は重くなる。重い足は、落ちにくい」


 凪人は頷いた。

 掌の“遼”の文字が、汗で少し滲む。滲むことで、皮膚の下へ染みる。染みた文字は、紙より落ちない。落ちない代わりに、時々、忘れたふりをして姿を隠す。忘れるふりは、守る作法だ。


 「なぎと」


 遼が、最後の確認みたいに呼んだ。

 「俺が消えたら」

 「——お前の分まで見る」

 凪人は遮った。

 「約束した。ここで、今」

 「そうだ」

 遼は、少し満足げに笑い、顔を前に向け直した。白い輪が背中の点へ集まり、点は細い線になり、線は見えない川へ繋がる。

 川の温度が、空気の温度を奪っていく。奪われるほど、音が澄む。澄んだ音の中で、列の歩幅だけが、ゆっくり揃っていく。


 そのとき、空から一枚の紙が落ちた。

 久しぶりの、写真の雨の迷子。

 凪人はそれを掴んだ。

 そこには、背中しか写っていない。最後尾に立つ誰かの背中。白い輪の痕が肩に光る。顔は写っていない。写らないことで、誰の背中にもなれる写真。

 裏返すと、逆さ文字が短く並ぶ。

 ——見ている。

 見ているなら、見られている。見られているなら、立てる。

 凪人は写真を胸ポケットへ入れた。青年の写真は預けたまま。代わりに、自分の写真を持つ。持ったぶん、誰かの背中が、少し近くなる。


 列が、ひと呼吸ぶん沈黙した。

 そして、ほんの少しだけ、前へ滑った。

 誰も足を出していないのに、舗道の模様が後ろへ流れ、影が伸び、建物の壁のヒビが一段伸びる。世界が勝手に動く。順番を捨てた声が、別の順番を生んでしまう。

 「なぎと」

 青年が、珍しく音にして呼んだ。

 「無茶はするな」

 「して、ない」

 「している」

 「していない」

 そんな子どもの言い争いみたいな往復の間に、また時計が一秒進んだ。

 カチ。

 五秒のあとに、一秒。合計六秒。六という数が、どうでもいいのに、今はやけに嬉しい。


 「なぎと」

 遼が、最後尾からもう一度、呼ぶ。

 「ありがとう」

 「言うな」

 「言う」

 遼は、真っ直ぐな声で繰り返した。

 「ありがとう」

 凪人は、何も返せなかった。返す言葉はたくさんあるのに、どれも“未来形”の棚に置いてある。届かない棚。届くように、三秒ずつ、足場を積むしかない。


 空が、少し明るくなる。

 止まり木の鳥が、一度だけ羽を打ち、今度は止まらず、枝から枝へ短く移った。

 世界が、息を覚え直している。

 遼の背中の白い輪が、中心へ中心へ集まっていく。輪郭は薄くならない。逆に、骨の線がくっきりしていく。消える者の輪郭が、最後に濃くなるのはずるい、と凪人は思った。ずるいけれど、美しい。美しさは、時々、残酷の別名だ。


 「なぎと」

 遼の声が、ささやきになる。

 「お前の母さんに、また、ありがとうって言っといてくれ」

 「自分で言え」

「言う。言えるうちは。言えなくなったら、お前が言え」

 「言う」

 「約束だ」

 遼は、掌をこちらへ向けた。そこに書いた“遼”の文字が、汗で光る。

 凪人は、自分の掌を重ねた。文字と文字が、指の間で少しズレて重なり、互いの熱が混ざる。混ざった熱は、誰のものでもない熱。こういう熱が、列の呼吸を支える。


 世界が、また裏返る。

 青空の裏地が、灰色に滲む。家々の窓の内側に、外の風景が映り込み、内と外が入れ替わる。凪人は目を閉じない。目を閉じたら、見ないことの癖が戻る。見ることは、痛い。痛いのに、見ることを選ぶ。


 「なぎと」

 最後の呼びかけに聞こえた。

 振り返れば、遼は笑っていた。

 笑いの輪郭が波立ち、川の冷たさと、鐘の三秒と、五羽の鳩の影が、その笑いの中を通り過ぎる。

 「変わるぞ」

 遼は、もう一度言った。

 世界が、返事の代わりに、薄く頷いた。


 町の時計が、もう一秒、進む。

 カチ。

 七秒め。

 数字は気休めだ。けれど、今はその気休めが骨になる。骨があれば、重さを受け止められる。


 列は、相変わらず動かない。

 動かないことで、進む。

 最後尾に立つ遼の背中は、まだそこにある。

 凪人は、前を向く。

 中央に立つ者の務めは、正面の空白を守ることだ。埋めずに、抱えたまま、歩くふりをやめないことだ。

 青年は、間の継ぎ目で、写真の折り目を指でなぞった。

 任せた、という唇の形が、今度は何も言わずに、ただそこに在る形に変わる。


 「順番なんて、いらない」

 凪人は、もう一度、小さく呟いた。

 今度の声は、昨日の地層ではなく、今の空気を震わせた。

 震えは微かな風になり、止まり木の葉が、音もなく裏返る。

 裏返った葉の白が、朝の光を受けて、紙みたいにきれいだ。


 泣きたい。

 でも、涙はまだ未来の棚にある。

 届かない棚へ、手を伸ばす代わりに、凪人は掌の文字を撫でた。

 遼。

 なぎと。

 母。

 空白。

 空白の席は、今日も空いたまま。

 空いたまま、守る。

 守りながら、前を向く。

 前がどちらか分からなくても、自分の足が出るほうが前だと、今日だけは決める。


 そのとき、空の端で小さな音がした。

 鐘ではない。

 鳩が、六羽めに羽ばたいた音だ。

 止まらず、屋根の向こうへ消えていく。

 誰も拍手をしない。

 代わりに、凪人は胸のノートを叩いた。

 骨に伝わる軽い痛みが、今の居場所を確かに示す。


 列は、静かに呼吸する。

 最後尾の遼は、まだ笑っている。

 中央の凪人は、まだ見ている。

 継ぎ目の青年は、まだ立っている。

 世界は、七秒ぶん進んだ。

 足りないぶんは、名前で補う。

 名前は、輪郭だ。

 輪郭は、守るためにある。

 守ることは、開くためにある。

 開くことは、進むためにある。


 それだけを胸に、凪人は、動かない列の中で、一歩ぶん、心を前へ押し出した。

 いつか涙が棚から降りてくるとき、今日の七秒が、その涙の落ち場所になるように。

 そのとき、遼が消えていたとしても——

 見ている。

 見続ける。

 お前の分まで。

 約束の文字が、掌の下で、確かな熱を保っていた。

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