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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第12話 名前

 ノートの紙は、薄いのに重かった。

 罫線の上で鉛筆を動かすたび、世界の止まり方が指に伝わる。芯の黒は、音を出さない。擦れる音が聞こえないのは、静かだからではなく、音が生まれる前に空気が止まるからだ。

 凪人は、一行目の左端に鉛筆の先を置いた。そこでいったん止め、ノートをくるりと上下逆さに回す。文字を鏡向きに書くためだ。


 な

 ぎ

 と


 鏡文字で書くと、紙の上の線が別物になる。慣れたはずの自分の名が、知らない誰かの名前に見えた。線が一本ずれるだけで、意味が変わる。意味が変わると、輪郭が変わる。輪郭は、止まった世界で一番先に擦り切れるものだ、と青年は言っていた。

 紙に顔を近づける。グラファイトの黒に、止まった窓の光が小さく映る。鉛筆の軸は使い古した黄色で、指の汗がすこし染みこんでいる。ノートの端を指で押さえ、じわりと汗が紙に移る感触まで、今だけは鮮明だった。


 ドアの向こうで、風鈴が鳴らない。

 代わりに、鴉がひと声だけ鳴き、すぐ黙った。

 止まり木のほうから、羽音も届かない。世界は、昨日の鐘の三秒ぶんだけ進んで、また止まっている。進んだぶん、紙の白は冷たく、鉛筆の黒は濃く見えた。


 ページの片隅に、小さく今日の日付を書こうとして、やめた。

 日付けは、未来と結び付く記号だ。ここではうまく繋がらない。繋がるのは、名前だけ。呼び名は、呼ばれる側と呼ぶ側の間に橋を架ける。橋は、止まっていても見える。


 「書けたか」


 背後から、かすれた声がした。

 振り返らなくても分かる。灰色のコートの青年が、机の向こう側に立っている。鏡の前に立つのと似ていて、でも違う。鏡の中の自分は、こちらの動きに合わせる。青年は、こちらの動きを先取りするか、少しだけ遅れて追いかける。


 「鏡文字で、書いて、いた」

 凪人は喉を通る言い方で、報告する。

 青年は頷き、そのままノートの向きを元に戻した。罫線の上に左右反転した「なぎと」が並ぶ。読みたければ鏡が要る。鏡のない家では、読むより、触れるしかない。

 青年は鉛筆を置き、ノートをそっと閉じた。閉じる手つきが、終わりの手順に似ていると気づいて、凪人は胸の奥で身構える。


 青年は、凪人の右手を取った。

 掌が上を向く。指が軽く開く。その真ん中に、彼の人差し指が降りてくる。

 何も書かない。

 ただ、滑らせた。

 字のない文字が、皮膚の上に残る。線は見えないのに、意味だけが残る。体温でしか読めない文字列が、掌の中心から腕へ、肩へ、首へ、胸の内側へ、ゆっくりと浸みていった。


 ——君は君でいてくれ。


 読み取った瞬間、喉の奥が熱くなった。

 声に出してしまえば、擦り切れる気がした。紙に写せば、薄くなる気がした。掌に書かれた“字のない文字”は、ここにだけ残る。ここに残るぶん、他の場所が少し軽くなる。軽くなることは、立ち上がる準備だと頭では分かるのに、心は重たいままだった。


 「……ありがとう」


 言えた。

 昨日の言い方ではない。今の言い方で。

 青年は少しだけ目を細めた。目じりに疲れの影が滲む。安堵と、絶望の間にある長い線。

 彼は手を離した。離すと同時に、掌の熱が消えるのを恐れて、凪人は思わず指を握り締めた。指先に、さっきの線の余熱が宿っている。


 襖がわずかに鳴った。

 母の部屋だ。

 椅子に座ったまま眠っているはずの母の睫毛が、昨日まで二度、震えた。三度目が来るのを、凪人のどこかが待っている。待つことは、期待に似ている。期待は、裏切りに似ている。


 「おい」


 声と同時に、指が差し込まれた。

 遼だ。

 約束の朝から、彼は凪人の右側にいる癖がついた。いないはずの朝にも、姿の代わりに熱だけがそこにいる気がする。今日は、姿もある。ドアの隙間から風もないのに入り込み、机の横にぬっと現れた。

 「手、貸せ」

 凪人は掌を開いた。青年が残していった熱が、空気に触れる。逃げる前に、遼が自分の人差し指でその上に字を書く。


 遼


 輪郭のはっきりした三画。

 筆圧が強い。押しつけてくる体温が、掌の筋の、名もない谷間に入り込む。

 重なる。

 青年の字のない文字と、遼の名前の文字と、自分の鏡文字と。紙と皮膚を隔てて、三つの文字が、ぐにゃりと重なった。


 掌が、じんと熱を帯びた。

 痛いわけではない。けれど、痛みよりも強く、そこにしかいられない感じがする。

 握れば消える、開けば散る。

 凪人は、自分の手をどうすればいいのか分からなくなった。閉じることで守れるものと、開くことで守れるものが、違う。違うくせに、どちらもここにいる。


 「覚えとけよ」


 遼は軽く笑った。

 「名前ってのはさ、呼ばれて初めて生きる。書かれて初めて残る。握られて初めて、痛くなる」

 「痛いのか」

「痛いくらいでいい。痛くなくなったら、もう誰のでもなくなる」

 遼は、凪人の掌を自分の掌で包んだ。二つの手の間に、さっき書いたばかりの“遼”がいる。青年の“君は君でいてくれ”もいる。ノートの“なぎと”も、紙の向こうで薄く光っている。

 「なぎと」

 遼が名前を呼んだ。

 「毎朝、俺の名を呼べ。俺も呼ぶ。約束したろ」

 「呼んで、いた」

 「今も呼べよ」

 「……遼」

 言った瞬間、掌の熱が細く震えた。呼び声が、皮膚の中で返事をする。内側から、返ってくる。名を呼ぶと、名が呼び返す。

 遼は満足げに頷き、指をほどいた。


 青年は、机の角に片手を置いて、二人を見ていた。

 近づきすぎると、火に手をかざし過ぎるみたいに、まぶたが熱くなる。離れ過ぎると、風邪を引きかけの体温のように、寒気の手前で止まる。

 「お前の名は、お前の輪郭だ」

 青年の声は、さっきより少し厚みがあった。

 「輪郭を守るために、名前を書く。書いた名前が、ここにいる理由になる。名前を持って行列に入れ。役を与えられたから歩くんじゃない。名を持って歩くから、役が生まれる」

 「役?」

 「いつか、お前が誰かの順番を“終わらせる側”になる。そのとき、名がないと、終わらせ方も選べない」


 凪人はノートを開き直した。

 さっき閉じられたページから、鉛筆の黒が微かに布に移っている。紙の白に乗る灰色の粉は、触れただけで指を染める。指が汚れれば、洗えばいい。ここでは、水は動かない。動かないけれど、洗う所作は残る。

 ページをめくり、空白の中央に大きく鏡文字で名前を書こうとした。が、止まる。鉛筆の先が紙を踏んだところで、別の衝動が先に来た。


 ——遼。

 ——母。

 ——君。


 書きたい名が、いくつも浮かんで、順番がつかない。

 順番をつければ、順番を変えることになる。誰かの後に誰かを置く。それは、誰かを手放すことに似ている。

 「迷うなら、指で書け」

 青年が言った。

 「紙は残る。皮膚は消える。消えるものから先にやれ」

 凪人は頷き、ノートの上から手を離した。自分の掌に、もう一度、鏡向きに名前を書く。今度は声に出して、なぞる。

 な、ぎ、と。

 少し間を置いて、りょう。

 そして、言葉に出せない“君”の代わりに、掌の真ん中を一度、強く押した。押した場所だけ熱が集まり、そこにしかいられない感覚ができる。


 表で、車が動かない音がした。

 動かないのに、動く前の気配だけが、窓ガラスを震わせる。

 凪人は立ち上がり、廊下に出た。遼と青年も、何も言わずに続く。廊下の突き当たり、母の部屋の襖の前で足が止まった。

 線香の香りはしない。時計の秒針の音はしている。時計は針を進めない。秒針だけが震える。


 凪人は、そっと襖を開けた。

 母は椅子に座って眠っている。頬に薄い影。唇は、何かを言いかけて閉じたみたいに固い。

 ブランケットの端を持ち上げ、肩にかけ直す。毛羽立った布の感触で、指先がいくらか落ち着く。指に残った鉛筆の黒が、少し布に移った。見えないくらい小さな汚れ。残ったものが、ここに生の跡をつける。


 凪人は、椅子の前に膝をついた。

 掌を、母の手の甲にそっと近づけ、でも触れない。触れれば、何かが終わる気がした。触れない距離でいるという選び方も、ここにはある。触れない代わりに、掌の中の“字のない文字”を思い出す。君は君でいてくれ。

 「母さん」

 低く呼ぶ。喉を通る。

 「なぎと、だよ」

 名前を名乗った。名乗るのは、橋をかける作法だ。ここから、ここまでの距離を測る手段。

 母の睫毛が、かすかに震えた。

 わずかに開いて、すぐ閉じた。

 昨日までの二度と同じ強さ。今日、三度目が来るなら、その強さが違うといい、と凪人は思った。違うことは、進んだ合図だ。


 遼が、仏間から小さな位牌を取り出して来た。

 沙織の名が、金の文字で刻まれている。

 「なあ、凪人」

 遼は位牌を胸に抱え、笑みをつくった。

 「名前は輪郭だってよ。なら、これ、輪郭の重しだな」

 「重し?」

 「浮かないようにする重し。風が吹いたら、持ってかれるだろ。名前がなきゃ、どこにでも飛んでいく。俺は、ここに置いていく」

 遼は位牌を元の場所に戻し、丁寧に向きを正した。

 「俺も、俺の名前、ここに置いてく」

 そう言って、遼は自分の胸を指差す。

 「お前に、預けた。今朝の指切りで」

 「預かって、いた」

 「忘れそうになったら、呼べ」

「呼ぶ」

 このやり取りも、何度目かの練習だ。練習をやめたくなる瞬間がある。やめてしまえば、今度は何も始まらない。始めるために、同じ台詞を繰り返す。繰り返すうちに、台詞が本物になる。


 青年は、襖の影で佇んでいた。

 「名は、手放すためにもある」

 凪人は振り向く。

「手放す?」

 「握ってばかりだと、手が開かない。開かなければ、別の誰かの手を握れない。名は、握るためのものでもあるが、開くための印でもある。開いたとき、残る形が輪郭だ」

 「開いたら、消えるかもしれない」

 「消えるぶん、進む」

 青年は、淡々とした声で言う。

「消えないぶん、止まる」


 凪人は、自分の掌を見た。

 “遼”の字の熱と、“君は君でいてくれ”の線の余熱が、まだ残っている。

 開けば風が通る。風は、止まり木のほうからしか来ない。来てほしいと願えば、風は来ない。忘れたころに、空気の層を変えるみたいにやって来る。


 母の睫毛が、二度目より長く震えた。

 凪人は息を飲んだ。

 睫毛の先が、光を拾う。

 瞼の下で、眼球が動く気配がした。

 開きかけて、閉じる。

 閉じる前より、少しだけ、開きかける角度が広い。

 指先が、ブランケットの縁を探すように動いた。

 「母さん」

 もう一度、名を呼ぶ。

 「なぎと、だよ」

 今度は、声の端が震えない。

 呼び終えた後の空白に、何かが返ってくるのを待てた。


 返ってきたのは、音ではない。

 匂いでも、温度でもない。

 ノートの紙の匂いと、鉛筆の粉の乾いた舌触りと、位牌の木の色と、遼の指の筆圧と、青年の指の体温が、いちどきに胸に重なり、そこから音の代わりに脈が強くなる。

 脈は返事だ。返事は、生だ。

 凪人は、掌をそっと開いた。


 熱が逃げる。

 けれど、全部は逃げない。

 熱の形が、薄い痕になって残る。残った痕は、立ち上がるときの支えになる。

 開いた手で、ブランケットの隅を整える。押さえる。離す。

 その所作は、終わりの手順にも似ているのに、今は違う意味を持っていた。整えることで、次の動作の場所を作る。

 「……ありがとう」

 凪人は言った。今の形で。

 母の睫毛が、三度目に震えた。

 最初より、長い震えだった。

 震えの終わりに、ほんのわずか、瞼が持ち上がった。

 白目の端だけがのぞき、すぐに戻る。

 戻る前と、戻った後で、呼吸の深さが違う。

 深くなった。

 微かに、ほんの少しだけ。


 廊下の時計の秒針が、ひとつだけ進んだ。

 カチ。

 音がした。

 凪人は振り向いた。

 秒針は、次の目盛りの手前で止まっている。止まっているのに、確かに一つ進んだ気がした。

 「三秒?」

 遼が小声で笑う。

 「いや、今のは一秒だな」

 「一秒でも、進んだ」

 凪人はつぶやく。


 止まり木から、細い影が畳に落ちた。

 風はない。

 けれど、影の輪郭が少し揺れた。

 揺れた影の中で、名前が読める気がした。

 なぎと。

 遼。

 母。

 君。

 紙に書いていない名まで、影には映る。


 遼が、皿を持って現れた。

 台所で、彼は冷え切った味噌汁の鍋に匙を入れていた。動かない水面に匙の先を沈める練習を、またしていたのだ。

 「これ、温め直したくなるよな」

 「……なる」

 「でも、今はやめとく」

 遼は匙を鍋の脇に置き、皿の上にノートを載せた。

 ノートの表紙は、使い込んだ布張り。端に少しほつれがある。凪人はそれを受け取り、再び机へ戻る。


 ページを開き、今度こそ書いた。

 鏡向きに、ゆっくりと。

 なぎと。

 少し右へずらし、遼。

 さらに下に、母。

 最後に、書けない名のかわりに、空白を残した。空白は、名を置くための席だ。席があるぶん、世界は狭くなくなる。

 「それ、何に使う」

 遼が背後から覗き込む。

 「行列の中で、読む」

 「鏡、ないぞ」

 「掌で読む」

 凪人はノートを閉じ、胸に抱えた。紙の角が骨に当たる。痛みが、また今だと教える。


 青年が廊下の向こうで合図をした。

 ——行く時間だ。

 葬列が、また通る。

 止まった町の一本だけ残った大通りを、名もない死者の列が、音もなく過ぎる。

 凪人は玄関で靴を履いた。かかとの内側に、砂がひと粒だけ入る。小さな痛み。小さな今。

 遼は、「お前の手」と言って、凪人の掌を握った。

 指先に、まだ“遼”の熱が残っていた。重なった文字は、薄くなっても、重なりの数だけ温度を持つ。


 母のほうを振り返り、凪人は一度、頭を下げた。

 「行ってくる」

 過去形では言わない。

 今の形で言う。

 返事はない。

 けれど、呼吸の深さが、一拍ぶん長くなった。


 外へ出る。

 空の色は、昨日のままなのに、昨日より少し透けて見えた。透けるのは、光ではなく、自分だ。自分の輪郭が、書いた名前のぶんだけ濃くなる気がした。

 止まり木の上で、鳥が首を振った。飛ばない。

 けれど、その目は、こちらを見ていた。


 大通りに、葬列が現れた。

 台車の黒、制服の薄い色、誰のものでもない位牌。

 列の中央あたりに、空白のような隙間がある。

 そこは、名前を書いた者が立つ場所のように見えた。

 凪人は、ノートを胸に抱えたまま、その隙間へ入った。

 遼は最後尾のそばへ。青年は、遠巻きにこちらを見ている。


 凪人は、掌を開いた。

 そこに、指で、鏡向きに自分の名を書いた。

 なぎと。

 重ねて、遼。

 指の腹が熱を帯び、皮膚の下で、何かが返事をする。

 呼んだ。呼ばれた。

 列が、わずかに呼吸する。


 列の外を、誰かが歩く気配がした。

 名のない子ども。名のない老人。名のない、昨日の自分。

 名のないものたちの輪郭は、風に弱い。風が吹けば、形が崩れる。

 凪人は胸のノートを叩いた。紙の軽い音が骨に響く。骨は、名前の場所だ。

 「俺は凪人だ」

 言う。

 「俺は、遼を呼ぶ」

 言う。

 「母を呼ぶ」

 言う。

 言葉の先が、空へ出ても、昨日へ落ちない。空気が、受け止めている。


 列の歩幅が、凪人の足に移る。

 歩幅の中に、三秒の刻みが混ざる。

 三歩歩けば、一秒。

 それくらいの遅さでいい。

 遼が最後尾から声をかける。

 「おい、なぎと」

 「……なに」

 「手、開け」

 「開いて、いる」

 「もっと」

 凪人は、掌を広げた。

 風が通る。

 風は、止まり木の方角からだけではなく、前のほうからも来た。

 列の前に立つ名前のない誰かが、振り向いた。

 振り向いた顔は、誰かに似ていた。

 凪人は、その輪郭に、いつかの“君”の形を見た。

 書けなかった名の空白が、今は空白のままで、しかし空白ごと、こちらを見た。


 掌の熱が、静かに薄れていく。

 薄れても、消えない。

 消えないぶん、軽くなる。

 軽くなるぶん、足が出る。

 凪人は、もう一歩、前へ出た。

 名前を持って。

 忘れることを恐れて、でも忘れることで守れる何かがあると、少しだけ信じながら。


 そのとき、背後で小さな物音がした。

 家の窓の内側で、椅子の足が畳を擦るような、乾いた音。

 凪人は息を止めた。

 振り返りたい衝動が、喉を塞ぐ。

 振り返らず、胸の内側で、三回数える。

 一。

 二。

 三。

 秒針が、ようやく一目盛り進むときの速度。


 遼が低く言った。

 「行け」

 凪人は頷き、前を向く。

 空が少し明るい。

 止まり木の鳥が、羽を一度だけ震わせた。

 列は、静かに進む。

 歩幅の中に、誰かの名が重なっている。

 掌の中に残る熱の痕は、もう痛くない。

 痛くない代わりに、歩くたびに少しずつ、胸の内側へ沈んでいく。

 沈むたび、輪郭が濃くなる。

 濃くなるたび、世界が、三秒ぶんだけ広がる。


 名前は、輪郭だ。

 輪郭は、守るためにある。

 守ることは、開くためにある。

 開くことは、進むためにある。

 凪人は、その順番を、ノートの中ではなく、足でなぞった。

 やがて、列の前方で、鐘のような音がした。

 ほんの一度。

 空が揺れ、鳩が一羽、飛び、また止まる。

 それで十分だった。

 今日は、それでいい。


 凪人は胸のノートを抱き直した。

 表紙の布に、すこし汗が染みる。

 鉛筆の黒は、紙の中で乾いている。

 鏡で読めなくても、掌で読める。

 掌で読めなくなっても、胸で読める。

 胸で読めなくなっても、足で読める。

 足で読めるぶんだけ、世界は動く。

 動くぶんだけ、誰かの名が、次の朝に届く。

 それが、今、凪人の知っているすべてだった。

 十分だった。

 十分だと、言い聞かせる練習を、今日も続ける。

 練習の先に来る本番が、怖くなくなるその日まで。

 名前を、呼びながら。

 名前に、呼ばれながら。

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