役目を果たせ!
「こんなに頑張ったのにぃ~」
床に顔をこすりつけたまま、しくしくと泣きじゃくるような声が聞こえてくる。
そんな彼女を前にしても、同情よりも先に浮かぶのは海よりも深い嘆きだった。
(いったい何を頑張ったっていうんだよ)
口にはしなかったが、その顔を見ればあきれ果てているのは明白だった。
無論、うつむいている彼女にその表情はまったく見えていない。残酷な現実である。
というか、そもそも頑張ったとかそういう問題ではないし、方向性がおかしい。それに色恋沙汰(?)を力押しでどうにかできると思っている時点で論外だ。
ともあれ、身の危険を寸前で回避した少年は、ひときわ大きなため息をつく。
「くだらないことに時間を使うな」
そう吐き捨てて立ち上がり、自称『恋する乙女』の残骸を見下ろす。
「自分がなんでここにいるのか忘れたわけじゃないよな?」
ぴくりとも動かない彼女に念を押すように確かめる。
「ちゃんと覚えてるわよ?」
突っ伏したまま答えると、当然のようにむくりと起き上がる。
「私達は運命の赤い糸で結ばれ……みぎゃッ?」
投げつけたクッションが彼女の脳天にスマッシュヒットし、とりとめのない妄言はそこで終わりを告げた。
「あれだけ言われてまだ言うか」
渾身の一撃を食らい、崩れ落ちたまま、彼女は動かなくなった。
「たく、いい加減『来訪者』としての仕事を果たせ」
「冗談なんかじゃないのにぃ……」
ぶつぶつとつぶやきながら這いずり近づく姿はもはや三流ホラー映画にしか見えない。
なおもしつこくしなだれかかる彼女を押しのける。
「何なんだよ、毎回……」
襲い来る馬鹿女をなぎ払い、ようやく落ち着いた少年の口から鉛のように重いため息が漏れた。
「なんでこんなことに……」
彼がなぜ縁もゆかりもない彼女と同居する羽目になったのか。
少年のいう『来訪者』とは、文字通りこの世界に『来訪したもの』という意味である。
今から八年前。
世界に正体不明の『穴』があいた。
その大きさ、直径およそ1.7キロメートル。
そんなものが出現すればところ構わず大騒ぎになりそうなものだが、その日も、そしてそれ以降も世間はいたって平穏だった。
理由は簡単。
ほとんどの人がその事実に気づかなかったからだ。
発生した『穴』は特定の人間以外には認識できず、その数も700〜800万人に一人という少なさだった。
また、気づいたとしても最初に発生したその穴ははるか上空にあったため、雲や飛行機を眺めるのと同じく生活に支障を及ぼすことがなかった。
見えない人間は存在に気づかず、見えたとしてもほんの少し風景が変わった程度で、いずれにしても誰も気にしなかったのだ。
周辺に小規模の似たような穴が存在していることが判明する。
最初の穴が特に影響を及ぼさないことが判明したこともあり、さらに小さい穴に対する周囲の反応は似たようなものだった
ただし、たとえ分からなくても空間の歪みは存在し、機能している。
むしろ位置や規模を把握することが出来ないということは、出くわしてしまうと回避のしようがないということでもあり、何かのはずみでその場所に踏み込んでしまう危険性が高い。
原因不明の失踪事件が起きれば、オカルト好きな人たちや陰謀論マニアなどがそれを嗅ぎつけ騒ぎ始めるかもしれない。それに乗じて余計な噂が広まらないという保証もない。
『業界激震!霊界への扉は実在した』などといった無責任な噂が飛び交えば、厄介なことになるのは目に見えている。
早急に現場を封鎖するか、あるいは穴そのものを消し去るのが妥当な対策に思える。そうした雑務に関しても浮羽たちエージェントの役目らしい。
とはいえ、この世界の人間でないということは、当然身元を保証できるようなものも持っていない。
戸籍などもないので、あまり目立つ行動は取れない。
所属している組織の力を使えば身分を偽装すること自体はそこまで難しくないが、生活をするうえで利益にならない。
学生にすぎない少年の前で彼女が身分を隠そうとしないのは、彼がとっくに彼女の正体を知っているからである。
正確に言うなら、接触してきたのは彼女を含めた世界の側、すなわち颯太こそが『穴』の目撃者のひとりにほかならないからだ。
そしてその監視役に抜擢されたのが目の前にいる彼女、浮羽であった。
どうして空間ではなく目撃者のほうを監視する役目が必要なのか。
別の世界が発見されたことが公になれば、世の中がひっくり返るほどの一大事だ。
コロンブスが新大陸を発見したのと同じ、いやそれ以上の騒ぎになる。
何しろ見つかったのは島どころか世界そのものなのだから。
仮に『扉』(それそれの世界の学者による共同研究機関はそう呼んでいる)の向こうにある世界が草木一本生えない荒れ果てた大地であったとしても、使い道はいくらでも思いつく。
たったひとつの発見によって、国土問題や廃棄物処理など、各国の抱えてきた諸問題を一挙に解決できてしまう。
そう考えるとまるで夢のように聞こえるが、世の中そんな甘い話が転がってなどいない。
誰かの夢が、他の誰かにとって必ずしも夢であるとは限らない。後ろ暗い野望を抱くものが存在を知れば、軍事バランスさえ崩壊させることになりかねない。
それに、向こう側の世界にこちらの先進国に相当するレベルの文明があれば、互いの世界の過激派が警戒を強め、最終的には軍事的な衝突に発展する危険性もある。
そうした懸念もあり、存在が広く知られることで社会に混乱をきたさないよう、彼らは常に目を光らせている。
彼らエージェントが接触してきたとき、颯太はその事実に震えが止まらなかった。
どこか遠くの研究所に拉致されて全身くまなく解析されて……などと、三流のSF映画じみた想像が頭をよぎったのを覚えている。
そこまでいかなくても、本来ならばどこかで事情聴取をされてもおかしくない境遇なのは事実だ。だが、そんな真似をすれば世間に異世界の存在を知られ、大ごとになりかねない。
組織といえど、街中で人ひとり拉致するのは生半可なことではない。
ならばいっそ懐に飛び込んでしまえばいい。
というわけで、颯太に対する監視役として派遣されたのが彼女、というわけだ。
国家どころか地球レベルの機密である異世界の存在を(意図的か否かに関わらず)誰かにバラしたりしないよう、こうして常に見張られているわけだ。
かといってこれまでと違う生活を始めれば周りに余計な疑いを持たれかねないので、時間的にも物理的にも拘束されることなく、それまでと変わらず普段どおりの生活をしている。
真横にいる変人を除いて。