この世は全てこともアリ
「おい、ちょっといいか」
目の前の女に向かって、彼はおもむろに切り出した。
「んん~?」
ぎしり、とソファーのきしむ音にあわせて気の抜けた声が聞こえてくる。その声からは否定でも肯定でもなく、どちらにも取れるなんとも曖昧な感情が感じられた。
抵抗の意思を奪われたように座面に寝転がったまま、色気のかけらもない薄灰色のパーカーを着た彼女は青年の言い聞かせるような口ぶりにもまるで居ずまいを正そうとしない。目深にかぶったフードの下からは寝癖のついた前髪がはみ出ていた。
ふぁ……。
なんともしまりのない生あくびとともに、リビングに一層けだるい空気が漂う。
そんなふぬけ切った相手の態度にも眉ひとつ動かすことなく、青年……真壁颯太はテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろすとフローリングの床を指さして
「とりあえずここに座れ」
とパーカーの女性に促した。
「このままじゃダメぇ?」
緊張感のかけらもない不平にも、颯太は表情を崩さない。
「いいから座れって」
だが、いくら語気を強めても彼女はまともな反応を見せようとしない。
自堕落を人のかたちで表すなら、彼女こそがまさにうってつけだ。
そんな風に青年には思えた。
そこまでやる気のなさをまざまざと見せつけられてもなお、颯太はくじけることなく語りかける。
「この際だから、一度ちゃんと話しておきたいと思って」
いつになく真剣なそのセリフを耳にした途端、彼女が身体を預けていたソファーから跳ねるように起き上がる。
「ひょっとして……」
彼女は何かを察したかのように、唐突な反応に後ずさる青年の顔をまじまじと見つめる。
「大丈夫、私もいつか来ると思ってたから」
そう言って、先ほどまでとうって変わった真剣な面持ちで男の正面に座る。
「少しは自覚があったみたいだな」
「そりゃまあ一応、立場が立場ですし」
先ほどまでとは違ったしおらしい態度に颯太は軽い驚きを覚えつつも、
「それでいいいんだよ」
平静を装って釘を刺すように告げる。
これで少しは態度を変えてくれると嬉しいのだが。
そんな一縷の望みを浮かべた青年の動きが、ぴたりと止まる。
おかしい。
何かが決定的におかしい。
こちらの話を聞く気になっているのはいいのだが、あれだけ真面目な話をすると言っているのに、何やらそわそわと落ち着かない。
そのうえ、ゆるんだ口角が上がっているのを颯太は見逃さなかった。
「私のことは気にしなくてもいいから」
「……は?」
開口一番、不可解なセリフが耳に届いた。
常日頃の本人の態度について話をする気になったはずなのに、その当事者が自分のことは気にするなと言っているわけだ。
こんなものはどう考えても意味が通らない。
少年にしてみればはいったい何が起きているのかさっぱりわからないが、とうの彼女は何やら一人で納得している。
ぽかんと口を開けたままの彼をよそに、彼女の舌は滑らかさを増してゆく。
「表沙汰にはできないけど、私的には何の問題もないわ。むしろ秘密の関係のほうが燃え……」
「待てまてまて」
壊れたスピーカーのようにセリフを吐き出し続ける女の呼吸の隙間を見つけ、どうにか口を挟むことに成功する。
「お前は何を言ってるんだ?」
「何って、これからのことでしょ?」
あなたこそ何を言ってるの、と言わんばかりの顔で彼女は少年を見つめる。
「大事な話だから聞いてほしいって」
そこまでは間違っていない。
だが、内容を聞かなくてもその先が決定的に違うことは不可解な態度からも察しがついた。
「だから私もこうして話してるんでしょ?」
「何をだ」
「ふたりの将来の話」
「はあぁッ?」
ぽかんと開けた口から、思わず喧嘩を売るようなすっとんきょうな声が出てしまう。
話すべきことを話す
「同居してる男のコから話を切り出されたらそういう流れだって思うでしょ?」
「なんでそうなる?」
唐突すぎる展開に、少年は呆然とすることしかできなかった。
というか、こんなムードのかけらもない状況で、この女は本当にそんな話を切り出してくると思ったのか。
それ以前に目の前の自堕落なイキモノをひとりの女として見たことなどない。
切れ長の瞳に長いまつ毛、鼻筋の通ったその顔立ちは、見た目だけならば確かに『美女』という範疇に括れるといっても差し支えないのかもしれない。
だが彼女の場合、そこに付随するアレやコレが全てを台無しにしている。それも致命的なレベルで。
化粧っ気もなければ髪の毛も整えず、いつもこんな風に寝っ転がってゲームをしたりテレビや漫画を見ているだけ。
読んだ後の本やリモコンも出しっぱなしで片づけようとしない。
緊張感のかけらもないだれた空気は、無理を通せば腐れ縁のカップルに見えなくもない。
見た目がどれほど整っていようと、こんな調子で三日も一緒に過ごせば、そのズボラすぎる素顔にひときわ深いため息を漏らすことになる。
本来は細かいことにいちいち小言を挟むような性分ではないのだが、ここまで聞き分けがないとひとこと申さずにはいられない。さながら小学生の子供を持つ母親にでもなった気分だった。
「いつまでもこのままじゃいけないとは思ってたのよ。でも、いざとなると勇気が出なくて……でも、だからこそ言ってくれたのよね」
「お前、酔っぱらってるのか?」
あからさまに脱線しはじめた話の中身に思わず語気が強くなる。
「失礼ねぇ、こんな大事なこと飲んだ状態で言うわけないじゃない。シラフに決まってるでしょ」
(いや、どっちかというとそのほうが問題なんだが)
素でこんな調子なら始末におえないと、思わず心の奥でツッコミを入れる。
そんなことを指摘したところで今さら自らを省みるようなタマではないことは分かっている。
「ひとの話の中身を勝手にねじ曲げるな」
「そんなにムキにならなくても……」
そこまで口にした後、はっと何かに気づいたように大仰なリアクションで胸に手をあてる。
「ごめんなさい、私のせいで……」
彼女の口からしおらしいセリフが飛び出したことに驚きを隠せないまま、彼女を見つめる。
――が。
「私のせいで若さゆえのパトスをもて余しているのねっ?」
目を爛々(らんらん)と輝かせながら、彼女は獲物を狙うケダモノのごとくにじり寄る。
「は、はぁッ!?」
「そうよ、だからイライラしてるのね。ちゃんと発散しなくちゃ」
「おま、何をとち狂ったことを……」
「恥ずかしがらなくていいのよっっ!」
これから歌劇か何かでも始めるかのように立ち上がり、やたらと大げさに振る舞う。
いつもならこんな馬鹿げたやり取りをまともに取り合う必要はない。
だが。
(まずいぞ)
彼女の醸し出すただならぬ空気に気づく。
口ぶりだけは冗談めかしているが、目の奥が笑っていない。
そんな不穏な表情を貼り付けたまま、彼女は不安に駆られる少年の方へとにじり寄る。
「ほら、私ならいつでも構わな……おぶぅっ?!」
こみ上げる衝動のおもむくままに濃厚なるヴェーゼを求めようとする女の頬に見事な裏拳がめり込む。
「ろぉして……」
拳と顔面の隙間から、到底ヒロインとは思えない悲鳴が漏れる。
ぼふんっ、と顔からソファーの座面に突っ伏した女は、そのはずみで転げ落ち、床に半分身をはみ出させた無様な格好で横たわる。
物干し竿からずり落ちた洗濯物のようなその姿はなんとも形容しがたい憐れみを抱かせた。




