61 直向佑珂と弱虫の決別【6】
十二歳の誕生日は心地のいい秋晴れだった。熱が引いても咳が止まらず、マスクをつけて登校してきた佑珂は、教室に入るやいなや叶子たちに取り囲まれた。彼女たちは口々に「今日って誕生日だよね?」と佑珂を詰問した。恐々と佑珂がこうべを垂れると、みんなは一斉に同じ色の溜め息をもらした。
「違ってたらどうしようかと思った」
「ね。だって教えてくれないんだもん」
「名簿に今日って書いてあったから誕プレ用意してみたけど、そもそも何が欲しいのかも分かんないしさぁ」
聞けば佑珂が風邪で休んでいる間に、30人31脚の大会事務局が理紗先生に連絡を取り、名簿の提出を要求してきたらしい。最終的な出走者の人数を把握するためだという。そこで理紗先生は急遽、名前や生年月日、出席番号などの情報を一覧にした名簿を、実行委員と手分けして作成した。名簿作りの作業に携わった叶子は、そこで思いがけず、佑珂の誕生日が十月一日であることを知ったのだった。
「病み上がりで悪いけど、実行委員、まだまだ忙しくなるよ。アピールビデオとかいう動画の提出がまだ済んでないですって、先生が大会事務局に怒られたみたいでさ」
理紗先生に目配せを送った叶子は、ふっと苦笑いを消して、リボンで包装された箱を佑珂に押し付けた。
「回復が間に合ってよかったよ。誕生日おめでとう、佑珂」
さりげないシンプルな言葉選びが、こういうときはかえってじんと胸に沁みる。佑珂はもういっぱいいっぱいで言葉を返すこともできずに、手作り包装の箱を押し戴いた。そっとリボンを引き抜き、開封してみる。姿を現したのは可愛らしいデザインの財布だった。わざわざ小田急線で原宿近辺まで出向いて買ったものだと叶子たちは胸を張った。
遅れてやってきた理紗先生は、ビニール包装に入れられた一枚のTシャツを手にしていた。黒を基調とした大柄のシャツで、表には未由のデザインしたイラストと【TO GOAL】の文字、裏側には理紗先生を含む三十三人の名前とともに【50m みんなで走れば怖くない】の一文が印字されている。康介の発案で挿入した一文だ。貴明や明宏が「そんな諺ねーよ」「【50m みんなで走っても怖いものは怖い】にしようぜ」などと茶化していたのを思い出す。ともかくクラスみんなで中身を決めた、岩戸小六年一組チームの制式ユニフォームだ。
「すごい。かっこいい」
「実物は印象が違うでしょ。先生もすごくかっこいいと思うよ」
理紗先生はまっすぐに佑珂を見た。誕生日おめでとう、と言おうとしたのかもしれない。しかしそれをいったん飲み込んで、先生は優しく目を細めた。
「おかえり。……佑珂ちゃん」
とっさに佑珂は聞き間違いを疑った。耳の調子が確かなら、先生はいま、初めて佑珂を下の名前で呼んでくれた。基本的に苗字以外で他人を呼ぶことのない理紗先生が、初めて──。
真意を問いただす勇気はない。
そんな必要もないのかもしれない。
あふれかけた涙を飲み込んで、佑珂はクラスTシャツの包装を抱きしめた。
「ただいま、理紗ちゃん先生」
先生は目を丸くした。
今はまだ、ただの意趣返し。けれどもいつか必ず、可愛らしい愛称で呼び合えるくらいの親密な関係を築いてやる。佑珂の健気な決意を理紗先生はきっと知らないはずだ。先生が佑珂の身を案じていたことを、佑珂自身が知らなかったように。
土井さん。
やっぱり私たち、一緒だね。
私だって気づかなかったんだもん。ここに帰る場所があって、迎え入れてくれる仲間がいて、ひとりで抱え込む必要なんてなかったこと。私を大事に想ってくれる人が、ちゃんとここにいてくれたこと。ぜんぶ、ぜんぶ、土井さんが教えてくれたんだよ。
何食わぬ顔で漢字のテキストを解いている桜子を佑珂は振り返った。クラスTシャツの裏面には、桜子の名前も、佑珂の名前も、それから理紗先生の名前も見当たる。同じ場所に名前が並んでいるだけでこんなに嬉しい。たとえ暗闇の中で帰る場所を見失っても、このTシャツが六年一組という共同体への所属を揺るぎなく証明してくれる。みずからの意思でクラスへの仲間入りを望み、たったひとりで奮闘を続けた佑珂は、今、ようやく六年一組の教室に帰るべき場所を見出だした。同じ願いを抱く仲間と手を取り合えたのだ。
あんまり嬉しかったものだから、トイレにこもってこっそりクラスTシャツに着替えてみた。戻ってきた佑珂を見てみんなは笑った。「やっぱ着替えたくなるよな」「わたしも着てきちゃった」などと同意しながら、文李や夕那が上着をめくってクラスTシャツを見せつけて、またもみんなの笑いを誘った。先生も笑みをこぼしていた。教室の片隅でテキストを解きながら桜子も笑っていた。めったに頬を崩すことのなかった二人の屈託ない笑みに当てられて、きゅんと縮まった胸を佑珂はそっと労わった。
リビングのカーペットに座り込み、風呂上がりの髪をタオルで巻いて乾かしていると、バイブレーターの微音がかすかに空気を揺らし始めた。
「誰のかしら」
「佑珂の携帯だろう。僕のじゃない」
キッチンで皿を洗う母の声に、父がビールを呷りながら応じる。充電器につないでいた携帯電話を探しに行くと、画面には見覚えのある電話番号が浮かんでいた。ちょっぴり動転しながら佑珂は携帯電話を手に取り、問いかけた。
「もしもしっ……」
──『ゆうちゃん!? 久しぶり! 番号これで合ってたんだねっ』
電話口の少女は声を弾ませた。感激のあまり携帯電話を取り落としかけて、佑珂は喘ぐように「れいちゃん」と名前を呼び返した。
千葉玲子、小学六年生。八丈町立坂上小学校に通っている、かつて佑珂の友達だった少女だ。以前は佑珂の通う町立坂下小学校の学区に住んでいて、引っ越し後も学区を跨いでの交友が続いていた。
──『もう大変だったんだよぅ。電話番号わかんなかったからさ、先生に家電の番号を聞いて、ゆうちゃんのお母さんに電話して、ゆうちゃんの電話番号を聞き出して……』
興奮した様子で玲子は畳みかける。そこまで迂遠な手間をかけなくとも、家に電話をかけて佑珂を呼び出してくれればよかったのに。息災の旧友に訝りかけたところで、違う、と佑珂は思った。手間の問題じゃない。玲子は純粋に、佑珂自身との連絡先を確保しようと願い、行動に移してくれたのだ。
──『今日、誕生日だよね! おめでとうっ』
「あ、ありがとう」
──『去年はお祝いしなくてごめんね。連絡先も分かんなかったし、向こうで楽しく暮らしてるのかなーって思ったらちょっぴり気が引けちゃって』
「そんな、私だって……。れいちゃんの誕生日、去年はお祝いできなかったし」
──『へへ。じゃあこれで元通りだねっ』
たった二言のやり取りで関係修復が済んでしまうところに、十年もの月日を一緒に過ごした絆の深みをしみじみと痛感する。佑珂は決して忘れられてはいなかったのだ。緩みかけた目を何度もしばたいて、佑珂は「うん」と携帯電話を握りしめた。
──『大都会の生活には慣れたの?』
無邪気に玲子が尋ねてくる。本土から三百キロ近くもの距離を隔てた島に暮らす玲子にとって、本州の東京地方はどこも「大都会」という認識らしい。きらびやかなビル群とは無縁の閑静な狛江の街へ玲子を連れ込んだら、一体どんな反応を見せてくれるだろう。佑珂は可笑しい気分になって、歌うように答えた。
「もう慣れっこだよ。電車とバスでどこにだって行けるもん。お台場とか銀座とか浅草とか、高尾山とか」
思いついた観光地を適当に並べたが、まだ、どれにも行ったことはない。そのうち遠出をする勇気も出てきて、いずれは自分の足で東京という大都市の全容を掴む日が来るだろうと思う。ここでは何をしたって自由なんだよ──。広大な関東平野の空を見上げるたび、東京の街はそういって佑珂に微笑みかける。その微笑みに応じるも応じないも、佑珂次第だ。
──『すごいなぁ』
玲子は少し、声に元気をなくした。
──『なんか、ゆうちゃんのほうが先に大人になっちゃったみたい』
「そ、そんなことないよ。住んでる場所なんて関係ないじゃん」
──『でもきっと、わたしの知らないこともたくさん知ってるんだろうし。都会にあって島にないものなんて、ゆうちゃんの目から見てもたくさんあるでしょ?』
玲子が何よりも知らないのは、未知だらけの街へ飛び込むこと自体の恐ろしさや、つらさや、孤独の深さじゃないか。とっさに佑珂はそう思ったが、それをじかに訴えたところで埒が明かないとも思った。だから、そっと肩の力を抜いて、首を振った。
「まだ知らないこともたくさんあるよ。新しい友達とも打ち解け切れてないなって思うし、みんなのことはもっともっと知りたいし」
──『そっか。そっちにもちゃんと友達いるんだね』
「いないと思ってたの?」
──『もしかしたら友達できてないかもなーって心配してた。だってほら、ゆうちゃんって引っ込み思案なところあるし……』
ぐうの音も出ない。否応なしに浮かんできた奇妙な苦笑いを佑珂は噛み砕いた。さすがは元親友、佑珂の人柄を正確に見抜いている。
──『でも安心したよ。元気に暮らしてるんだね、ゆうちゃん』
ほっと玲子のついた吐息が、受話器を伝って耳元に流れ込んだ。
よもや、つい前日まで風邪を引いて寝込んでいたとは言えない。誤魔化しの咳払いをひとつして、佑珂は携帯電話を耳に押し付けた。伝わるはずはないと分かっていても、この身体の温もりが旧友に届いてほしいと思った。
「私、頑張ってるよ」
思えば紆余曲折を繰り返し、迷い続けた一年半だった。みんなの仲間になりたい一心で取り組み始めた30人31脚は、自転車操業の時期を何度も乗り越え、いまも大会本番に向けて最終調整を続けている。五月下旬に練習を始めて以来、何べん30人31脚のために泣き、苦しみ、滲んだ血を噛みしめて走り続けたか分からない。それでもこの営みは決して無駄ではなかったと、練習漬けの日々を通じてたくさんの人たちに教えてもらった。たとえどんなにつたない足取りでも、小さな声でも、寂しい未来を変えることはできるのだと学んだ。
福島家の長女として。八丈島育ちの狛江市民として。あるいは、岩戸小学校六年一組の欠かざるべき仲間として。譲れない誇りを胸に燃やし、佑珂は一組の先陣に立ち続ける。そうしていつか、臆病だった自分の面影を抱きしめて、そっと過去へ送り出してあげたいと思う。
それが、佑珂の頑張る理由だ。
──『わたし、高校生になったらそっちに行こうと思ってるんだ。島の高校も悪くはないんだけど、せっかくだから外の世界でも暮らしてみたいなって思って』
玲子の声が明るくなった。くしゃっと顔を歪める彼女の独特の笑顔を、佑珂は懐かしく思い返した。
──『そしたらゆうちゃんに街案内とか頼んじゃうから、今から東京に詳しくなっておいてね』
「まだ三年も先だよ」
──『いいじゃん! 先のことを考えてた方がきっと楽しくなるよ。ゆうちゃんもわたしのこと楽しみにしててよ』
「れいちゃん、まだ絵本とか描いてるの?」
──『描いてるよっ。クラスの子にマンガ描くのにも誘われて、色々お手伝いしてる。背景描いたりとか色塗ったりとか……』
「じゃあ、れいちゃん手製の絵本を楽しみにしてよっかなぁ」
──『わたし自身のことは!?』
電話口で玲子が悲痛な声を上げた。いたずら心が膨らんで、佑珂は電話にかじりついて畳みかけた。
「あとね。私、今度テレビに映っちゃうかも──」
旧交を温める話題には互いに事欠かなかった。見上げた時計が午後九時を回っても、父や母が「おやすみ」とささやいて一足先に部屋へ戻っていっても、佑珂は電話を手放さなかった。撮影者は一足先に寝てしまったが、できることならクラスTシャツを羽織った姿を写真に収めてもらって、大好きだった友達のもとへ送ってあげたいとさえ思った。
玲子だけじゃない。お世話になった無数の人たちに、手っ取り早く、成長した佑珂の姿を見せてあげたい。それにはやはり全国大会に進出してテレビに映るのが早道だろう。
そのためにも。
頑張ろうね、私。
明日も、あさっても、堂々と胸を張って。
澄んだ月夜を佑珂は見上げた。窓ガラスに映ったパジャマ姿の自分は、以前のように小柄で臆病なだけの弱々しい少女ではなくなっていた。
「俺たち二人で上手くやるよ」
▶▶▶次回 『62 驀進康介と信頼のカタチ【1】』




