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57 直向佑珂と弱虫の決別【2】

 



 風邪じゃない、練習を抜けたくないと何度も申し立てたのに、宛がわれた体温計は佑珂に情けをかけてくれなかった。ディスプレイに浮かんだ三七・九度の表記を見るや、保健室の松本先生はただちに練習中止を言い渡した。冷え切った真っ白なベッドに佑珂は押し込まれ、しばらく休んでいるよう厳命された。

 窓の向こうでは合同練習が続いている。1,2,3,4,5,6,7、8──。息の合った掛け声が壁で反響して、保健室の奥にまで届く。汗の染みたシャツが肌に貼り付いて気持ち悪い。道理で肌寒いと思ったはずだ。気温が下がったのではなく、佑珂の体温が上がっていたのだった。もぞもぞと布団の中で姿勢を変えながら、佑珂は枕元に腰かけた松本先生の顔のしわを数えてみた。

 十六本。

 前より少し、増えた気がする。


「六年生にもなって自分の体調変化にすら気づかないなんてねぇ、まったく……」


 松本先生は大袈裟に溜め息を漏らした。


「いつから熱っぽかったのかしら。関節痛は? 身体の怠さは?」

「よく分かんないです……。なんとなくぼんやりしたり、寒いなって思ったりしてはいたんですけど」

「ま、見たところ感染症の類いではなさそうだし、発症のタイミングは別にいいわ。ゆっくり安静にして養生すること。必要なら親御さんに連絡して迎えを頼むからね」


 バインダーに挟んだカルテを書き終え、松本先生は立ち上がった。せっつかれた佑珂は「あのっ」と声を上げた。


「私、明日は練習しても……いいですか」


 疲れのためか、それとも熱に水分を奪われたのか、ひどく干からびた声だった。それもしまいには尻すぼみになってしまった。返答の内容は想像がついていた。果たして、松本先生は目をまん丸に見開き、「バカおっしゃい」と喝破した。


「風邪が治らないのに30人31脚なんて言語道断です。ただでさえ危ない運動だっていうのに! 明日までに熱が下がって体調も万全にできるというなら認めてあげるけど、残念ながらそんなことは絶対にないだろうね」

「そんな……」

「そんなに悲壮な顔をしないでちょうだい。あなたの身体を思って忠告してるんだよ」


 そんなことは百も承知だ。松本先生に害意があると思ったわけではない。先生はみずからの職務に忠実で、その職務に従って怪我や病気から子どもを守りたいだけなのだ。けれどもその思いやりが、子ども自身の願いと同じ方向を向いているとは限らない。

 ごめんね、みんな。

 私、まだしばらく、練習には戻れないみたい。

 布団の中で佑珂は唇を噛んだ。もうひとつ嘆息した松本先生が、大股歩きで窓際に歩み寄って、ガラスの大窓をぴしゃりと閉めた。合同練習の声はあえなく締め出され、広い保健室に静けさが染み渡った。

 練習終わりの時間になって、叶子たち実行委員と理紗先生が様子を見に来た。睡眠と覚醒の狭間でうとうとしていた佑珂は、理紗先生の顔が視界に入るや否や飛び起きようとして、またも松本先生に止められた。熱を測り直すように言われ、体温計を脇に挟んだ。計測終了の電子音とともに表示された数値は、三八・一度にまで上昇していた。


「私の監督が行き届いていなかったです。ご迷惑をおかけしました」


 理紗先生は松本先生に頭を下げ、それから佑珂にも下げた。ごめんね、福島さん。もっと早く気づいていたら休ませてあげられたのに──。あんまりにも心外なことを言われたものだから、佑珂は反論のために上体を上げかけて、またしても松本先生に押し戻された。

 理紗先生は悪くない。そもそも叶子に顔の赤さを指摘されるまで、佑珂自身も体調を崩している自覚を持たなかったのだから。それに、たとえ崩している自覚があったところで、ひとりで合同練習を抜けようとは思い立たなかったに違いない。


「ま、元気出せよな。福島が抜けてる間に俺らの最速タイム更新してやったからさ」

「そうそう! たった〇・二秒だけどね。でも二組に比べたら圧倒的だよ、うちら」


 康介や叶子がぎこちなくフォローを入れてくれる。釣られて佑珂も笑い返した。笑いながら、この内容で元気を出すのは無理だとひそかに思った。だって、これではまるで佑珂が抜けたおかげで、最速タイムを更新できたみたいじゃないか。佑珂は決して足の速い方ではないし、あながち的外れな分析とも言い切れないのがもどかしい。お前のせいでタイムが伸び悩んでいるんだと(そし)られたら、いったい誰が佑珂を守ってくれるだろう。

 早く治さなきゃ、足手まといになっちゃう。

 でも、早く治したところで、足手まといなのは変わらないのかな。

 じゅく、と音を立てて心の隅が傷み始めた。佑珂は黒ずんだ心を布団に隠して「ありがとう」と頭を垂れた。


「待ってて。急いで治して、すぐ練習に戻るから……」

「急がなくていいから確実に治してちょうだい」


 松本先生の余計な口添えがみんなを笑わせた。大事な決意を無下にされた気がして、悲しくて、情けなかったのに、佑珂も空気を読んで笑った。笑う以上の有効な処世術があるなら知りたいと強く思った。



 一晩ぐっすり寝ても熱が引くことはなかった。起き出すや否や体温計を脇へ挟み、電子音とともに引き抜いて画面を見た佑珂は、表示された数値につくづく失望を覚えた。三七・八度。ほとんど下がっていない。

 風邪を引くのはずいぶん久方ぶりのことだった。ことに去年の春、八丈島から本土へ渡ってきて以来、床に臥せったのは今度が初めてだ。もっとも佑珂は元来、それほど身体の頑丈な子ではない。連日にわたる30人31脚の猛練習と、実行委員としてみんなの間を駆け回ったストレスの蓄積が、知らず知らずのうちに身体へ響いていたのかもしれない。

 夏休み中じゃなくてよかった、って思うしかないんだろうな。

 あの頃はみんなもバラバラで、風邪で練習を抜けてる場合じゃなかったし──。

 布団を抱きしめ、佑珂は窓の向こうの青空を仰いだ。視界の片隅に映った壁掛け時計の針が九時をまたいでいた。休みの連絡は母が入れてくれた。一組のみんなは今頃、教室で一時間目の授業を受けている。自分ひとりがズル休みをしているみたいで、じっと無為に過ごしているだけで無性に切ない。

 早く戻りたい。

 戻りたいのに、身体は言うことを聞かない。

 頭の奥が鈍い痛みを発している。関節は思うように動かず、熱を帯びた全身はぐったりと重い。

 口にできた朝食はバナナ一本きりだった。味のしないバナナをもそもそ口に押し込んで、スポーツドリンクをちびちび飲んで、また自室に戻った。気を利かせた母が「リビングに布団ごと移る?」と提案してくれたが、あまり気乗りせずに断った。テレビやオンラインの動画サイトで気を紛らわせるよりも、今は頭を空っぽにして大人しくしていたかった。さもなければ治るものも治らないし、チームへの復帰もそれだけ遅れてしまうから。

 ベッドに潜り込み、目を閉じて息をひそめる。わずらわしい外界の刺激は消え失せて、眠りに落ちたと誤認した脳が記憶の整理作業を始める。見聞きしたあれこれの情報や光景がランダムに脳裏へ立ち現れて、整理のついた順に消えてゆくのを、ぼんやりと佑珂は感じ取っていた。不意に、迫り来る地面に倒れ込んで目を閉じるような映像が流れ出して、無意識に反応した身体が小さく跳ねた。これは昨日のやつだ、と佑珂は思った。

 ここのところ一組はほとんど大規模な転倒を経験していなかった。走り切ってゴールに飛び込むことも増え、停止合図のホイッスルが鳴っても落ち着いて足を止められる力が身に付いた。以前のように転倒原因になった子を非難する風潮もなくなり、みんなは互いを励まし合い、支え合いながら、わりあい気持ちよく五十メートルを走っている。これまでの騒動を通じて精神的に大人になったのか、はたまた走り切る実力と実績を手に入れたことで心に余力が生まれたのか、そこのところは判然としない。きっとどちらの事情もあるのだろうと佑珂は踏んでいる。

 一年前、前任の小原先生が担任を務めていた頃の五年一組と、いまの六年一組は様相が似ている。小原先生のようなカリスマはもはや存在しないが、みんなは自分たちの意思でそれなりに団結し、協力し合いながら30人31脚に挑んでいる。五十メートルを走り切れるようになった途端、一足先に走破を達成していた二組のタイムを大幅に上回ってしまったあたりに、一組の秘めるポテンシャルの高さが伺えるというものだ。一組は本来、佑珂の手に余るほど優秀なクラスだったのに違いない。これまでは折り合いも悪く、担任の理紗先生も頼りなく、潜在的なポテンシャルを引き出すことができずにいたが、これからはそうではない。みずから立ち上がって走ることを覚えた一組は、きっとどこまでも走ってゆける。

 ──そうなったら、私、置いてゆかれるのかな。

 不気味な悪寒が佑珂の身体を通り抜けた。

 理由は知らない。ただ無性に、置いてゆかれると思った。それは妄信よりも確信に近いものだった。いまや実行委員が冷淡な目を向けられることもなくなったし、そもそも親友の叶子や祥子が黙っているはずはない。必ずや佑珂の手を引き、走り続ける一組の輪に連れ戻してくれる──。そうと分かっているのになぜか、置き去りにされる予感から逃れられなかった。

 染み込んだ悪寒に冷やされた内臓がシクシクと痛んで、いっそう症状を悪化させてゆく。佑珂は黙って頭から布団をかぶり、痛みに耐えた。何も考えなかった。頭を真っ白にしていれば、この痛みから逃れられるはずだと思い込んだ。おかげで母が部屋の扉をノックしたことにも気づかなかった。布団の向こうから「佑珂」と名前を呼ばれ、重たい頭を恐る恐る出した。


「さっき高橋先生がいらしてね。佑珂の容態はどうか、って」

「え、もうそんな時間……?」

「夕方の六時だよ。お昼も食べに来なかったし、ぐっすり寝てたんじゃない」


 泡を食って佑珂は窓を仰いだ。紫色の薄暮の空をカラスが渡ってゆくのが見えた。練習後に塾へ向かう子の事情も考え、30人31脚の練習は午後六時前には打ち切られる。道理で理紗先生が来たわけだ。


「まだ、いるの」

「先生はもう帰られたよ。佑珂も寝てたし、無理に起こして話をさせるのもと思って、面会は断っておいたの」


 ちっとも嬉しくない配慮だ。むっと頬を膨らませたら、母の人差し指につついて割られてしまった。「その顔をすると思ってた」と、母は哀れみ深い眼差しで苦笑した。


「先生がね、クラスTシャツが届いたっておっしゃってた。休み時間にみんなへ手渡したから、渡せてないのは休んでる佑珂だけだって」

「もう届いたんだ」

「お母さんも実物は見てないけど、すっごく格好いいデザインになったんだってね。早く佑珂の着るところが見てみたいわ」


 母の反応は実に無邪気だ。なんとなく、皮肉のひとつでも口にしたくなって、佑珂は布団に口元を埋めた。


「クラスTシャツなんて似合わないかもよ、私」


 明言したらダメージを受けるのは自分自身だと分かっていた。分かっていても口にしたのは、心の悲鳴を誰かに聴いてほしかったからかもしれない。だが、母は深く踏み込むこともなく「似合うよ」とだけ微笑して立ち上がり、ドアに向かってしまった。


「晩ご飯、食べられそうだったら声をかけてね。お父さんが仕事帰りに美味しいものを買ってきてくれるみたいよ」


 どうせ食べられやしないのに。浮かんできた本音の黒さに気が引けてしまって、佑珂は黙ったまま母の背中を見送った。溜め込み続けてきた疲労の大きさをあげつらうように、まぶたがそっと、重みを増した。






「暑いからちょっと中に入れてほしいんだけど」


▶▶▶次回 『58 直向佑珂と弱虫の決別【3】』

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