↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/63

56 直向佑珂と弱虫の決別【1】

 



 二十五年前、民放の番組内企画のひとつとしてスタートした30人31脚という競技は、その出自とは裏腹に多くの小学生たちを巻き込んで華々しい記録を作り上げた。

 現在の最速記録は、二〇〇五年の地方大会で記録された八秒八〇とされている。この数値はギネス記録にも登録され、30人31脚という独特の競技は登録を通じて世界中に知れ渡った。全国大会の舞台に限っても歴代最速記録は八秒九七に達しており、このタイムを破ることのできたチームは目下のところ確認されていない。また、この記録を含む全十四大会の優勝校の平均タイムは九秒二八となっている。九秒台後半のタイムで優勝を果たしたのは黎明期である第二回大会の優勝校だけで、残りのチームは軒並み九秒台前半を記録し、しかもその記録は回を重ねるごとに八秒台へと漸近しつつあった。

 番組終了から十二年が経ち、今年度の参加校がどれほどの走力を引っ提げて参戦してくるのかは分からない。だが、どれほどのタイムを刻めるチームが地方大会を突破して全国へ進出できるのか、過去の記録から読み取ることはできそうだ。

 一組の最速記録は現在、十秒六二。以前に比べればタイムも大幅に向上している。けれどもこのままでは東京大会は突破できない。最低でも十秒台前半、欲を言えば九秒台くらいまでタイムを向上させたい。さもなくば地方大会を突破できたとしても、その先の全国大会で凡退を喫する羽目になる。

 残りわずかな期間で、どこまでスパートをかけて本番に臨めるか──。

 一組のあいだには次第に暗黙の焦燥感が垂れ込もうとしていた。それはとりもなおさず、一組が目の前のタイムの向上に一喜一憂するだけでよかった無邪気な段階を抜け出し、本格的に大会を見据えて調整できる段階へ進化したことをも意味していた。



 勢揃いの靴音を響かせ、二組がゴールマットに飛び込んでゆく。ぼふっ、と柔らかく立った土煙の向こうで、ストップウォッチを構えた志穂が「十一秒三三」とタイムを読み上げた。


「おー。今日一番の記録じゃね、あいつら」

「うちらも負けてらんないね」

()()()()()()()だろ。ここまで三回走って全部、一組の方が早いタイム出せてる」

「そーいうこと言ってるんじゃないんですけど。ほんと頭が固いよな、川内(おまえ)

「どうせ人間スパコンだし……」

()ねんなってー。めんどくさいなぁ」


 叶子の細長い指に脇腹をつつかれた稜也が「ぬゎ」と奇声をあげてのけぞる。近頃の叶子は稜也いじりに余念がないようで、堅物の稜也は叶子のあれやこれやに翻弄されっぱなしだ。稜也のいじられ体質が露見したのか、それとも叶子が前より社交的になったのか、そこのところは定かじゃない。練習の雰囲気が良くなるぶんには何でも構わない。

 ちょっぴり肌寒くなった風が、体育着をくぐり抜けて汗ばんだ佑珂の身体をくすぐる。そっか、もう秋なんだな──。肩を縮めた佑珂は深呼吸をひとつして、秋晴れの空を見上げた。傾いた陽を浴びて黄色く萌える校舎の壁に、スタート準備を促す朱美や春菜の声が反響する。慌てて足紐を持ち、ばたばたとスタート地点へ急いだ。

 九月二十八日、火曜日。

 互いの走力向上を図るべく、一組と二組は放課後に通算四回目の合同練習を実施しているところだった。


「さっきの二組のランを見ていて思ったんだけど」


 集合した一組のメンバーを前に、理紗先生が切り出した。長袖のウインドブレーカーを羽織った先生は佑珂たち以上に寒そうだった。佑珂たちと違って走らないのだから無理もない。


「二組の子たち、かなり姿勢を低くして走ってたでしょ。あの走り方をみんなも取り入れられないかなって思うんだ。空気抵抗も減るし、なにより重心が低い位置で安定するから、走っている最中に身体のバランスを崩しにくくなるはずなの。多少は走りにくくなるかもしれないけど……」

「よく分かんない。つまりどんな感じの姿勢ですか」

「そうだね。実践してみるのが早道かな。ちょっと土井さん、出てきて」

「嫌ですよ! なんでうちが見世物にならなきゃいけないの」

「言い出しっぺの法則だろ」

「そうだよ、ほら早く前に出て前に出て!」


 夏海や明日乃たちに背中を押された桜子が、むず痒い面持ちをしながら理紗先生の隣に立った。逃げる間もなく理紗先生は桜子と足を結び、肩を組んでしまった。いやいやながらに応じた桜子が、先生の腰へ手を回す。「こんな風に……」と独り言ちながら、理紗先生はゆっくりと身体を前傾姿勢に持ってゆく。


 ──『いつもいつもニコニコ笑ってるばっかりで何の役にも立たないくせに、こういう時だけ知ったような顔で出てこないで!』

 ──『うちらは今、うちらの問題を自力で片付けてる最中なんだよ!』


 いつかの桜子の絶叫が耳元を吹き抜けた。あの夏祭りの夜、頼りない担任の関与を血走った目で撥ねつけた桜子の面影を思い返すと、いま目の前で試行錯誤している桜子はまるで根っからの別人みたいだ。得も言われぬこそばゆさを覚えて身を縮めていたら、隣の叶子が「どうしたの」と眉をひそめた。ううんと佑珂は首を振って、口角を上げた。


「なんか、嬉しいなって」

「先生と桜子が仲良くしてるのが?」

「そうだけど、それだけじゃないよ。なんていうか、ぜんぶ」

「ふうん」


 思うところでもあったのか、叶子も同じように口角を上げた。こういうとき、表現力や語彙力が及ばないばかりに自分の感慨を上手く伝えられないのが、佑珂にはどうにももどかしい。言葉にならない心の深淵を読み取ってくれる叶子は優しい人だと思う。ぶっきらぼうで、言葉使いも粗くて、はじめはちょっぴり取っつきにくいけれど。

 人間は第一印象がすべてじゃない。言葉を交わし、触れ合い、ともに同じ時間を過ごす中で、第一印象は少しずつ垣間見えてきた本性に更新されてゆく。もちろんそれは親交が深まることとイコールではないけれど、互いの素性を知って愛し合い、あるいは憎み合う関係は、上っ面の浅い印象だけで結びついている関係よりもはるかに強固のはずだ。


「──そう、こんな感じ。ほどよく腰を落として、上体を少し傾けるの。上目遣いになれば前も無理なく見えるでしょ?」

「確かにこんな体勢で走ってたな、二組のやつら」

「ねー桜子、しばらくそのままの姿勢でいてよ。頑張ってポーズ覚えるから」

「ぜったい動くなよ」

「そんだけ見てたら覚えたでしょ! もう終わり! 先生も手ぇほどいてよっ」


 言うが早いか桜子は足紐をもぎ取り、一足先にスタートラインの方へ歩き出してしまった。すれ違った彼女の頬は桃色に赤らんでいた気がする。口々に「照れてない?」と噂し合いながら、一組のみんなもぞろぞろと続いてゆく。五十メートル先のゴールマットが蜃気楼で揺れている。両隣のメンツを確認してスタートライン上に立った佑珂は、足紐のマジックテープを剥がして、そっと巻き付けた。またも吹き抜けた冷たい風が、ぴったり隣り合う仲間の輪郭をいやに際立たせた。

 こうして一列に並び、足紐で互いを結わえると、傍目には強固な絆で結びついたチームのように見える。内実を知っているのは当事者だけだ。ほんの数週間前まで、一組はチームの皮をかぶった烏合の衆に過ぎなかった。それが今はどうだろう。あのころみんなに存在ごと拒絶されていた理紗先生はアドバイザーとして正常に機能し、志穂や克久も戻り、つっけんどんだった桜子たちも態度を軟化させ、一組は名実ともに本物のチームになろうとしている。五十メートル走れるか、空中分解を防ぐにはどうすればいいかを思案することなく、タイムの向上を念頭に置いて練習できるようになったことからも成長は明らかだ。

 スターターの子が「位置について」と声を張り上げる。左足を下げて上体を前傾させ、スターティングスタートの姿勢を作る。両隣には無数の同級生の顔が並んでいる。今しがたの浮ついた空気をどこかへ捨て去り、精悍な色の光でゴールを見据える仲間たちの姿に、見えない理紗先生の面影を佑珂は重ねた。理紗先生は一組の背後にいて視界には入らないが、きっと同じように真剣な眼差しでゴールを見据えているはずだと思った。

 あのね、先生。

 私、すっごく嬉しいよ。

 先生が一組に戻ってきてくれたこと、それをみんなが受け入れてくれたこと。そうして今、一緒に練習を積んで、同じ未来を見ていられること。どれもこれも一昔前の私には夢みたいで、いまでもちょっと信じられない。だけどここは現実なんだよね。

 見えない理紗先生に語り掛けた矢先、「ドン」の号令とともに手が振り下ろされた。すぐさま地面を蹴り、駆けだした。四本目の全員ランもスタートは好調だった。踏み込んだ地面から伝わる衝撃を低姿勢の腰で受け止め、蹴り上げた砂粒に受け流して、次の一歩への推進力につなげる。「1、2、3、4、5、6、7、8」──テンポのいいリズムが口元から弾けて、目の前の地べたに一歩、一歩、踏むべき足跡の位置を投影する。

 このままどこまでも駆けてゆきたい。

 絆を取り戻した一組の仲間たちと、心の垣根をなくしてくれた理紗先生の歩む日々を、いつまでも優しい心持ちで眺めていたい。

 30人31脚への挑戦が終われば、この絆も親愛も元のように失われてしまうのだろうか。そんなのは絶対に嫌だ。このチームが一日でも長く続いてゆくために、東京大会の突破は必ず成し遂げなければならない。だから神様、どうかお願い。全国大会の幕が下りる日まで、私に夢を見させてください。私たちを決勝の舞台まで連れていってください──。

 浮ついた心が視界までも浮つかせる。おぼろにかすんで見えたゴールマットの輪郭が、一瞬、大きく歪んで、二重にブレた。佑珂の頭はみんなのことでいっぱいだった。低姿勢で安定させたはずの上体がついてゆけなくなり、もつれた足が脱力して滑ったことにも気づかなかった。たちまち、理紗先生のホイッスルが空気をつんざく。本能的に危険を察知した身体が、倒れ込んだ先の地面に手をついた。


「痛っ……!」


 佑珂はやっとの思いで叫んだ。嗄れ果てた喉が上手に声を発しなかった。はじめは痛みのせいかと思った。ここのところ滅多に転倒していなかったせいか、心が適切な転び方を忘れてしまっていたみたいだ。サポーター越しの膝に、すねに、肘に、鋭く鈍い痛みがしんしんと染みる。


「みんな大丈夫かよ!」

「足紐ほどくの手伝って!」

「痛い痛い痛い! もっと丁寧に外せよな」


 口々に言い立てながらみんなは起き上がった。転倒を免れた子たちも続々と駆け付けてきた。顔ぶれを見る限り、巻き込まれて転んだのは佑珂を含む右サイドのメンバーだけで済んだようだ。ほっと抱きかけた安堵はたちまち黒く変じて、痛みをこらえながら佑珂も立ち上がった。

 転倒の原因は分かっていた。

 余計なことを考えていて、ちゃんと前を見ていなかった。


「ごめんなさい。いまの転倒、私のせいだ。ぼんやりしちゃってて……」


 神妙に頭を下げた佑珂を、みんなはことさらに非難しなかった。「ドンマイ!」「戻って次やろーぜ」と声を掛け合い、理紗先生たちの待つスタートラインへ戻ってゆく一組の背中を、顔を上げながら佑珂は見つめた。許されたとは思わなかった。ただ、みんなが寛容になったのだと思った。黒く変じた安堵は元には戻らず、大人しく足紐を握って佑珂もあとに続いた。


「大丈夫?」


 背後から駆け寄ってきた叶子が隣へ並んだ。叶子も転倒に巻き込まれ、今しがたまで躍起になって足紐を外していたのだった。


「叶子ちゃんもごめんね。私、もっとしっかりしなきゃ……」

「別に怒ってないし。ていうか、佑珂がぼんやりするなんて珍しいじゃん」

「そうかな。分かんないや。ちょっと疲れてるのかも」

「……ちょっと待って」


 叶子の声が不意に低くなった。

 素直に立ち止まった佑珂の額へ、おもむろに叶子が手をやった。その行動が何を意味するものか、とっさに佑珂は察することができなかった。普段の佑珂ならば容易に察せられるはずだった。手のひらを離した叶子が「やっぱりそうじゃん」と呻くのを、白けたままの頭で聴いていた。


「佑珂の顔、ずっと赤いなって思ってたんだ」


 叶子は言った。


「保健室に行こう、佑珂。熱っぽいよ」






「クラスTシャツなんて似合わないかもよ、私」


▶▶▶次回 『57 直向佑珂と弱虫の決別【2】』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。