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55 葛藤稜也と夢の両立【5】

 



 東京大会の期日は十月十六日に迫りつつあった。

 少しでも練習時間の不足を補おうと、早朝練習が導入された。朝七時半に集合して体操を行い、昼休み練と同様のメニューで走力を鍛える。校庭の半分を世話人会の運営する早朝サッカークラブが占領しているため、五十メートルの全員ランを実施することは叶わない。双方の指導を掛け持ちする朱美は、一組とサッカー少年たちのあいだを忙しなく行ったり来たりしていた。

 朝の弱い叶子は見るも哀れだった。死にそうな顔で「眠い……」とぼやきながら走っていた彼女は、休憩を言い渡された途端、崩れるように座り込んで目を閉じてしまった。今にも地面の上で眠りに落ちそうな叶子を、寄ってきた夏海たちがいじって遊び始める。


「……やっぱり、朝一番から走るのってキツそう」


 休息をとる仲間たちの姿を見渡しながら、志穂が小声でつぶやいた。腕にぶら下がったストップウォッチの照り返す陽光に目を細め、稜也は額の汗を拭った。


「まぁ……。昼休みほど暑くないから走りやすいのは確かだけど、眠いのはどうしようもないし」

「でもやっぱり、朝練を始める前に比べたら全員ランのタイムは向上してるよ。昨日のランは先週の記録を〇・四秒も更新してるし、着実に結果は出てると思う。始めてよかったんじゃないかな」

「そんなにすぐに結果が出るか? 朝練を始めて三日しか経ってないのに」

「出るときは出るよ。基礎練習には走る力を鍛えるだけじゃなくて、コンディションの調整っていう役割もあるみたいだから」

「……そうかもな」


 小声で返したら、声の主──克久も「でしょ」と小声で笑った。

 克久は志穂の隣で練習ノートに目を通していた。母親の許しを得てチームに復帰し、サポートメンバーとして30人31脚に関わり始めてから、すでに一週間近くが経とうとしている。サポートメンバーの二人は目下のところ、志穂がスターターや練習道具の管理、克久が記録係や練習記録の管理といった具合に、うまく適性を加味した分業体制を敷いているようだ。練習終わりのミーティングにも同席して、その日の練習の所感を述べたり、新たな練習の導入提案を行ったりしてくれる。近頃は練習中に声をかけて、足の動かし方や走行中の体勢などを直接アドバイスする姿も見られ始めた。克久の練習記録やアドバイスによって配置転換やタイムの向上が図られてきた事実を、一組の子たちも認識している。遠目に様子を伺う限り、みんなは克久のアドバイスをそれなりに信任しているみたいだ。


「なんかさ、一緒に走ってた頃より生き生きして見えるよ、お前」


 しゃがんで靴ひもを結び直しつつ、克久を見上げた。ノートを閉じた克久が「そうかな」とはにかんだ。


「分かんないけど、今は楽しい。ずっと30人31脚には戻りたかったし、おかげさまで勉強の息抜きにもなってるしさ」

「……走れなかったこと、後悔してるか?」

「ちょっぴり寂しいよ。でも、もともとそんなに足の速い方じゃなかったもんね。こうやって隣に立ってみんなを支える方が、僕の性には合ってたのかもしれない」


 それがどうか強がりでないことを祈りたい。丸めて結わえた靴ひもをキュッと伸ばして、稜也は立ち上がった。スズメのさえずりが頭上を越えていった。晴天の彼方から差し込んできた朝の陽光が、白砂の校庭を穏やかに照らしている。澄んだ光の粒を瞳に宿した克久は、思い思いの姿で休憩する仲間たちの様子を静かに見つめていた。


「ずっと、お礼が言いたかったんだ」


 克久はつぶやいた。


「どっちに?」

「二人とも。川内にも、市川さんにも」

「わたしに?」


 だしぬけに名前を呼ばれた志穂が肩を跳ね上げた。「うん」と小首を垂れた克久は、練習ノートを赤子みたいに抱き締めた。


「市川さんのおかげで勇気をもらえた。市川さんが一足先にサポートメンバーの形で復帰したから、僕もそういう道を選んでいいんだって思えたし。それに、先生たちに交渉を挑んだのも市川さんだったでしょ。あのときの勇敢な市川さんを見て、やっと決心がついたんだ。頑固な親と交渉して、なんとかしてこのチームに戻りたいって決心できた」


 志穂は頬を染めながらうつむいてしまった。物怖じせずに人を褒める克久の人柄は、褒められ慣れない彼女とも案外、相性がよさそうだ。サポートメンバーの二人はこれからも仲良くやっていってくれる気がする。ほのかな安堵をもてあそびながら「俺は?」と稜也は苦笑した。


現在(いま)と未来、どっちも諦めなくていいって教えてくれたのは、川内だよ」


 克久は負けじと笑いかけてきた。


「僕、別に親のことが嫌いなわけじゃないんだ。親は確かに厳しいけど、そのぶん僕に目をかけてくれてるんだってことはちゃんと分かってる。だから、本当は親の期待を(ないがし)ろにはしたくないし、ここまで来たら中学受験だって成功させたい。どうしても閏井中に行きたいってわけじゃないけどさ」

「……だろうな」

「30人31脚を頑張りたい気持ちも本物だった。最初は受験から逃れたくてのめり込んでたけど、そのうち少しずつ走れるようになってきて、タイムも上がって、やっぱり純粋に楽しくなっちゃって。でも、あの頃は受験と30人31脚の両立なんて無理だと思ってたから、親にも逆らいきれなくて、30人31脚の方を投げ出しちゃった」


 いつかの母の言葉を借りるなら、克久は紛れもなく聡明な子だと稜也は思う。どんな場面でも自分の意見を持ち、意見に筋を通すだけの思考力も備えている。ただ、悲しいかな、その意見を押し通すだけの力を克久は持たない。誰かに強く言われると抵抗の道筋を見失い、反論を諦めてしまうのだ。行きたくもない志望校を据えられたのも、30人31脚を諦めさせたのも、もとをただせば克久の押しの弱さが原因だった。練習への参加を拒まれた時、稜也にSOSを出して説得を頼み込んできたのも、きっと、みずから交渉したのでは埒が明かないことを誰よりも自覚していたから。30人31脚という目先の楽しみを理不尽に奪われた克久は、他人の力を借りたとはいえ、初めて親への反抗を試み、そして失敗したのだった。

 親の望む未来を歩むなら、30人31脚は諦めるしかない。

 袋小路でうずくまっていた自分に「両立」という可能性を見せてくれたのが稜也だったと、克久は叫んでいるのだ。


「川内はいつだって全部に全力で当たってた。30人31脚どころか実行委員まで引き受けて、そのうえ受験勉強も頑張るなんて誰が考えてもオーバーワークなのに、何一つ投げ出したりしなかった。そういう川内の姿をずっと隣で見ていて、だんだん思い始めたんだ。僕だって同じように頑張れば、受験と30人31脚を両立できるかな──って」


 克久は鼻の下を掻いた。切り揃えられた前髪の下では、二つの瞳がらんらんと燃えている。


現在(いま)と未来、どっちも諦めたくなかった。誰かの言うことだけじゃなくて、自分の気持ちにも従いたかった。こんなこと思うようになったのは初めてだよ。そんでそれって絶対、川内のおかげだよ」


 稜也は視線を落とした。こんなとき、どんな表情を浮かべるのが正解か分からなかった。大手を振って喜ぶのも、気障(きざ)な笑みで聞き流すのも違うと思った。

 実際問題、克久の心境変化にどこまで稜也が寄与したと言えるのかは難しい。克久自身が大人になって、現状と闘う力をみずから身に付けただけかもしれない。志穂の奮闘が火付け役になったのは事実だろうが、稜也は志穂に比べて大した手本を見せたわけでもない。

 でも、克久が「川内のおかげ」と口にしたのなら、もしかするとほんの少しくらいは稜也のおかげなのだろうか。


「役に立てたなら……よかったけどさ」


 いつか、誰かの前で口にした照れ隠しの文句を、もういちど口ずさんでみた。

 克久は微笑んでいる。その裏のない笑みを前にして、心の奥にささやかな温もりが染みるのを稜也は覚えた。温もりはたちどころに全身へ浸潤して、やがては首元にまで到達して、赤みとなって顔に現れ出した。照れているんじゃない。嬉しいんだ。そう自覚した途端、なんだか居ても立ってもいられなくなって、稜也は克久から目をそむけてしまった。

 稜也の努力は、ひとりの少年の生き様を変えた。目の前の友達ひとりの役に立つことすらできなかった情けない自分を、いつしか稜也は無自覚のうちに脱していたのかもしれない。そうだとしたら、それはとっても嬉しいことだ。


「トイレ行ってくる」


 そっぽを向いたまま不器用に声をかけたら、すかさず「僕も行く」と克久が言い出した。もう少し空気を読めるようになってほしいと稜也は思った。


「なんでついてくるんだよ」

「え、普通にトイレ行きたいし……。ごめん市川さん、ノート持っててもらえない?」

「うん。ここで待ってるね、わたし」

「ちょっとそこの二人! あと三分で練習再開するよー!」


 遥か遠方から朱美の声が轟いた。朝っぱら元気なことだ──と思いつつ、並んだ克久と顔を見合わせて、どちらからともなく駆け出して、稜也は校舎を目指した。首元を流れ去る追い風がひゅうひゅうと鳴った。陽の光と風に背中を押された今は、朝の(だる)さが嘘のように身体も軽くて、このまま二人でどこまでも競争してゆける気がした。



 夕刻になってもヒグラシの時雨はやまなかった。急速に暗くなってゆく黄昏空の下では、漆黒の墓石に刻まれた文字も鮮明に読み取れない。そっと指を伸ばして、彫り込まれた文字の輪郭をなぞってみる。誰かのへそをいじっているみたいで、ちょっぴりくすぐったい気分になる。

 父さん、笑ってるかな。

 たまには笑ってくれてもいいのに。

 指を引きながら稜也は墓石を見つめた。墓石には【川内家之墓】と刻印されている。稜也の父──和作(かずなり)は、この墓石の下で永遠の眠りに就いているはずだった。もっとも生前、忙しなく人のために動き回ることを生き甲斐としていた父が、大人しく墓に閉じこもっているようには稜也には思えなかった。今も稜也や母のことなどそっちのけで、みずからの役立つ場所を探して、広い東京のどこかを漂っているかもしれない。寂しいことだが、その方が父らしい。

 静謐な秋風が墓所に立ち込めている。整然と並ぶ墓石の向こうには荘厳な三重塔のシルエットが黒々と浮かんで、死者の眠りを見守る神のような貫録をうかがわせる。父の眠る岩戸山(いわとさん)永劫寺(えいごうじ)は狛江市と世田谷区の境目をわずかに超えた先、岩戸小から徒歩十分ほどの場所に位置する浄土宗の寺院で、縁起によれば約九百年前の平安時代末期、武蔵国の地方豪族であった江戸氏によって建立された由緒正しい寺であるらしい。建立当初は現在の江戸城付近にあったといわれ、(いにしえ)の東京を仏の力で守り続けてきた歴史を持つ。三重塔の貫録も伊達ではないわけだ。


「終わったね、三回忌」


 墓石掃除の道具を片付けて戻ってきた母が、喪服のほこりを払いながら嘆息した。


「ありがとう、稜ちゃん。受付のお仕事とか色々と手伝ってくれて」

「大したことしてないよ」


 稜也も真似をして嘆息した。嘆息するほど疲れているわけでもなかった。受付といったって、せいぜいわずか数人の親族に記帳を頼み、引き出物を渡しただけ。たったひとりで施主を務める母は、ほとんど稜也を放置して対応に駆け回りっぱなしだった。


「そんなことないよ。二年前、お父さんのお葬式を挙げたときに比べたら、いまの稜ちゃんは何倍も役に立ってくれてる」


 おもむろに手を伸ばした母が、稜也の頭を軽く撫でた。こそばゆくなって稜也は首をすくめた。


「二年前なんかと比べないでよ。まだ小四だったんだから」

「そうね。言い換えれば、二年間でしっかり成長してくれたってことでしょう。それでいいんだよ。お父さんもきっと稜ちゃんの成長を喜んでくれてる」

「早く立派になって母さんに楽をさせてやれ、って思ってるかもよ」

「それは稜ちゃん自身が思ってることじゃない?」


 痛いところを突かれた稜也は「まぁ……」と言い淀んだ。母は少し笑って、少し寂しげな顔をして、稜也の頭を何度も撫でた。


「お父さんは無理をしすぎちゃう人だった。それに、無理をしたって続かないことを誰よりも知っていたと思う。だから稜ちゃんにも無理を要求したりしないよ。あなたのペースで、あなたの生きたいように生きていってくれたらいいって、きっとどこかで願ってるんじゃないかな。お母さんはそう信じてる」


 薄暗い墓標には父の没年と戒名が記されている。二年前の今日、父は入院中に心筋梗塞を発症し、治療の甲斐なく急死した。死の間際、衰弱して別人のように変わり果てた父の哀れな姿を、いまも稜也は克明に思い出す。ぜんぶぜんぶ父のせいだ。立国中を志したのも、弁護士を夢見るようになったのも、病院が嫌いになったのも。

 三年前、市内で数人の死傷者を生む連続放火事件が発生した。犯人を裁く法廷に国選弁護人として出廷した父は、大罪人を(かば)ったと世間から(そし)られ、激しいバッシングによって次第に心を病んでいった。東京地裁の下した死刑判決は控訴審でも(くつがえ)せず、被告人の意向で上告も行わないことになり、みずからの仕事を成し遂げられなかったことに絶望した父は倒れた。鬱病を発症し、心因性嘔吐に悩まされ、瘦せ細ったすえにとうとう病院を頼り、そして退院することなくこの世を去った。危篤の報を受けて枕元を訪れたとき、あの誇り高く立派だった父の面影は跡形もなく失われていた。蝋人形のようになった父は瞳を潤ませ、息も絶え絶えに稜也を見上げて、絞り出すような掠れ声で叫んだのだった。


──『稜也。母さんを助けてやってくれ』

──『みんなの役に立てる人になってくれ』

──『稜也は父さんが見込んだ子だ。きっとやれるはずだ。父さんみたいになるな。誰かを最後まで守り抜ける強さをもって、みんなを幸せにする大人になるんだ。……約束だ』


 あの日、今際の淵で父の手を握った瞬間から、稜也は弁護士を目指すようになった。父の願いはみずからの役目を引き継ぎ、弱き者の味方となって人々の役に立ち続けることなのだと思い込んできた。もっとも、当時小学四年生の稜也には、父の込めた含蓄をすべて読み取れという方が無茶だったかもしれない。幼かった稜也は一家の大黒柱を失う恐怖に怯えるばかりで、父の真意をじっくりうかがう余力なんてどこにもなかった。


「……父さんは」


 稜也は墓石をまっすぐに見つめた。


「強くなれ、って伝えたかったんだよな」


 いまなら少しは分かる。志半ばで命を落とし、大切な家族に悲痛を味わわせたみずからの半生を、父は反面教師にさせようとしたのだと思う。弁護士になるとか、役に立つ大人になるとか、字面通りの短絡的な願いではない。父は稜也に本物の強さを掴んでほしかったのだ。望みを叶え、誰かを愛する力のある、ひとりの自立した大人になってほしかったのだ。もはや草葉の陰の人となった父に真意は問えないが、いまの稜也には確信があった。

 そうとも。

 父の望み通り、強くなってやる。

 30人31脚の実行委員(リーダー)として、六年一組のみんなを五十メートル彼方のゴールまで、いや──全国大会の晴れ舞台まで導いてみせる。間近に迫った中学受験も、六年後に控える大学受験も成功させて、猛勉強して、弱きを助ける力のある大人になってみせる。現在の夢と未来の夢を同時に尊重することは矛盾にならないと、大事な戦友が教えてくれた。もっとも当の戦友に言わせれば、先に教えたのは稜也のほうらしいが。

 これからは躊躇(ためら)わない。信頼を預けてくれる母と、期待をかけてくれた父のもとで、稜也なりの努力を積んで、足掻いて、信じた道を明日からも走り続ける。


「頑張るよ、父さん」


 呼びかけた刹那、吹き寄せた涼風が足元を舞った。軽やかに弾けた風は笑いながら稜也を包み込んで、瞬く間に宙へ溶けて見えなくなった。すん、と風の匂いを嗅いでみる。かぐわしい木々の香りに、大好きだった父の残り香が優しく絡んで膨らんだ。






「分かんないや。ちょっと疲れてるのかも」


▶▶▶次回 『56 直向佑珂と弱虫の決別【1】』

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