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3話 回想

この身体になってから、もう何度、空に太陽が昇っただろう。

何度、焼けるような夕を越え、何度、冷えた夜に星が瞬いただろう。

数えようと思ったこともあった。

最初のうちは、一つ、二つと指折り追っていた気もする。

けれど、それが十を越え、二十を越え、やがて季節の匂いまで曖昧になった頃には、そんなものに意味はないと知った。

朝が来ても、私には腹も減らない。

夜が来ても、眠くもならない。

雨に濡れても冷たくはなく、雪が積もっても震えもしない。

ただ、時間だけが過ぎていく。

私だけを置き去りにしたまま。

変わっていくのは、檻の中の、ミーティだけだった。

あんなに泣き虫だった姉は、いつから泣かなくなったのだろう。

いつから私を呼ばなくなったのだろう。

いつから、空を見上げろと言われるたび、何も映していない目で黙って従うようになったのだろう。

わからない。

わからないまま、今日もまた太陽が沈み、星が出る。

私には届かない空を、姉だけが見せられていた。


私にはもう、星は綺麗には見えなかった。

姉を削るための道具にしか、見えなくなっていた。

星を見ろと言われる。

星を読めと言われる。

今日はどこが明るい、何が落ちる、どの星が濁る――そんなものを答えさせられる。

それで何人が動き、何人が死んだのか、私は知らない。

知りたくもなかった。

ただ、そのたびにミーティの声は小さくなっていった。

頷く回数が増え、言葉が減り、笑わなくなった。

私がいくら喚いても、あの白い服の連中には届かない。

ミーティの肩を揺すっても、抱き締めても、私の手はすり抜けるばかりだ。

何もできない。

何年も、何年も。

そして――その日は、あまりにもあっさり来た。

「観測精度、低下」

「星辰応答、鈍化」

「双対反応、未成立のまま」

「継続育成コストに対し、成果薄」

冷たい声が、いつものように紙を捲る音の向こうで並んでいく。

ミーティは椅子に座らされたまま、何も言わない。

俯いた顔は見えなかった。

「――当個体、候補失格」

候補。

失格。

何度も聞いた単語だった。

でも、その次に続いた言葉だけは、聞き慣れていなかった。

「廃棄処分へ移行する」

……は?

一瞬、意味がわからなかった。

廃棄?

誰を?

目の前で、細い肩がびくりと震える。

ミーティは理解したのだ。

私より先に。

「やめろ」

声は届かない。

「待って」

届かない。

「その子に触るな」

届くわけがない。

白衣の手がミーティの腕を掴み、椅子から引きずり下ろす。

抵抗はなかった。

あるはずがない。抵抗の仕方なんて、もう忘れてしまったのだ。

私はその手を叩こうとして、また虚しく空を切った。

いやだ。

いやだいやだいやだ。

せめて、せめて誰か。

誰でもいいから。

このまま連れていかないで。

その子を、連れていくな。

たすけて。

……たすけて。

誰でもいい。

誰でもいいから。

たすけて、

たすけてよ!!

………そう願った、その時だった。

施設の外で、馬の嘶きに似た、乾いた骨の擦れる音がした。


「………ちょっと黙ってろ」

今のは、私に投げた言葉なのか…

……初めて私の声に、誰かが応えてくれた気がした。

白衣の一人が顔を上げる。

「……誰だ」

足音。

重くもなく、軽くもない、一定の靴音。

廊下の暗がりから、黒が現れる。

長い外套。

深く影を落とす帽子。

手には、鈍い光を飲み込んだ黒い本。

私は息を呑んだ。

ああ、と。

その時、理由もなく思った。

死神だ。

それは人を助けに来るような姿では、決してなかった。

むしろ、ここにある何かを回収しに来た――そんな風に見えた。

白衣の男たちも同じ感想だったのだろう。

先頭にいた一人が、露骨に眉をひそめる。

「何者だ。ここは教国管轄の研究施設――」

最後まで言わせなかった。

黒い男は答えもせず、本を片手に抱えたまま、もう片方の手に持った細い鉄筆を僅かに振るう。

ぱきり、と。

乾いた音がした。

それが何の音だったのか、私は一拍遅れて理解する。

白衣の男の足元、石床が、真横に裂けていた。

「ひ……」

悲鳴は短い。

裂け目はそのまま男の足を呑み込み、膝までを固い岩に閉じ込める。

体勢を崩したところへ、二人目、三人目も同じように床がせり上がり、壁際に叩きつけられた。

派手な音も、光もない。

ただ地面が当然のように牙を剥いた。

それだけで、制圧は終わっていた。

「……外の連中も含め、三十七。多いな」

男はそこで初めて口を開いた。

低い。

疲れた声だった。

助けに来た英雄の声ではない。

面倒な荷物を数える時のような声。

白衣の一人が震えながら叫ぶ。

「き、貴様……ッ、教国への反逆と知って――」

「知っている」

短く切って、男は視線を巡らせる。

その目が、ミーティの上を通り過ぎる。

そして。

――私で止まった。

ぞわり、と背が粟立った。

そんなはずがない。

だって私は、誰にも見えない。

何年も、何年も。

ミーティにだって触れられない、ただ横にいるだけの幽霊だ。

なのに。

男は確かに、私を見ていた。

帽子の影の奥、吊った目が細くなる。

心底疲れた顔で、しかし妙に当たり前の調子で、こう言った。

「……うるさいのが一人いるな」


えっ。

間抜けな声が出た。

もちろん届いていないはずなのに、出た気がした。

「しかもくっついているのか…まぁとりあえず、 だ。」

男は私から視線を外し、白衣たちへ鉄筆を向ける。

「質問は一つだけだ」

声に抑揚はない。

だが、床に縫い止められた連中の顔が一斉に青ざめる。

「その子を、どこへ捨てる予定だった」

誰も答えない。

答えられない。

男は小さく息を吐いた。

ため息だった。

「そうか」

次の瞬間、鉄筆の先で床を一度、こつりと叩く。

石が波打った。

壁が軋み、天井から砂が落ちる。

白衣たちの悲鳴が重なったが、男は聞いていない。

そのまま真っ直ぐ、ミーティの前まで歩いてくる。

引きずられて倒れたままの妹は、顔を上げる力もないらしかった。

ぼんやりとした目が、黒い裾を追う。

男はしゃがみ込み、数秒、何も言わずミーティを見た。

それから。

「……まだ生きているか」

生きてるよ。

生きてる、生きてるから、お願い、連れていって。

私は喚く。

喚きながら、はっとする。

だってこの男は、見えている。

私を。

「聞こえているなら少し黙れ」

ぴたりと声が止まった。

本当に。

本当に聞こえている。

何年も、何年も、誰にも届かなかった声が。

男は鬱陶しそうに眉間を押さえ、もう一度ため息を吐く。

「……やっぱりくっいてるのか…面倒だな」

面倒って何よ、と言い返す余裕もない。

いや、そもそも今はそれどころではない。

男は黒い本を脇に挟み、鉄筆の先で私を指した。

「おい」

びくりと肩が跳ねる。

「そこのうるさいの。とりあえず手ぇ出せ」

……は?

間抜けな声が漏れた。

私の。

出せと言われても、こう、か? と恐る恐る掌を差し出す。

次の瞬間、鉄筆の先端に嵌った石が淡く光った。

じわり、とぬるいものが指先から腕へ流れ込む。

糸だ。

見えない糸が、私とミーティの間に、もう一度結び直されていく。

倒れ伏した妹の肩がびくりと震えた。

ゆっくりと顔が上がる。

「……ティア…」

何年ぶりに呼ばれたのか、わからなかった。

息が詰まる。

泣きそうになる私を放置して、男はさっさと立ち上がる。

「話は帰ってから聞く」

鉄筆をくるりと回し、肩越しに言った。

「とりあえずズラかるぞ」

言うが早いか、男は床に膝をついたミーティを片腕でひょいと抱え上げた。

「わ、」

小さな姉の、微かな悲鳴も気にしない。

私が慌てて後を追うより先に、男は鉄筆で空中へ短く線を引いた。

ぱきん、と乾いた音。

施設の壁、その向こう側から、骨の擦れる蹄音が跳ね返ってくる。

次の瞬間、窓枠を蹴破るようにして、一頭の馬が飛び込んできた。

……馬。

いや、馬?

皮膚も肉もない、白い骨組みだけの巨体。

眼窩の奥に青白い火を灯し、ぶしゅう、と鼻息の代わりに冷たい靄を吐いている。

私が呆気に取られている間に、男は当然のようにその背へ飛び乗った。

ミーティを前へ抱え込み、空いた手で首元を軽く叩く。

「乗れ」

「乗れって言われてもどうやって――」

「認証通ってる。落ちん」

雑すぎる。

だが言い返している間もなく、骨馬は前脚を鳴らして身を沈めた。

半ば押し出されるように飛びつくと、不思議と指先がするりと鬣を掴めた。

「よし」

男が手綱もない首骨を軽く叩く。

「走れ」

骨馬が嘶いた。

次の瞬間、世界が後ろへ吹き飛んだ。



夜はすでに深く沈み、街の灯りさえ遠い。

骨馬の蹄音が途切れた場所で、カロンは一度だけ立ち止まった。

ミーティは外套に包まれたまま浅く息をしている。意識は飛びかけ、身体は熱も冷たさも曖昧に震えていた。

私はその細い肩を支えながら、まだ現実感のないまま息を呑んでいた。

「……回収完了」

カロンが短く呟き、黒い本──冥籍執行録の背へ鉄筆を差し込む。

かちり、と。

鍵が噛み合うような乾いた音がした。

ページが、ひとりでに捲れる。

風が止まった。

止まった、というより。

世界そのものが、こちらを見た気がした。

喉が詰まる。

肺の奥がひやりと冷える。

何かいる。

目の前には誰もいない。

夜道と、骨馬と、黒い外套の背しかない。

なのに確かに、三つ。

見えない何かが、帳簿の向こうから覗き込んでいた。

帳簿の余白に、黒い滲みが文字のように浮かぶ。

――執行処理、完了を確認。

一つ目。

淡々としていた。

感情も疑問もなく、ただ記録を読み上げるだけの声なき圧。

カロンが答える。

「完了」

間を置かず、二つ目の滲み。

――規定外回収一件。説明を要する。

先ほどより少しだけ重い。

責めるでもなく、だが見逃しもしない、冷えた秤のような圧だった。

カロンは肩越しに私たちを一瞥し、面倒そうに眉を寄せる。

「生存付随。切り捨てる方が手間だ」

沈黙。

数秒か、それとも一瞬か。

時間の感覚が妙に伸びる。

そして三つ目。

――付随個体二名。継続観察対象に指定。

ぞわり、と背筋が粟立った。

今度ははっきりわかった。

見られている。

私と。

ミーティが。

頭のてっぺんから爪先まで、身体の中身ごと秤に乗せられるような感覚。

思わず妹を抱き寄せる腕に力が入った。

「……っ」

声が出ない。

カロンは小さく息を吐いた。

「好きにしろ」

投げやりだった。

まるで面倒な追加書類でも渡された時みたいな返事。

その瞬間。

ばさり、と帳簿のページが閉じる。

風が戻った。

遠くで虫が鳴く。

骨馬が鼻先から白い靄を吐く。

止まっていた夜が、何事もなかったように流れ出す。

私はようやく息を吸った。

知らないうちに呼吸まで止めていたらしい。

「……今の、何……」

掠れた声で問うと、カロンは帳簿を脇へ戻しながら淡々と言う。

「上に報告しただけだ」

上。

その言葉の意味を、この時の私は知らない。

ただ、今の一瞬で、この世のどこかに“見えてはいけない場所”があるのだと理解してしまった。

カロンは骨馬の首骨を軽く叩く。

「向こうで見かけたかもしれんがな」

……は?

聞き返しても、それ以上の説明はない。

ミーティは彼の腕の中で、小さく寝息を立てていた。

細い。軽い。けれど確かにここにいる。

何年も、何年も、触れられなかった温度だった。

私はその身体を壊れ物みたいに抱きしめる。

骨馬が前脚を鳴らし、再び夜道を駆け出した。

黒い外套が風を孕む。

冷気が頬を打つ。

見知らぬ男の背中だけが、やけに遠く、やけに頼りなく見えた。

あの夜。

私はまだ何一つ理解していなかった。

あの男が何者なのか。

妹に何が起きていたのか。

今、自分たちを見下ろした三つの視線が何なのか。

何も知らなかった。

けれど。

あの骨の馬の上で、確かに私たちの運命は冥府へ引っかかったのだ。

――これが、私とミーティ、そしてカロンの始まりでした。


カロン仕事先の、お偉方3名登場。


名前は有名所からお借りしています。

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