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始まり、そして閉じる物語

戦場に響き渡る怒声と悲鳴が自軍の勝利を告げる。

火に炙られる要塞は、誰も逃がさないと言わんばかりに赤々と燃え上がる。

地に撒き散らされた油に対し、言われた通りのタイミングで言われた数だけの火球をぶつけただけで、この惨状は引き起こされた。


僕の魔術は、決して優れたものではない。

それでもここまでの威力を発揮してしまったのは、あの王の采配の結果だ。

限界まで効率的に配分された魔術配置は、僕の実力を実力以上に活かし切る――けれど、それが意味するのは徹底的なまでの殺戮だ。


「ルージル、よくやった!」

「へ、いか」

「一人残さず燃やし尽くせ。油が足りないなら用意してやるから、樽ごと飛ばせ」


王の瞳に浮かぶ残虐な色は、ここで逃げ出す事を許しはしない。

誰一人として逃がす事は許さないと、僕の首筋に見えない殺気を押し当てる。


「女も、子も、俺に逆らった愚か者に連なるものは全て焼き尽くせ」

「はい、……焼きます。焼いて、そして、」


油に燃え移る勢いに煽られて、炎がコントロールを外れて地平を焼く。

燃え盛る人影、怒号、血の香り。


身体がガタガタと震え、涙が零れ落ちる。

――それでも。

この惨い戦いの先に、彼女が産まれる未来がある。


熱風に煽られ、頬を濡らした涙はすぐに消え失せる。

口から零れ落ちる笑い声は、戦場に響き渡る悲鳴と歓声に埋もれた。





苦しい。

幾日も、幾日も、腹の底が溶けていく痛みに身を蝕まれていた。

誰に害された訳でもなく、ただ身体に限界が訪れているだけだ。

自分が使える治癒魔術では、病に蝕まれた身体をこれ以上保つ事は無理だった。


「師匠」


満足に動かせなくなった皺だらけの手を握ったのは、養い子の少女だった。

この時代において他の誰よりも魔術に秀でた彼女は、自分にとっての最初で最後の弟子だった。


「君にも、何か遺してあげないとだね」


遺産は自分の行いで親を喪ってしまった子供達に配分するように手配した。

罪滅ぼしのつもりなどではない。

ただ、それでも生き続けて欲しいという自分の罪悪感の押しつけだ。


「っ、遺すなんて、そんな事……言わないでください」


親を喪った他の誰よりも自分を恨み、殺してやると呪詛を吐き続けた幼い頃のこの子を、自分は何よりも尊い存在だと感じた。

だからこそたった一人、彼女だけを手元で育てた。

魔術師としての見込みがあったのもそうだったけれど、それ以上に――彼女の容姿は、あまりにも。


「私には、君に謝る資格がない。許しを請う資格がない」


罪は自覚してる。

引き返す道も、世界を救う道も、幾らでもあった。

それでも自分はこの少女の手を取った。

飢えて痩せ細っていた幼い彼女に食事を与えた。

怪我をして死にかけた幼い彼女に治癒魔術を施した。

育て、導き、魔術を教え、そしてあの魔導書を託した。


「何でも言ってごらん。望むものは何でもあげよう」


謝って許されるはずはない。

この言葉は、きっと彼女の人生を変える。

この言葉が、世界を動かしていく。

――そう、この言葉への返答など、遥か昔に決まっている。



「師匠の名を……頂きたいです。貴方の名を、私の姓にします。子供達に、貴方という存在を伝えていきたい」



泣きながら笑って言った少女は、赤銅色の瞳を涙で濡らした。

濡れた瞳の奥で輝くその色味は、きっと他のどんな色よりも未来を鮮やかに彩るのだろう。

口元から零れる笑みもそのままにゆっくりと頷くと、少女が抱き着いてくる。


「拾ってくれて、育ててくれて、ありがとう」


お父さん、と初めて聞いた呼称が耳に届く。

そんな言葉をかけられる資格など、自分にありはしない。

自分は彼女の親兄弟を殺し、幸せを奪い、そして未来を強制した。


「魔術の継承、任せてください。火だけじゃなくて、全部、きっと、きっと皆でやり遂げてみせます。そしていつかあの魔導書だって、」


自分は、彼女の血族がいつか描く未来を知っている。

自分は、彼女が欲した名が、いつか憎悪の対象となる未来を知っている。

けれど、その先には――必ず。


「ありがとう」


多くを奪い、多くを踏み躙る自分の行いを後悔している。

それでも、彼女のその親愛を含んだ言葉に、心の底から救われたような心地さえした。

たった一言に含んだ傲慢な感謝は、彼女の耳に届かないまま空気に溶ける。

後に残ったのは、一人取り残された赤銅色の少女の啜り泣きの声だけだった。





「五大魔術一門、か」


老宰相の元へと現れた男達が口々に訴えた言葉は、その一言に集約される。

魔術の明確な分類を提唱したのは、かつて偏執的なまでに力を追い求めた女の孫だった。

女の子孫は血統的になのか火の魔術に優れている者が多く、経験として魔術は出来る限り一つの分野に絞って学ぶとより強力になると知っていた。

だからこそなのだろう、彼女の子孫は魔術分野の集中を提唱し続ける。


「今のままではこれ以上の魔術の発展は望めまい」


老宰相が無言のまま返答を避けるも、男達は静かに言葉を紡ぎ続けた。

頑なな態度に激昂することもないのはそれが絶対的に正しいが故に、老宰相が最終的には必ず受け入れるだろうと信じている為か。


「分化せざるを得ない状況だと言うのは貴殿も良くお分かりだろう」

「……確かに、戦線の拡がり方に対して今の体制のままでは問題はある」

「なればこそ。国と子等を守る為にこれしか方法が無いのもご理解頂きたい」


老宰相は目を伏せて、かつて師の力を繋ぐのだと息巻いた美しい女の姿を思い浮かべる。

幼い頃に憧れを抱いた彼女は、今思えば狂気の色さえ帯びながら魔術を研究し続けていた。

偏執的なまでに自らを追い込み、魔力の源を突き止め、数人の子を成し、魔術師としての血脈を作り上げた。

彼女の悲願は数代を経て、ようやく形を取り始める。

より強く、強く。

そして彼女の遺志が目指す果てが何処なのかは、彼女が死んで数十年経た今でも、老宰相には未だに分からない。


「彼女が護りたかったものは、一体何なのだろうな」


ポツリと口から溢れた呟きに、誰も答えはしない。

きっとそれは、国でも未来の子等でもなかったのではないか。

誰かを護る為の強さならば果てはある。

だが、彼女は護る以上の強さを追い求めていた。

只管に誰かの背を追いかけ続け、そして、誰もが知らないその背を子孫にも追い求めさせる。

追いかけ、追いかけ、そしてその果てには一体どんな未来が待つのだろう。


「――エスメラルダを守る魔術師達よ、国と子等を守るというその言葉を違えるな」


方向性を違えた彼等は、より一つの道を突き進むだろう。

その先にあるのが豊穣の未来か、それとも戦火の未来か今はまだ分からない。

分かるのは、ただ、彼等がこの王国の護り人になるという事のみだ。

国と民を守る盾がより強力になるだけなのだから、間違いなどあるはずもない。

それにも関わらず、腹の奥底から怖気が走った。





「――無理だ」


男は拒絶の言葉を口から零した。

それは、絶対的な主人たる女への初めての反抗だった。

けれど女はその言葉を捻じ伏せるように、再度その言葉を唇に乗せた。


「私に子を授けなさい」


女は美しく儚い姿かたちをしていたが、けれどもその瞳に宿る力は男の意思を圧倒する。

けれども、その言葉が意味するところも、その言葉を口にする為の覚悟も、男はよく知っているからこそ反論を口にした。


「だが、君の身体が」

「私を誰だと心得る!エスメラルダ王国の正統な王位継承者だ!」


男の声を遮る声音は、鋭く空間に響いた。

王位継承者にしてその地位を簒奪された王女。

それが、男の唯一無二の主人。


「私が子を産めば、あの男への楔となる」


理由はそれだけで十分だと言って笑う女は、勝負に挑むように胸を張る。


「国を護る為の王族だ。その為に生まれ、その為に死ぬ。あの狂った男に一矢報いる事が出来るなら――この命など、惜しくはない」


戦う術など持たない女だ。

王族の姫として生まれた以上自ら武器を取り戦う必要などありはしなかったし、何より彼女の身体がそれを許しはしなかった。

病弱な身体に、善良な心根。

彼女が戦う術など持たないからこそ、男は彼女を脅かす存在から護る為に名ばかりの夫となったのだ。

こんな選択をさせたくなかったからこそ、血反吐を吐き、仲間を踏み台にしてこの地位に就いたというのに。

それなのに、女は立ち上がってしまった。


「……何の罪もない子に、君の背負う荷を預けるのか」


男の最後の問い掛けは、女の心根を知ってるからこそのそれだ。

罪無き者を犠牲にする選択をする人間ではない。

男がどれだけ頼み込もうと、拒否をしようと、女は男の犯した罪の多さを知っているからこそ退きはしない。

だが、自分達の重責をまだ生まれてもいない子に背負わすような事は、彼女には出来ないだろう――そう信じていた。

けれど。

一瞬だけ怯んだように唇を噛み締め、それでも女は男を睨み据えた。



「侮るな。一人の子と全ての民を天秤にかける程、私は愚かではない」



それが、心優しき王女の選択だった。

男は説き伏せる事が無理なのだと知り、ついにその目を伏せる。


「女でも、母でもなく、私は王女。この国の象徴にして民を守る者。だからこそ、自分の子にも同じ道を強います」


王族の姫としては正しい選択で、女という存在としては誤りの選択。

人としての情を捨て、目的の為に子を道具として扱う選択。

かつての女はそんな選択を心の底から軽蔑していたというのに、それを選ばざるを得ない状況まで追い込まれてしまっている。


「怨めば良い、憎めば良い。それでも私は一つの生命よりも幾千の民の生命を優先するわ」


力強く睨み上げる目には薄い涙の膜が張っていたが、それでも一粒たりともその雫を落とす事はない。


指先ひとつ動かそうとしない男の手に、細い女の手がそっと触れる。

昔から頑固なところがある人だった、と女は小さく苦笑を浮かべ、持ち上げた男の手を自身の頬に当てて、自分の目を見ろ、と男に命じる。

ゆっくりと男が視線を上げると、女は困ったように笑みを浮かべた。


「ねえ、先生。私にはもうこれしか出来ないの」


その呼称に、いつかの諦観に満ちた笑顔を思い出した。

無力故に誰からも見捨てられ、愚かな兄にその尊厳を脅かされ、自らの誇りを守る為に魔術の師であった男の元に嫁ぐのだと決めた時。

泣きそうに笑った女の顔は、あの頃と変わらず何処までも美しい。

けれど、その美しさは決して生命力に溢れたものではない。


「先生の忠誠に報いる方法も、先生へ信頼を示す方法も――国を護る方法も。……私にはこれしか思い浮かばないの」


女は、するり、とドレスを結わえる紐を一つ外す。

その指先にも、目線にも、震えはない。

目を逸らせない男の前で、女はゆっくりと装飾を外していく。


「私は決して情愛には至らない、先生のその敬愛を信頼しています」


男にとってこの女は、魔術師としては決して出来が良いと言える弟子ではなかったし、女として見るには付き合いが長すぎた。

だから、男が女に対して抱く、人生の全てを投げ打ってでも彼女を救おうとする強烈なまでの執着心を愛と表現するならば、それは決して恋愛感情ではない。

女は、男という存在の支えであり、世界であり――神なのだから。


「お前に、私の生命を削る役目を与えます」


それが師への恩を仇で返す事だと――男の望まぬ事だと知りながら、女は再度命令を下す。



「産まれる子を導きなさい。王族の血を引く者として、そして護国の魔術師として、国と同胞を護れる者へと育てなさい」



そう。

簒奪されてしまった以上、女が産む子は王位継承権を抱かない。

それでもあの愚かなる王を牽制し、民を守る手段となるだろう。

その新しい命一つで、あの男に苛まれる未来を覆す手段と成り得る。


「私が生命を懸けて繋ぐ血筋に、お前の生涯を捧げなさい」


お前の忠誠は、私の子供という形で示しなさい。

男の震える手が自身の頬に伸びるのを、女は唯穏やかな瞳で見つめていた。





青年は炎に巻かれて火傷を負った友人を背にかばいながらも、一人佇む少女に向けて叫んでいた。


「――家族だ!それだけの理由じゃ、君を救えないのか」


青年の叫び声を少女は鼻で笑うと、かつて自らの母がそうしたように胸を張って前を向く。

その瞳に浮かぶ色味は怒りの色でありながら、誰をも圧倒するような気迫に満ちた王者の色だった。


「追放された身でありながら何を言う。刻印持ちの貴方なんて、家族・・ではありません。私は家族を、一族を護る為なら自己犠牲なんて厭わない」


救いなど望んでいないと返す少女は、傲岸な笑みを口元に浮かべながら一歩前へ進み出る。

その足元には赤黒い血溜まりがじわりとその範囲を広げていた。

青年はそれに気づき、動かないように叫ぼうとするも、少女は遮るように胸に血に染まった手を当てて名乗り上げる。


「私は護国の魔術師であり、ルージルの長」


掠れた声は、それでも多くの屍骸の上に響き渡る。

最早その口上を聞く者など片手で数えられる程にしかこの場には居ないけれど、それでも少女は声を張る。


「王家の血を引く娘であり――背負うべきは全ての民の命」


それは、他人から教え込まれ、そして自らに刻み込み、自らの存在価値としてきた言葉だ。

けれど今は、多くの敵の、多くの民の屍骸を踏みしめて。

少女の上げる悲痛な宣言は、彼女の罪を知らしめる。


「多くを救う為ならば、たとえこれが間違った手段だとしても……叛逆の汚名を被るものであったとしても、私は立ち止まらない!」


守るべき民を殺し、守るべき国に反逆者と見做されても――それでも少女には立ち止まる事など許されない。

立ち止まれば、彼女の後ろに控える魔術師達の命など全て消されてしまう。

立ちはだかるのが民ならば、背に負った命達もまた守るべき民だ。

憎みあうように誘導された戦いは、どちらかの命を全て落としきるまで止まりはしないだろう。

それならば。


「貴方の屍を乗り越え、この国の王として名乗りを上げて――そして、こんな馬鹿げた戦いなんて私の名の下に治めてみせる」


少女の瞳に宿る決意は堅く、血に塗れて蒼白な顔色が彼女の命がもう長くはないのだと主張する。

それでも少女は、自らと目的を同じくする――けれど少女とは真逆の存在に向けて、魔力を練り上げる。


「さあ、もう後戻りは出来ないわ。私が死ぬか、貴方が死ぬか――戦いましょう」






まだ幼さの残る少女の悲鳴は、男達の怒声によって掻き消された。

それでも少女は涙混じりに訴え続ける。


「お願い、聞いて!父さんが結界を張った。あそこなら誰にも生きる事を邪魔されない!」


けれども彼等は少女の声を煩わしいと怒鳴り、少女の小さな身体を壁に突き飛ばした。

そのあまりに酷い行為に怒り、痛みと衝撃に蹲った少女を介抱した老婆は少女に穏やかに問いかける。


「籠に閉じ込められて、それで何になるってんだい?」


結界に入ったところで、一時的な守りにしかならない。

痩せた土地では一体何人の魔術師を養えるというのか。

頼りない結界では一体いつまで保つ事が出来るのだというのか。

閉ざされた土地に、一体、何の希望があるというのか。

それならば、いっそのこと一矢報いて皆で死んだほうがどれだけ幸せな事だろうか。


「死ぬよりも辛い思いをするくらいなら、今ここで皆と共に誇りを守っていった方がマシだとあんたも思わんかね」


大丈夫だよ、何も怖い事はない、といって何もかもを諦めたように笑う老女の手をとり、少女は首を大きく振った。


「籠の中に入れば、明日を迎えられる」


少女は繰り返し、それだけを口にする。

それがどんなに辛く悲しい明日かは分からないけれど、明日を迎えられるようになる事だけは保証出来ると言って。

老婆は困ったように少女を説き伏せようとするも、少女は真っ直ぐに老婆を見据えた。


「誰もが魔術師と一緒に生きて行きたいって思うようになるかもしれない。明日も辛いかどうかなんて、明日が来なくちゃ分からない」


そんな言葉は夢物語だ。

籠の中に入ろうが入るまいが、その先に待っているのは滅亡の未来だ。

けれど、少女は僅かな未来を信じたいのだと言って、老婆の皺だらけになってしまった手を握る。


「きっと、生きてて良かったって思う以上に辛い思いをする。それでもお願い――貴方達の幸せを祈って死んでいった人の想いを踏みにじらないで」


はらり、と少女の白い頬を伝っていく涙はどこまでも透明で。

発される言葉は不安と悲しみで震えながらも、それでも迷いは何処にもない。

少女は、自身の父親が命を賭けて張った結界が何の解決策にもならない事を知りながらも、それでも希望を未来に繋げられるのだと信じている。


「幸せになろう。明日を掴もう」


少女の涙は、決して絶望故に流されたのではない。

たとえたった一人になろうとも、長い長い辛い時間を過ごし、未来へと希望を繋ぐ覚悟のそれだ。

自身の長くはないだろう命を、それでも見捨てたくないのだと言う少女の言葉に、老婆はゆっくりと目を伏せて小さく頷く。

その先に幸せな結末など無いのだという事を知りながら、それでも一人で人々の絶望に真正面から立ち向かおうとする少女の背を押すために。


「今よりもずっとずっと辛い状況でも、それでも明日を夢見る幸せを手に入れよう」


少女の願いは多くの者達に踏みにじられた。

誇りを背負って死を選んだ者達の悲嘆の声と、流れる血が少女を濡らして行く。

それでも縋ってきた僅かな者達の手を掴み、少女は明日を手にする為に鳥篭に鍵を掛けた。





男に出会ったのは、本当に偶然だった。

そして、恋に落ちたのは運命だった。

女は心の底からそう信じていた。


最後の魔術師として生まれ、一人ぼっちの恐怖と絶望に押しつぶされそうになっていた時に、この男と出会って恋に落ちた。

決して祝福された恋ではない。

女は世界中で恨まれる魔術師という存在だったし、そして男は何の変哲もない普通の人間だった。

こんな辛い思いをさせるくらいなら血を残してはいけないのだと、そう自らに戒めてきた人生だった。

――けれど。


「ねえ、あなた」


調理中の夫がゆっくりと振り返り、どうかしたのかと問いかけてくる。

その優しい微笑みと、お腹の中から蹴ってくる小さな胎動に、女は泣きそうになるほどの幸せを感じた。

きっとかつて自分が味わったような寂しく辛い思いをさせてしまう事となるだろう。

それでも、産むという選択をした事を、後悔はしていない。

どうか、どうかこの子にも幸せを感じて欲しい。


「この子の名前ね、一つだけ考えてみたの」


名を告げると、男は驚いたようにその目を丸くした。

遥か昔には忌み名とさえ言われたが、けれどもその本来の意味は――その本来の持ち主は、女の祖先を救い、国を救った英雄だ。

多くの者達を守り、多くの者達を笑顔にし、多くの者達に望まれた存在。

そんな大層な人間から取った名前という訳ではないが、それでも決して嫌われるばかりの名ではない。


「希望という意味よ。だって、この子は私達の希望」


そして、希望を抱いて生き続けて欲しい。

勝手な願いだとは思っている。

それでも、自分達の希望で、遥か昔から望まれ続けた子だ。

この子こそが最後の魔術師――死んでいった多くの魔術師たちが、この子が笑える未来を望んだのだから。

男は、女がそう言ったきり目を伏せたのを見て、安心させるように近づいて女の名を小さく呼ぶ。

きっとその願いはこの子に伝わっている、と言って。


「良い名だ」


ゆるりと抱きしめられて、女は温かなその体温にゆっくりと息を吐きながら、目を閉じた。





何度か声をかけられたのか、少年はゆっくりと目を開けた。

ぼんやりとした思考のまま目をこすっていると、それまで見ていた長い長い夢を何一つ思い出せない事に気がついて、眉根を寄せた。

そんな少年にどうかしたのかと声をかける母に、少年ははっきりとしないまま口を動かす。


「なんか、へんな夢をみたよ」

「あら。どんな夢だったの?」

「えっと……たくさんの人がでてきてた」


そう言えば、父さんと母さんも見たような気がする。

けれどそれがどんな夢だったのかだけが思い出せない。

悲しくて、悲しくて、――けれど。


「ほらほら、今日はお父さんがお客さんを連れてくる日なんだから、ちゃんと寝癖直しなさい。もうすぐ来ちゃうわよ」


諦めたように、なかなか思い出せずに考え込み始めてしまった少年の肩を軽く叩くと、忙しなげに母は調理台の方へと歩いていってしまった。

今日、お客さん?

その言葉に少年は首をかしげる。

起き上がって窓の外を見遣ると、そこから父親の姿が見えて――確かに、その見慣れた影の傍には誰とも分からぬ二人の姿があった。

慌てて階下に降りると、丁度父親が扉を開けたところで、こちらの姿を認識して柔らかな笑みを浮かべた。


「おいで、ジル。村の子達だよ」


そう言って背後に控えていた二人が見えるよう、父が一歩ずれると、少しだけ自分より背の高い少年と、髪を編んだ少女が扉の向こう側に立っていた。

自分以外の子供を見るのは産まれて初めてだった事もあって、僕は目を大きく見開いて何も言えないまま彼らを見つめた。


「……はじめまして」


僕の無言に堪えられなかったのか、少年が低い声で言葉を発した。

少年のぶっきらぼうな挨拶に慌てて答えられずにいると、少女が脅かすんじゃない、といって少年の背を軽く叩いた。

そして大人ぶった咳払いを一つして。


「この人はマキル。それから、はじめまして、わたしはメイリーっていうの!」


鮮やかに笑った少女が、幼い僕に手を差し出す。

その少女の姿に、何故か心臓が騒ぎ始める。

初めて会った人間なのに。

僕は、この人を知らないはずなのに。

それなのに、どうして、こんなに。


「は……じ、め、まして、」


挨拶の言葉は声としてきちんとした形をなす前に、嗚咽に掻き消されていく。

はらり、と自然に流れ落ちる涙が、思い出せない夢の向こう側からこの時を待ち望んでいたと叫び声を上げているようで。

訳も分からずに大声で泣き出した僕と、泣いた事に動転した幼い子供達と両親の賑やかな声が、小さな結界の中に満ちていく。





そして、閉じた世界は鮮やかに始まり行く。




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