レオンハルトの右腕
レオンハルトが珍しく剣を落としたのは、朝の訓練場だった。
乾いた金属音が響き、その場の空気が止まる。
本人はすぐに左手で拾い直したが、イザークの目だけはごまかせなかった。
「閣下、右腕を」
「問題ない」
「問題がない人は剣を取り落としません」
食堂へ連行される辺境伯という珍しい光景を横目に、私は医務室へ道具を運んだ。古傷だろうとは思っていた。黒霧の戦い以後、表面上は安定していても、冷え込む日には動きが鈍ることがある。
セシリアの診察は容赦がない。
「炎症です。使い過ぎ」
「訓練は必要だ」
「休むのも必要です」
「代わりは」
「います」
そこで全員の視線がイザークへ向いた。
本人は無言で頷いたが、レオンハルトは渋い顔のままだ。
私は包帯を巻く手元を見ながら言った。
「頼ることまで含めて、今の灰冠城でしょう」
「……お前まで言うのか」
「私だから言うの。あなた、一人で耐えるのが癖になっているもの」
沈黙。
そのあと、彼は観念したように息を吐いた。
「一日だけだ」
「三日です」
セシリアが即答する。
「二日」
「三日」
「二日半」
「では三日で」
「交渉になっていない」
少し笑ってしまった。
結局、その三日は城にとって悪いものではなかった。イザークが訓練場を仕切り、兵たちは最初こそ緊張したが、すぐにいつもの空気を取り戻す。レオンハルトは執務室で帳面をめくり、私はその隣で部品箱を整理した。
「暇ね」
「お前も似たようなものだろう」
「私は整備です」
「言い換えただけだ」
窓の外から、兵の掛け声が聞こえる。
前よりも確かに、彼がいなくても城は回るようになった。
それは辺境伯としては少し寂しいことかもしれない。けれど、領主としては正しい変化だ。
「右腕が治っても、全部は抱え込まないで」
私が言うと、レオンハルトは少し考えてから頷いた。
「努力はする」
「合格点より一歩手前ね」
「厳しいな」
「修復師ですから」
完全に壊れる前に手を入れる。
それは物にも人にも同じことだ。
その理屈を、今度は彼の身体に教える番だった。
その夜、私は診療室や温室、帳場をつなぐ静かな廊下でしばらく足を止めた。薬草と土と紙の匂いが混ざり、物を直す場所だった城が、人を育て、送り出す場所へ変わっているのを感じさせた。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、片づけきれなかった小さな道具の重みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は今日増えた記録や依頼札を見返し、仕事が自分の手の内だけに収まらなくなってきたことを、少し誇らしく受け止めた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
人を育て、役割を渡し、外へ送り出す段階に入ると、修復はもう私一人の技術ではなくなる。その変化が少し寂しくて、同時にどうしようもなく嬉しかった。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、片づけきれなかった小さな道具の重みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。一度きりの修理では足りない。次は、直すことを続けるための場所と仕組みが要る。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。続きは『修復工房、新弟子』になります。よろしければ次話もお付き合いください。




