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小麦とガラスの温室

 春祝いの準備と並行して、私がどうしても進めたかったのが温室だった。


「温室?」

 クララが首を傾げる。

「ガラスなんて高いわよ」

「全部を透明にする必要はないの。風を防いで、光だけ通ればいい」


 灰冠城グレイヴォールは寒い。だから冬でも葉物や薬草が育つ場所があれば、暮らしは一段安定する。母の遺した帳面にも、昔は小さな冬菜小屋があったと書かれていた。


 ガラスを担当したのは、城下の古い硝子職人夫婦だった。長く仕事が減っていたらしいが、修復工房で窓枠を直した縁で声を掛けたところ、目を輝かせて参加してくれた。


「こんな大きな仕事は久しぶりだ」

「割れても直せるお嬢さんがいるなら、思い切れるね」


 言われて少し笑う。


 温室の骨組みはドルフとニナ、内部の棚は私とユリア、土作りはミレイユまで手伝ってくれた。祈り手が土をいじる姿は最初少し面白かったが、彼女自身は案外楽しそうだ。


「星殿の庭より、こっちの方が好きかも」

「それはずいぶん思い切った感想ね」

「だって、こっちは植えたものを食べられるので」


 もっともだった。


 完成した温室は立派とは言えない。木骨と硝子板を繋いだだけの素朴なものだ。でも、中へ入ると風が止む。光は差す。土は凍らない。


「これ、すごい」

 クララが手を叩く。

「冬でも香草が採れるかもしれない」

「薬草も育てられます」

 ミレイユが嬉しそうに言う。

「煎じ薬の幅が増えるわ」


 私は硝子越しの陽を見上げた。


 壊れたものを直すだけじゃなく、新しく作れるものもある。その実感は、いつだって少しだけ未来を明るくする。


 その夜、私は中庭へ面した回廊か、工房の灯りが届くあたりでしばらく足を止めた。花や土や焼きたてのパンの匂いが混ざり、壊れた城だった頃には考えられなかった種類の賑わいが夜まで残っていた。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、土と湯気と焼いた小麦の匂いのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。


 私は作業台へ手を置き、祝うことと働くことが同じ場所で両立するようになったのだと、遅れて実感した。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。


 祝うこと、働くこと、暮らすこと。その三つが同じ場所で無理なく重なり始めると、城は『助かった場所』から『住み続けられる場所』へ変わっていく。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。


 私が今見ているのは、土と湯気と焼いた小麦の匂いのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。

ここまでありがとうございます。次話『弟からの手紙』も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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