辺境伯の正式な求婚
正式な求婚は、驚くほど静かな夜に来た。
大きな祝宴も、王都式の立会人もいない。灰冠城の中庭、修復したばかりの回廊の下。夜風はまだ冷たいが、冬の終わりほどではなかった。
「契約婚約の期限について、話がある」
レオンハルトはそう切り出した。
「終わりにする?」
私は先に訊く。
「その場合でも、私はここに残るつもりですけど」
「違う」
彼はすぐに首を振った。
「契約の方を終わらせたい」
そこでようやく、意味に気づく。
「……契約じゃない方に?」
「ああ」
レオンハルトは普段どおり無愛想な顔をしていた。けれど、右手だけが少し強く剣帯を握っている。緊張しているのだと分かって、私は急に胸がうるさくなった。
「お前が灰冠城を選んだのは、仕事があるからだろう」
「はい」
「俺も、最初はその方がいいと思っていた。契約なら、互いに迷わない」
「今は?」
「今は迷ってる」
正直すぎて、私は少し笑ってしまう。
「迷った結果がそれですか」
「面倒だが、好きだ」
「ずるい言い方ですね」
「知っている」
彼は一歩だけ近づいた。
「リディア。灰冠城の管理者としてじゃなく、契約相手としてでもなく、一緒にいてほしい」
私はしばらく答えられなかった。
王都で結ばれる婚約は、いつも立場と都合が先だった。だから、こんなふうに“私”へ向けて言われるのは初めてだ。
「……はい」
やっとそれだけ言うと、レオンハルトはごくわずかに息を吐いた。安心したらしい。
「条件があります」
「まだあるのか」
「あります。私はこれからも働きます」
「知ってる」
「灰冠城も工房も手放しません」
「分かってる」
「あと、危ない時は一人で無茶をしないでください」
「それはお前にも返す」
「……そうですね」
私たちはそこでようやく、少しだけ笑い合った。
契約婚約は終わる。
けれど、ここから先はちゃんと、自分たちで選んだ関係になる。
少し時間を置いてから、私は灰冠城の回廊か、城壁へ続く階段の途中へ戻った。石に触れるたび、戦いと修復の痕がまだ新しく、城そのものが次の選択をじっと待っているようだった。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。
私は足を止めるたびに今日の言葉と沈黙を反芻し、それが誰の覚悟に繋がったのかを確かめるように息を整えた。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。
大きな戦いや決断の前後では、力そのものよりも、誰が何を引き受けるかの方が人を変える。私はようやく、抱え込むことと支えることは別だと身体で分かり始めていた。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。
私が今見ているのは、指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。ここでひと区切りです。次話からは『春祝の準備』。続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




