辺境伯の呪い
レオンハルトの右腕に流れ込んでいたものは、単純な呪いではなかった。
痛み。侵食。拘束。
でもそのどれよりも強かったのは、“接続の失敗”に近い違和感だ。何かと繋がるべきだった回路がねじれたまま固定され、そこへ外から黒い力が染み込んでいる。壊れた導管に無理やり別の液を流し込んだような状態。これでは、動くたびに傷が広がる。
「……ひどい」
思わず漏らすと、レオンハルトが乾いた声で言った。
「感想として正しい」
「いつからですか」
「十六の時から」
若すぎる。
私は手袋を外してもいいか視線で問うた。彼は少しだけ迷い、それから頷く。革手袋を抜くと、手首から腕にかけて黒い筋が浮いていた。皮膚そのものが割れているわけではない。魔力の流路が表に滲み出ているのだ。
「先代辺境伯が、城の地下で何かを起こそうとして失敗した」
レオンハルトは短く言う。
「止めるために俺が割り込んで、こうなった」
「……」
「それ以来、城の奥に近づくと時々暴れる」
母の鏡に映っていた若い男。たぶん、彼の父。母はその人と一緒に灰冠城を守ろうとしていた。なら、失敗の後に何が起きたのかも、いずれ知らなければならない。
「今、少しだけ流れを整えます」
私は指先に魔力を集めた。
「根本解決はできません。でも、噛み合わせを戻して痛みを散らすことはできるかもしれない」
「失敗したら」
「その時は謝ります」
「軽いな」
「重く言っても成功率は変わりません」
少しだけ間があって、レオンハルトが息を吐く。
「……好きにしろ」
「はい」
私は彼の腕へ両手を添えた。黒い流れは荒れている。けれど、その下に本来の道筋が残っていた。完全には消えていない。なら、繋ぎ直せる部分はある。
修復魔法を慎重に流し込む。
壊れた腕を直すわけではない。ねじれた流れをほどき、無理やり繋がっている箇所を少し緩めるだけ。ほんの一部、痛みが走らない方向へ戻す。
黒い筋が淡く波打った。
レオンハルトの呼吸が一瞬止まり、次いで長く吐き出される。
「どうですか」
「……さっきより、ましだ」
私はほっと息をついた。手は震えていたが、見せないようにする。
「完全には無理ね」
「分かってる」
「でも、何度か見れば癖は分かるかもしれません」
「癖?」
「壊れ方には癖があります。人も機械も」
「俺を機械と同列にするな」
「城核の前で暴れるなら、半分くらい機構みたいなものです」
「ひどい言い草だな」
「本音です」
横で見守っていたミレイユが、ふっと笑った。地下で初めて見る、少しだけ自然な笑顔だった。
その時、台座の奥の継ぎ目の扉が、わずかに開いた。人が一人通れるかどうかの隙間。中から冷たく乾いた風が吹く。
『部分認証が完了しました』
ハクが言う。
『深部への仮接続が可能です』
「仮、なのね」
『現状では危険』
賢明な判断だ。レオンハルトの腕がこの状態で、これ以上深く潜るのは良くない。
「今日はここまでにしましょう」
私は立ち上がった。
「得たものは十分あります」
「賛成だ」
イザークも珍しく即答した。
帰りの階段で、レオンハルトがふいに言った。
「さっきのこと、誰にも言うなとは言わない」
「でも、広めてほしくもないでしょう」
「そうだな」
「なら、必要な人にしか話しません」
すると彼は、少しだけ歩調を緩めた。
「お前はそういうところだけ、妙に信用できる」
「だけ?」
「だけ、だ」
「失礼ですね」
「事実だ」
その声には、ほんの少しだけ軽さが戻っていた。
地下から地上へ戻ると、灰冠城の空気がやけにあたたかく感じた。ほんの短い探索だったのに、見つけたものは大きい。
城核へ繋がる封鍵庫。
三つの認証。
レオンハルトの呪い。
そして母が本当にここで何かを守ろうとしていたという証拠。
壊れた城の奥は、やはりただの廃墟ではなかった。
その夜、私は見張り灯の揺れる夜の回廊でしばらく足を止めた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、片づけきれなかった小さな道具の重みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、片づけきれなかった小さな道具の重みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は『灰冠市場、初日』です。少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




