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 ドタバタと騒がしい音が近づいてくる。走らないでと警官が叫んでいるが、言われた本人は急には止まれないらしく、派手にこけた音がした。


「お前、なにやってんの」

「勇さん!!」

 

 騒がしい原因の男、根岸は、俺の顔を見るやボロボロと涙を流して泣きだしてしまった。


「いさ、勇ざんんっ」

 

 ズルズルと鼻を啜りながら抱きついてこようとしたので、さっと避けた。涙だけならともかく鼻水までなんて冗談じゃない。ポケットティッシュを渡した。

 苦笑する警官に促され個室へと戻る。泣く根岸をソファに座らせた。

 隣に座ったものの、べったりと根岸がくっ付いてきて鬱陶しいったりゃありゃしない。しかし邪険に扱えなかった。

 怯えているのだ、根岸は。

 大きな体を小さくして、ぶるぶると震えている。仕方ないと背中をさすってやった。

 近くの警察署の一室。まさかこんなところに来ることになるなんて、思いもしなかった。

 結局俺は、完全にこいつの面倒事に巻き込まれていたのだった。


 根岸が泣きやむのを待って、警察官が口を開く。

 先ほど、アパートの前で起こったこと。女性の話、根岸との関係。女性が自ら自白したことの確認と裏付け。

 バイトを休む羽目になってしまったが、こればかりはもう諦めるしかない。

 簡潔に言えば、根岸は既婚者だった。あの女性は根岸の妻だった。

 ただ、円満な夫婦生活というものは一切なかったそうだ。

 仕事へ行く以外はマンションの一室に監禁、逆らえば暴力の日々。

 最初は抵抗していたようだが、女性が自分の兄だという男を連れてきてからは一切抵抗できなくなったらしい。

 あの時はどうかしていたんだという根岸の言葉が、心に刺さり痛い。

 結局、新婚の一年を妻からのDVと男からの暴力に耐えたのち、たまたま配達にきた宅配便の男性の「逃げろ」という一言によって我に返り、目が覚めた根岸はそのまま脱走、そして成功。

 しかし、逃げ切れたものの無一文の身。仕事に行くこともできないし、住所不定では新しい仕事を見付けることすらできなかった。仕事がなければ住む場所も得られない。

 ひと月かけてこの街までやってきて、もう駄目だと思った時に俺に拾われたらしい。

 追いかけてきているかもしれない妻と、妻の兄の影に怯えながら……それでも毎日笑顔で、あんな風に俺に甘えていたのだ。

 運が良かったと言っていいかもしれない。


「その宅配便の人のおかげですね」

 

 警察官が言えば、コクンと静かに頷いた。

 いつも通り妻に命令され、荷物を受け取るために玄関に出たのだそうだ。たまたま着ていた服が痩せたせいでぶかぶかになっていたおかげで、宅配便の男性は根岸の体にある多くの痣や怪我に気がついた。

 彼の咄嗟の機転で簡潔に筆談で会話した結果、何もわからない、考えられない状態でもなんとか家を飛び出して逃げることができたのだから。


「あと、杉田さんにも感謝しなくちゃいけませんよ」

「はい」

 

 根岸がこちらを見る。俺は視線を逸らした。

 正直、こんなにあっさり解決するとは思っていなかった。警察がこんなにすんなりと行動に移してくれるとも。

 最初に、なにかあった時のためにと念のため撮っていた写真が、本当に証拠になってしまった。

 あの時は、根岸が悪人だった時のためにと撮ったのだが……こんな結末になるとは。


「ありがと、勇さん」

「……別に」

 

 礼をすんなり受け入れるには、ちょっとバツが悪い。疑っていたのだから。


 あとで聞いたところによると、自称兄という、妻の愛人である男の裏切りで女性はヤケを起こしていたらしい。当たり散らす相手と金づる欲しさに探偵を使って根岸の行き先を突き止めて……御用となった。

 根岸は本当に運が良い。

 

 さぁ、これでもう面倒事は終わったのだ。

 何度も何度も警察官に頭を下げる根岸の背中を見つめながら、じくじくと切なく痛む心と寂しさに気付かない振りをして、蓋をした。


 翌日から、俺はみっちり仕事を入れた。

 コンビニだけじゃない。夜間のパチンコ屋の清掃もスーパーの清掃の仕事も、可能な限り入れ込んで、がっつりと働いた。

 根岸は相変わらずのようだが、心配ごとがなくなったおかげで今までより一層明るくなり、評判も上々、時給も上がったのだという。

 たまにハローワークにも行くようで、きちんと前を向いているようだ。

 風呂と着替えのためにアパートへ帰ると、メモが残されている。

 俺の体の心配と、今日あったことの報告。

 元妻との離婚や裁判への準備など、様々なことが小さなメモ用紙いっぱいに書かれていた。

 大変なようだが、充実しているようで安心する。

 離婚も裁判も本来なら精神的に辛いものだそうだが、相手が自棄くそにあっさり罪を認めている分、まだ楽なようだ。根岸の性格もあるだろうが。

 そのメモ用紙を折畳み、引き出しにしまう。

 いつからかこうやって残しておくようになった。女々しい。 

 そう、あいつが前向きであるのに、俺のほうは未だに鬱々と後ろ向きであった。

 そりゃ後ろ向きにもなりたいってもんだ。

 あんなに頼られてべったり甘えられて、勘違いしてしまいそうになっていたことに気がついたのだ。

 あいつはノーマル。妻がいたのだ。

 既婚者だと知った時、背筋がぞっとした。

 怖かった。魅かれていたのだ、根岸に。いつの間にか、完全にあいつに落ちていた。

 ひどくフラれた日に出会ったせいかもしれない。頼られて甘えられて気分良く、無意識のうちに優越感に浸っていたのかもしれない。

 どちらにせよ、異性愛のやつが俺なんかに惚れられれば気持ち悪いだろう。

 同性愛を肯定し認めていると豪語するやつでも、自分が当事者になれば否定するなんてこと、ざらなのだ。それで裏切られ、泣き寝入りする同志も多い。

 気付かれないうちに、諦める。

 できる限り早く出て行ってもらって、俺もあそこから引っ越しする。もちろん行き先は言わない。

 そうやって、離れなければいけない。

 引き出しから、名残惜しいが手を離し、部屋を出る。

 これから夜の十時までコンビニでバイト。そこで少し仮眠を取ってからパチンコ屋の清掃だ。

 こんなことしかできない自分が恥ずかしくて、情けなかった。

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