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「勇さーん!」

 

 重い買い物袋を持ちながら商店街を出たところで、知っている声に名前を呼ばれた。

 立ち止り視線を向けると、嬉しそうに男が駆け寄ってくる。

 白いシャツに茶色のギャルソンエプロンを付けた男は、今朝家を出たときとは違う髪型をしていた。

 捲くられた袖から見える腕にはもう、青痣も切り傷もない。脂肪だけでなく筋肉もしっかりついてきていて、内心ほっと安堵した。


「お前、仕事中だろ」

「うん、でも大丈夫だよ~。ほら」

 

 男は大量のチラシを抱えている。


「お店のチラシを配ってるんだよ」

「へぇ」

 

 それよりも俺は早く帰りたい。夕方からまた仕事だ。


「ね、俺の髪、似合うかなぁ?」

「あぁ、いいんじゃないか?」

 

 見上げてなるほどと納得する。これを見てもらいたかったのだろう。ふわふわの黒い毛を爽やかにセットされている。


「オーナーの娘さんが美容師でね、いつもセットしてくれるんだ」

「ふーん」

 

 なるほど。手の中のチラシといい無料で髪をセットしてくれることといい、やっぱり女性オーナーの見抜く力はすごい。イケメン効果で売り上げも上がっていそうだ。

 最初はこんなのんびりした喋り方で大丈夫かとひそかに心配していたが、杞憂だったようだ。


「じゃあ、仕事頑張れよ」

「はいっ」

 

 嬉しそうな返事をした男に軽く手を振り、その場を去る。

 後ろから女性の声がして、彼が返事を返していた。

 そうだった、あいつの名前は根岸だったか。

 少しの間だけだからと右から左に流していた男の名前を思い出し、なんとなくムズムズとした。

 根岸と出会ってから二カ月。

 付き合っていたやつにこっぴどくフラれてから二カ月。

 時が過ぎるのが早くて、自分が普通に生活していることに、なんとなく気持ちが荒む。


 角を曲がりまっすぐ進む。自分が住むボロアパートの前には昔ながらの不動産屋がある。前に張り出された紙にはいくつか気になる物件があった。

 しかし、どの物件を借りるにしても安定した職業が必要だろう。鞄の中の財布があまりに軽過ぎて厳しい。ちゃんとした部屋への引っ越しは、当分先のようだ。

 ガチャリと鍵を上げて家の中に入った。すぐ目の前の折畳みテーブルの上にはメモが一枚置かれている。

 おかえりなさいとの一言から始まったそれには、意外にも綺麗に整った文字が書かれている。

 夜勤からすぐに別のところで夕方勤務の俺の体を労わる言葉と、家事をやったという報告。文字には褒めて欲しいという感情が現れ出していて、思わず笑ってしまった。

 顔を上げて見渡してみる。根岸が来る前と変わらない部屋だ。

 相変わらず物がなく、先週、ついにテレビが壊れてしまった。

 冷蔵庫の中に買ってきたものを押し込む。

 根岸のおかげでコーヒーのランクは上がった。店からいただくそうだ。

 一度挽いてしまった豆は酸化するため翌日に回せない。そう言われていつも貰って帰ってくるのだが、それは女性オーナーがわざとそうしているのがよく分かる。味を覚えろということだ。

 その豆を頂戴して、コーヒーを淹れた。

 ゆっくりと味わいながら、窓の外を見る。

 俺は今後、一人で暮らしていけるのだろうか。

 心配になった。あまりにもあの男との暮らしが心地よくて。

 初めてだったのだ、他人と一緒でこんなにも穏やかに時を過ごせるのか。

 完全に情が湧いた。素直なあいつに絆されたのだ。

 それに、初めてだった。あんな風に頼られるということが。厄介ごとを背負う俺には、誰も傍に寄ってこなかったから。

 畳まれた布団に顔を埋めた。あいつの匂いがする。疼く体を無視して、ただ深く深呼吸した。

 自分の性癖が嫌になる瞬間だ。そんなつもりはなかったのに。

 勢いよく布団から離れ、起き上がった。涙が込み上げそうな目元にぎゅっと力を込めて堪えた。


――カタン

 

「――っ!」


 玄関から音がして、驚いて顔を上げた。

 カンカンカンと勢いよく階段を駆け下りていく音が、外からする。

 お隣に誰か引っ越しでもしてきたのか、それともチラシ配布か。

 ボロアパートに防音設備などない。うっすい壁やドアは雨と風を防ぐだけ。


「焦った……」

 

 こんなところ、根岸に見られたら完全にアウトだ。

 気をつけようと腹に力を込めて立ち上がり、夕方の勤務に向けて家を出た。




「あー、もう駄目だ」

「勇さん、大丈夫?」

 

 三日連続の夜勤、日勤を終えて、ぐったりとベッドに沈みこむ俺の傍で、心配そうにしている根岸の手には粥の入った皿があった。

 口を開くのも億劫なほど疲れているので、目だけでそれをどうしたのかと問う。こいつは未だに料理ができないでいる。


「勇さんが風邪引いたんだってオーナーに喋ってたら、店で作ってくれて」

 

 なるほど、そういうことかと皿をチラリと見てから目を閉じた。

 シンプルだが質のいい輝きを放つ陶器など、我が家にはない。カフェで使用されているものならば納得だ。

 女性オーナーのかわいがりっぷりが目に浮かび、小さくため息をついた。


「ホントに大丈夫? 俺、仕事休めるよぉ?」

「大丈夫だって。単に寝不足で疲れてるだけだ。寝たら熱もすぐ下がる。お前は、ガンガン稼いで早く出ていくことだけ考えてろ」

 

 冷たく言い放っても、この大型犬には通じない。シュンと落ち込むもすぐに復活するのだ。


「わかった! たくさん稼いで、早く楽にさせてあげるからねぇ」

 

 俺はお前の親じゃないという突っ込みをするのも面倒だった。

 しっしと手で追いやって布団を被ろうとした時、またしても玄関からカタンと音がした。


「ん~? 誰か来たのかなぁ」

 

 根岸が立ちあがる。放っておけと言ったが聞こえなかったようだ。

 ガチャリとドアを上げて確認した根岸は、そのまま静かにドアを閉めた。


「あの」

 

 小さな声が震えているのに気付き、布団から顔を出した。


「どうした。どうせ同じ階の人か、セールスだっただろ」

 

 音がダダ漏れなのだ、仕方ないのだからいちいち気にするなと告げてやるも、根岸は困惑に眉を下げたままだ。

 根岸の表情を見て、ちり……と、首の後ろが痛む。嫌な予感だ。


「覗いてた、誰か。目が合ったんだ」

「そうか。ボロだから珍しかったのかもな」

 

 廃屋と間違えられたんだろという俺の言葉に納得していない顔だが、それ以上言うことはなにもない。


「明日は早朝だから。寝るぞ」

 

 それだけ告げて、布団に頭まで潜り込んだ。

 面倒事の匂いがする。今の状況でそれは本当によくないことだ。

 根岸との生活が心地よいと感じている、この状況では。



 それから一週間。根岸はいつもと同じように見えて、どこか落ち着かない様子だった。

 何をするにもまずきょろきょろとあたりを見渡していて、バイトに行く時はサンプルでもらったというマスクをし、音に敏感になった。

 本人はいつも通りに過ごしているつもりのようだが、馬鹿だ。気付かないわけがない。

 それに俺は、毎日決まった時間に玄関からカタンと音がすることにも気がついた。

 同時に、外の階段をヒールのような靴を履いた人間が下りていく音も。

 覗かれているのだろう。

 誰が、何のために。

 なんて、心当たりがある俺はあえてそのままにしておいたが、家族からの暴力でここに逃げてきている根岸のことを思えば、対処してやったほうがいいかもしれない。

 面倒だと思ったが、あいつの顔が曇るのを見たくなかった。


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